乱戦の中
残酷な描写がございます。
ご注意ください
男―――バズは喉元に当てられた冷たさを感じ、初めて背後に誰かがいる事を知った。そろりと視線を下に向ければ、華奢な手とナイフの煌めきが見える。動揺は一瞬だけ。考えたのはこの事態をどう対処するかという、焦りのない気持ちだった。
照らされたランプの光に浮き上がる華奢な手は、決して淑女の物ではなかったが、荒事に慣れた人物の物ではなかった。ナイフを持つ手が震えていない事が気になったが、それだけだ。弓を射る自分を制止させる目的を感じ取れるだけで、殺してまで止めようとしているわけでは無い。その意思が透けて見えるのだ。
「なにが目的だ」
低い声で問いかけるが、背後から返答はない。
この華奢さは若い男―――?いや、それにしては節くれが少なすぎる。という事であれば女。いや、少女か。
今この船に集められているだろう【精霊士】の子供たちの内、誰かがここまで昇って来てナイフを突きつけていると考えた方が早い。それにしてもこの荒れた甲板を進み、高さあるマストを登って来たという事をバズは感心していた。
「要求はなんだ?早く言わねぇとボスに気付かれるぜ」
そう伝えると、ナイフを持つ手が無言で強張ったのがわかった。揺れの大きなマスト上から的を狙うのはそれなりに時間が掛かるものだ。乱戦が始まってからまだ5本しか射られていないのが、暗闇という事と、敵味方が入り乱れすぎてて的が絞れない事だとガードロスも理解している。だから多少遅くなっても何も言わないだろうが、あまりにも時間が掛かれば不自然に気付いてマストを見上げるだろう。
「……お返事が無いってのは、反撃されても文句はねぇってことか」
低く言葉を発した直後、バズは勢いよく頭を後ろに振った。予測が正しければ自分の頭の後ろに、相手の顔面があるはずだったからだ。そしてそれは正しかったようで、ごつん、という鈍い音が響きナイフを持つ手が首筋から離れていくのが見えた。
バズは射ろうとしていた矢を持ち替え、相手に向けて振りかぶる!だが、それを見越していたようにナイフが煌めき、矢の先端を叩き釣れるように折られてしまった。
「……なかなかやるじゃねぇか、お嬢ちゃん」
折られた先端は辛うじて繋がっており、矢じりを付けたままぶらぶらと揺れている。バズは使いものにならなくなった矢を見、一瞬の判断と動作でそれを成した少女―――ライナを見た。
ごつん、という鈍い音はライナの額に当たった音だったようだ。皮膚が裂けたのだろう、赤い血筋が顎の下まで流れて来ていた。相当の痛みがあるだろう傷に、それでもライナはあえて意識を向けずにバズを注視していた。
「あの衝撃でナイフを手放さなかったとはな」
その判断力と瞬発力は普通の生活を送っていて培えるものではない。
ライナとバズは狭い物見台の中で対峙していた。時折吹く風がマストの上の二人を大きく揺さぶる。不安定な足場の中、最初に動いたのはバズだった。ライナの手の中にある煌めきに恐れもせず、その腕を掴もうと伸ばされた腕。反射的にライナはそれ腕を避けるためナイフを振り回すが、咄嗟の動きに隙が生まれる。振り上げた形になった腕を易々と掴まれそうになり、ライナは慌ててしゃがみ込む。その動きはバズには予想外だったのだろう。突然視界からライナが消えたことにより、勢い余って掴もうとしていた腕が空振ってしまう。そして一瞬バランスが崩れたところで、突風が吹き荒れた。
物見台にはせいぜいが腰辺りまでの柵しかなく、咄嗟にしゃがんでいたライナはともかく、立ったままバランスを崩したバズは突風に煽られ物見台から滑るように甲板に落ちていった。
悲鳴は風に掻き消され、落ちた音すらも乱戦の音と男たちの声、そして突風により甲板の箱などが倒れたりした物音で掻き消されていた。物見台にあった明かりも消えてしまったが、身を隠すためには消えても支障が無い。
ライナは恐る恐る下を覗き込んだが、暗闇の中には何も見ることは出来なかった。それがせめてもの救いだ。
「さっさと明かりをつけろ!暗くてならねぇ」
ガードロスのがなり立てる声が聞こえるが、ライナの意識はすぐに乱戦している方へと引き戻された。ガードロスの付近や、物見台のランプは先程の突風で消されてしまったが、グレイ達のいる付近の明かりは消えていない。それはあの光が精霊によるものだということだろう。恐らくどこかに光の精霊を操れるものがいて、乱戦している場所の光は確保しているのだと思われた。
―――あの場所だけ明るいなら……。
手元が暗くても大丈夫。狙う場所さえ照らしてくれているのであれば、ライナが放った矢はその先へと届くだろう。
―――わたしにできる事は、これしかない!
瞬時に狙いを定めたライナは、弓を引き絞ると迷いなく矢を解き放った。
吹き荒れた突風に、甲板で乱戦を強いられていた男たちは思わず身構えやり過ごした。下手をすれば将棋倒しにもなりかねない程の強い風であったが、グレイ達に被害はなく、敵側には多少の混乱が起こっただけだった。それでも男たちの意識がわずかでも逸れたのは僥倖だ。その隙を見逃さず、グレイは畳みかけるように男たちに攻撃を加えていく。出来るだけ命を奪う事まではしたくないが、現状その甘さは命取りだ。すでにグレイの剣、ジュネスの剣共に男たちを切り裂いた血で染まり、その重みを増していた。
そろそろ切れ味が悪くなった愛刀を捨て、敵から出来の悪い剣を奪う頃合いかと思っていた時―――体格の大きな男が、グレイの動きを封じ込めようと両手を広げ覆いかぶさって来た。見ればすでに傷だらけで、腕や足から血を流している。
命を掛けてでもグレイを抑え込もうというのか、素手で襲い掛かってきた。突進する勢いで向かってきているため、突き刺したところであの勢いは止まらない。ならばと男の肩から脇腹までを切り裂こうと剣を振りかぶったが、そこで恐れていた事態が発生した。
「ちっ!」
切れ味の悪くなった刃は男を切り裂くに至らず、男の厚い胸板に阻まれるようにそこで動きを止めた。
「ぎゃあぁあ!」
すっぱりと切り裂かれるよりもある意味、壮絶な痛みが男を襲う。肺にまで達しただろう傷口から血があふれ出る。あまりの絶叫に囲んでいた男たちも踏鞴を踏んだ。血泡を吐き、男はそれでもグレイに手を伸ばす執念を見せる。
血走った眼には狂気しか映っていない。
グレイは手にしていた愛刀を投げ捨てた。男からの返り血で剣の柄が滑り、使いものにならなくなったからだ。革の手袋も脱ぎ捨て、腰に忍ばせていた短刀を取り出し構えるが、刀身の短い短刀では劣勢不利に追い込まれるのは確実だろう。
「ごろじでやるらぁぁああ!!」
「グレイ様っ」
男の咆哮と共に決死の突進がされた。猪のような勢いで向かってくる。手負いであるからこそ、油断などできない。
「……あ……がぁ……」
しかし男はその場で動きを止めた。血走っていた眼は裏返り白目になっていた。体から溢れる血液で赤く染まった体は、前かがみの姿勢のまま突然事切れてその場に倒れる。
倒れた男の背中に―――いや、首裏に突き刺さった一本の矢。深々と突き刺ささったそれは、男の命を奪うための止めをさしたといって間違いない。
乱戦が始まってから時々飛来してきていた矢で間違いない。それが偶然にもグレイではなく、男に突き刺さったのだとすれば幸運だ。
「伯爵、なにを呆けてるんですっ」
「すまん!」
ロージィの叱責に我に返ったグレイは、迫ってきていた男の腕を切り裂いた。やはり短刀は使い慣れないし、この乱戦では不利だ。だがそれでも変化はある。
パーティスとロック、そしてロージィ。彼らもかなりの数の敵を排除しており、あれほど劣勢だと思われていた甲板での戦闘に勝機すら見えてきていた。これだけの仲間を用意していながら、いまだにグレイ達に致命傷が与えられず、尚且つ死を覚悟しての突進すら阻まれた。それは徐々にではあるが、血気に逸っていた男たちから熱を奪うには充分なものだ。
甲板は血でぬめりを帯び、血生臭さが鼻腔をつく。まだ瞳に狂気を宿した男はいるが、何人かはこの戦闘に尻込みをし始めているのが見て取れた。向かっていけば殺されるか致命傷を与えられてしまうのを見続けていれば、生存本能として躊躇が生まれるのは当然だ。まして、彼らの結束は所詮『金』でしかない。
「いま武器を捨てれば投降を認めよう、どうする!」
「ふざけるなぁ!」
「殺せぇ!」
グレイの声に反応して狂ったように攻撃してくる男たちの中に、ぽつぽつと周囲に視線を向け、手にした武器を手放すかどうか悩んでいる男もいた。
結束は確実に緩み、乱れ始めている。
そしてその中で的確に射られ続ける矢。最初の頃とは違い、その矢は不思議なほど的確にグレイ達を避けて向かってくる。その原因は分からないし、考えるだけ無駄だ。
それでも。
「守られているような気になるっ」
また一人、敵の息の根を止めたグレイは矢が飛来してくる方向に無意識に視線向けた。だが、視線の奥は暗闇で何も見えず、目を凝らして見続ける余裕もグレイにはなかった。
「どうなってんだ、バズ!」
射られる矢がすべて、まるでグレイ達を避けるかのように見え、眺めていたガードロスは苛立ちを抑えきれる怒鳴り声を上げた。だが、予想していた飄々とした返事はなく、静まり返っている。聞こえなかったのかとマストに視線を向けるが、明かりが消えており姿は確認できなかった。ただ、断続的に矢が放たれている音だけがする。
「バズ、返事をしろ!」
しかしそれでも返答がない。なにか異変を感じたガードロスは 護衛をしていた一人に視線で指示を出す。男は黙って頷くと、落ち着いた足取りのままメインマストの下までたどり着き―――マストの真下で意識を失い倒れているバズを発見したのだった。