割れる音
残酷な描写がございます。ご注意ください。
うつぶせで倒れていたバズは気絶していたが、死んではいなかった。体中に走った痛みと本能的な恐怖がバズの意識を飛ばしたのだろう。マストの足元でバズが倒れていると報告してきた男に、ガードロスはも思い切り顔を顰めて立ち上がると、大股で現場へ赴き確かに倒れ込んで動かないバズを見つけた。
「どうなってやがる」
思わずマストを見上げるが、暗くてその先は何も見えなかった。月明かりにぼんやりと人影が見えるだけで、それが誰なのか確認する事までは不可能だった。
「おい、上にのぼって来い。抵抗するなら殺せ」
命令に従い、男が一人マストに手をかけた。細い上り梯子は、体格のいい護衛の男には狭く、手早く上り切るには時間が掛かりそうだ。ガードロスは次に甲板に倒れて動かないバズに目を向けると、その体を軽く蹴った。
「……う……」
「起きろバズ」
だがそれくらいの衝撃ではバズの意識は浮上せず、微かなうめき声が聞こえて来ただけだ。ガードロスは素早くバズの全身に視線を走らせ、妙な方向に向いてしまっている左足を激しく蹴りつけた。
「ぎゃあぁあ!」
激痛にバズの目が見開かれる。そして痛みと衝撃が合わさったことで、一気に噴き出す脂汗。震える手で痛みの元である左足を抱えるように身を捻った。
「いてぇ……いてぇ……」
涙は出ていないが、それでも歯を食いしばり顔を歪めている。そんなバズの姿になんの感慨も受ける事無く、ガードロスは呻くバズの頭を靴裏で押さえつけた。
「バズ、俺に言う事は何もないか」
「っ……ボ、ボス」
「てめぇ、なんでここに転がってやがる。物見台にいるのは誰だ」
吐き出された言葉に、バズはようやく状態が理解できたようだった。先程まで突然の激痛に身もだえ、そして頭上から降ってきていたガードロスの声音に現状把握が追い付いていなかったのだ。冷静になれば、物見台にいたはずの自分が床に転がっているのはおかしい。
ようやく思考が回転し始め、バズは顔を歪め怒気に染めた。
「ボス、物見台にいるのはガキだ!女のガキが後ろから襲ってきやがったんだっ」
そう叫ぶバズの頭には、変わらずガードロスの靴裏があったが、目を血走らせ怒声を上げるバズは気にしていないようだ。ボスであるガードロスが部下を思いやる上司ではないのを分かっているのも一因だろう。
「ガキ、か……」
ガードロスはぽつりと小さく呟くと、バズの頭に合った自身の足をどけ―――勢いをつけてバズの頭を蹴りつけた。
「がぁあっっ!」
側頭部を直撃されたバズは、折れた脚から手を離し、思わず両腕で頭を守るように抱え込んだ。本当は立ち上がってガードロスと距離を取りたかったのだが、折れた片足ではすぐさま立ち上がる事も出来ず、そして物見台から落ちた衝撃で全員打撲しており、とても素早く動くことが出来る状態ではなかったのだ。
「ガキだと?しかも女のガキ。おい、バズ情けねぇぜ俺は」
「すまねえボス、許してくれ!」
生理的な涙が浮かび上がり、視界が歪む。
ガードロスと距離を開けるように痛む体を引きずり距離を取ろうとするが、その逃げるような態度が気に食わなかったのだろう。勢いをつけて振りかぶられた爪先が、バズの腹に食い込んだ。
「ぐ、かはっ!」
口の端から胃液交じりの唾液が流れるのもそのままに、バズは片手で腹を抑え、もう片手で頭を庇いつつ体を丸めて苦痛に耐えるしかなかった。激しく咳き込み続けるバズの傍に、ガードロスは中腰でしゃがみ込む。
「両手は無事みたいでよかったなぁ、バズ」
片足は折れている。全身も痛い。けれど両手だけは無傷に近かった。
「射手で命拾いしたな。どっちか手が使いものにならなくなってたら、この時点で死んでたぞ」
「……っ!」
淡々と告げられた言葉の意味を理解し、バズは戦慄する。それと同時に言葉通り『命拾い』したのだと実感した。役に立たない者は始末するのがガードロスという男だ。射手として行動を共にしている自分が、もし弓引けない状態になれば―――ガードロスは容赦なく切り捨てるだろう。何の感慨もなく。
「てめぇは報酬なしだな。命あっただけ有難いと思え」
「……はい」
甲板に転がったままであったが、バズが素直に返事をしたのを確認すると、ガードロスは厭らしく口を歪めにやりと笑った。そしてもうバズには興味をなくしたのだろう、頭上を見上げのろのろと登っていく護衛の姿を見やった。
「おせぇぞ、とっとと登れ!」
「うぃっす」
男の手は、物見台のすぐ下まで迫っていた。
ライナは背筋に走った震えで、弓に集中していた意識を途切れさせた。無心で弓を射続けてきたため、腕と肩が痛い。久しぶりの弓矢ということもあるが、状況と場所が緊張を生み、余計な疲れている気がした。
射ようとしていた矢を下ろし、思わず背後を振り返る。
―――なにもない、よね。
けれど背筋に走ったあの寒気は何だったのだろう。思わず下を見そうになったが、自分が先程物見出しから落とした男が死んでいる姿を目の当たりにするのが怖く、ライナは首を振ってその行動を押しとどめた。
―――いまはグレイ達のことを……
そう思い意識を再び船首方向に向けたとき、物見台の床に大きな手が伸びて来た。矢を射ようと意識を集中し始めていたライナはその手には気づかない。
大きな手の持ち主は、案の定ガードロスの護衛をしていた大男で、狭い上り梯子をのろのろと登り切って来たのだ。図体は大きかったが、見た目で想像するよりも俊敏である。
男はゆっくりと体を持ち上げ、物見台の中に体を滑り込ませた。元々が狭い物見台に、体格に大きな男が紛れ込めば、どれほど気配を消していたとしても違和感を感じざる得ない。実際、ライナは再び背後に寒気―――いや、これは威圧感だろう―――を感じ取り、矢を番えたまま素早く振り返った。
「!」
振り向くと同時にバズの時と同じく攻撃に移ろうとしていたライナだったが、それは果たされない。男に振り向き様、矢を握りこまれてしまったのだ。その上、ぎりぎりと力を籠めたられた矢は、半分ほどに折られ矢としての攻撃力を失くしてしまった。この状態で射ったとしても、矢じりの付いていない矢では男にダメージは与えられない。
「―――っ」
ライナは握りこまれ壊された矢をあっさりと放棄し、矢筒の中から新しい矢を取ろうとしたところで、男が伸ばした腕に囚われた。腕を掴むでもなく、男はまるで荷物のようにライナを小脇に抱えたのだ。小柄なライナの体は浮き上がり、恐怖と嫌悪感が湧き上がってくるようだった。
「ボス、メスガキがいたぜ」
ライナは男を蹴ったり、弓で殴りつけたりしてみるが、大男は微塵も痛みを感じていないのだろう。特に声を張り上げるでもなく、物見台から下の甲板に向かってライナの存在を報告した。
「面倒だ、そこで殺して降りてこい」
ガードロスの適当な返事が耳に届き、ライナは男の拘束から逃れようと、一層激しく動いた。だが男の腕の力は弱まらず、それどころかライナの抵抗を楽しんで風ですらある。
「物見台が汚れますぜ」
「首を捻りゃいいだろうが」
「……!」
下に向かって投げかけられた言葉に対し、ガードロスから返された物騒な内容にライナの表情が凍り付く。確かに男の大きな手であれば、ライナの細い首など片手で絞められるだろう。
ライナはもはや弓も手放し、男の拘束を解こうと両手を使ってもがくしかなかった。しかしライナの手は小さく、短く切り揃えられた爪は、男の肌を傷つける事もかなわない。
「【精霊士】じゃなけりゃ、もっと長生きできたのにな」
「っ!」
男は小脇に抱えたままのライナに視線を向け、少し目尻を下げて小さく告げた。そしてその言葉はライナの胸を深く抉る。
【精霊士】でなければ、自分より小さな子供が犠牲になることも、そもそも連れ攫われることも無かった。そして元をただせば―――【精霊士】であった父が殺されることも無かったのだろう。あの故郷の村が襲撃されたのは、きっと父ディロが目的だった。なにもかもが、【精霊士】でなければ今の事態にはならなかったのだと告げている。
ゆっくりと伸びてくる手から、ライナは逃れる術がない。
―――でも!
家族の悲しい不幸があったけれど、それでも……だから今がある。故郷を失くし、家族を亡くし、声を失って、それでも―――!
―――グレイっ!
グレイに会えて、包み込んでくれるように甘やかされて、頭を撫でてくれた。マナーを教わり、勉強が許される環境も与えてくれた。
大切に、大切にしてくれた。
―――わたしはまだ何も返せてないから……まだ死ねない!
大きく温い手のひらがライナの細い首に回され、喉を圧迫するよう締め上げられる。
―――死ねない……死んでられない……っ
呼吸ができない。意識が薄れていく感覚。ギリギリと締め上げられ、首への圧迫感がさらに増そうとしたその時、男の手が止まった。
「ん?」
男は軽く首を捻った。力を込めているのにそれ以上手が動かないのだ。それどころか意思に反して徐々に指が開いていく。
バンッ
それに呼応するかのようにすぐ傍で小さな破裂音がした。視線を向ければ、ライナの腕輪が砕け散っている。粉々に砕けた腕輪の残骸が物見台の床に散りばめられていた。
「割れ―――」
男は言葉を最後まで口にすることは出来なかった。凶器と化した風が刃となり、男の首をはね落としたのだから。
お待たせしまくっててすいません。
あと数話で片付くと思っているんですが、この進みようではちょっと…ごにょごにょ