東の渓谷2
身を潜ませ、森の中をできるだけ素早く駆け抜ける。渓谷が近づくにつれ、足場に岩場が増えてきた。湿気が多い森の中は、岩場で滑りやすくなる。
グレイの後ろにぴたりと付いて来ているのは、副官ジュネスだ。その後からそれぞれに武器を構えた兵士たちが呼吸も乱さず駆けてきている。
さすが実地で訓練を続けてきた自慢の兵たちだと、こんな状況にもかかわらず、思わずグレイはその瞳に自慢げな光を宿した。もちろん、周りには兜で見えていないのだが。
「副隊長、この先にある灌木の向こうで、敵兵隊がいたとの報告です」
「わかった」
ジュネスの押し殺した声に頷くと、手を挙げて兵たちを止める。そして指先と手首の動きだけで指示を出し、ジュネスには目配せするだけに留めた。
静かに、息を殺して気配を絶ちつつ進む。その速度は先程までのスピードと段違いだ。鎧が擦れ合う音にすら神経を研ぎ澄まし、じりじりとした歩みで目的地を目指す。
―――おかしい。静かすぎる。
敵兵には歩兵だけでなく、騎馬兵もいると報告されていた。人がどれだけ気配を絶てたとしても、馬は無理だ。あの神経質な生き物は、騎乗している存在だけでなく、周りにいる存在が緊張状態になっているだけで、自らも緊張して興奮してしまうような繊細さをもつ。
歩兵、弓兵、騎馬兵のすべてがそんな一流の兵士で、馬までもが?ありえない。
グレイは顔を上げると、近くにいた精霊に渓谷に向かって飛んでもらうことにした。そして馬を攪乱してくれるように願い、視線を向ける。精霊たちはそれだけで信頼している【精霊士】のことを理解してくれるのだ。
精霊は一直線に渓谷の窪みに飛んでいき、そしてそのまま戻ってこない。
馬の嘶き一つ聞こえない。風の音と、虫の羽音だけが耳に届く静かさだ。
―――まさか。
「全員立てっ!」
突然声を上げて立ち上がったグレイに、ジュネス以下兵士たちは目を見開いた。敵兵間近だというのに、自殺行為だ。
しかし兵士たちの戸惑いを無視し、グレイは隠密行動を解除して渓谷の窪みに向かって走り出した。そのあとを慌てて兵士たちが追いかけてくる。
「グレイ様……いや、副隊長!どうされたんですかっ」
「あいつらは、戦いに来たんじゃない!そうじゃなかったっ」
生い茂る草木を剣で薙ぎ払い、グレイはただ進む。進むごとに森の悲鳴が聞こえてくるようだった。森と精霊は繋がっている。森の悲鳴は精霊の悲鳴。嘆きと悲しみが、一歩進むごとに深まっていく。
精霊を感じられない人々にはわからないのだろう。この声が。
なぜ聞こえない。なぜ感じられない。
彼らはこんなにも、こんなにも嘆き悲しみ慟哭しているというのに―――!
息を切らせて辿り着いた渓谷は、赤く染まっていた。
みすぼらしい格好の人々が、矢で射られ倒れていた。ある者は深い刀傷を負っていた。どの原因が死因なのか、判別ができない者もいた。ただ一様に血を流し、森を赤く染めている。
「これは……」
ジュネスは凄惨な光景に足を止めてしまう。20人……いや、報告にあった歩兵30というのは彼らのことかもしれない。
どこにも弓兵の姿も、騎馬兵の姿もないのだから。ただ惨殺の跡があるだけだ。
空を見上げてもどんよりとした曇り空が、森の木々の隙間から見えるだけだ。そういえば、朝から雨だと精霊が騒いでいた。
「―――息があるものが、いるかもしれない。救護を……致命傷であれば、はやく楽にさせてやれ……」
「は、はい」
グレイは副官に指示を出すと、一人さらに森の奥へと歩を進めた。さきほどから精霊が呼んでいる。いつも飛び回っている精霊ではなく、駐屯地で馬の耳にしがみ付いていた、見知らぬ精霊たちも一緒にだ。もしかしたら、あの時すでに助けを求めに飛んできていたのかもしれない。
「くそっ……」
精霊たちに導かれるように進んでいくと、柔らかな草木に受け止められるかのように一人の男が倒れ込んでいた。その体を覆うように、精霊たちが縋り付いている。
タイプの違う精霊同士が囁きあっているように見えた。
森の悲しみは理解できても、人の悲しみはわからない。
森の苦しみは理解できても、人の苦しみはわからない。
同種との意思疎通はできても、人と交わることを望まない。
同種との別れは新しく生まれ変わることと同意だから、人との別れの意味は認識できない。
それが精霊。
それが人とは違う、精霊という生き物であり概念。
それなのに、ずっとそうだと思っていたのに。
なぜ彼らはこの、ぴくりとも動かない血まみれの男に縋り付いているのか。
「……すまない、彼の状態を確認したい。触れてもいいか」
グレイの言葉を理解したのか、もしくは通じ合ったのかわからないが、それでも精霊たちは波が引くように男の体から離れていった。
仰向けに倒れていた男の傍に寄り、状態を確認する。歩兵用の装備すらない、ただの布の服だ。肩に矢が食い込んでいる。足は別の方向を向いていた。太い腕には刃の傷が多数あり、胸元にも深く大きな傷があった。この様子では、見えない背中側にもなんらかの傷があることだろう。
肌はすでに生気を失い、土気色に変化しようとしていた。
「手遅れ、か……」
精霊に愛されたであろう男を前に、グレイは唇をかみしめた。
きっと隣国の【精霊士】だと、直感したからだ。それも、自分よりはるかに精霊に愛された存在だっただろう。死の淵に立ってなお、こんなにも精霊に愛され慕われているのなら、生前はどれほどの使い手だったことだろうか。
もしかすれば、自分の師に匹敵する使い手だったのかもしれないと思えば、さらに敵国が憎くなる。【精霊士】を無駄に毛嫌いしているあの愚王を許してはならないと強く思った。
「せめて、手厚く埋葬だけでも―――こ、れは……」
男の腕に触れてようやく気が付いた。
「生きている……!」
血の気がなく勝手に死体だと勘違いしてしまっていた。あるまじき失態である。
慌てて男の気道を確保し、口元に少量の水を流し込む。その冷たい感覚が意識を刺激したのか、男がうっすらと瞼を開けた。
「わかるか。俺も【精霊士】だ。生きろっ!」
ロットウェルでは【魔法士】と呼ばれているが、ドルストーラでは【精霊士】と呼ぶ。耳触りのいい【精霊士】のほうが、男の意識を取り戻せると思ったのだ。
「精霊たち、力を貸してくれ」
そして【魔法士】として力を発動しようとしたとき、男の腕が持ち上がり、グレイの動きを止めた。
「なぜ止めるんだ」
その時気づいた。
男の眼にはもう、なにも映ってはいない。ただ、誰かがいるということだけが分かるだけ。
血のこびり付いた口をゆっくりと開き、荒く小さい呼吸を繰り返した。
「……に―――れ…を……」
震える左手を持ち上げようとしていることが分かり、グレイは咄嗟にその手を取った。何かが握りこまれているのが分かる。硬直が始まっているのか、ただ動かせないのかわからない。けれど、男は手のひらを開けたがっていることだけはわかった。震える指先を包み込み、ゆっくりとこじ開けていった。
その中にあったのは、汚れと血の染みついた小さな巾着。
元は花柄のようだがくすんでしまっていて、その模様ははっきりと見えない。
「ライ……ナ……た、―――プレ……―――に……」
「ライナ?ライナという娘へ?渡せばいいのか」
聞き取れたであろう名前を告げると、男は安心したように目を閉じ、そして全身の力を抜いた。
目の前で今、精霊に愛された男が一人森に還っていった。
森に還ったのは、あの人です。
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