◇0.5 黒猫の王子
ぽつりと額にいつもより大きな雨粒が落ちた。
――寒い……
疲れと空腹で、もう動けそうにない。
残る意識で必死に体を丸めるが、力が入らなかった。
慣れない手足で何度も転んだ体はどこが痛いのか分からないほど傷だらけで、血が滲んでいる。ぽつりぽつりと降り出す雨が染みて痛い。
泥と血に汚れた毛は雨水を吸い、重く、冷たく体を覆おう。桃色だった肉球も今は白っぽくなり、同じく血と泥がこびりついている。
どうしてこんな目に遭わなくちゃならないんだと、霞んでいく意識の中、ヴァルツは嘆いた。
***
ヴァルツ=ノワールはこの国の第一王子として、生まれて生きてきた――数日前までは。
王子の仕事なんてヴァルツにとっては面倒なものばかりで、臣下達の意見やら報告やらを延々と聞くのもその一つだった。弟の方が上手く処理できるだろうにと、いつもの様に適当に聞き流し、他へと丸投げする。
だがその日は運が悪かったのか、調書を読み上げる臣下達の中に黒の魔女がいた。眠気と戦っていたために、魔女の怒りに震える声を聞くまでヴァルツは魔女の存在にさえ気がつかなかった。
「ヴァルツ王子は話を聞いておられるのかしら?」
低く響いた、冷たい声。
うるさいと降りた瞼を開けば、20代後半の妖艶としか形容できない女がこちらを睨んでいた。
女は露出は無いが、体の線がはっきりとわかる黒いドレスに身を包み、豊満な体を魅せている。
漆黒の波打つ髪に囲まれた、男を惑わす面長の顔。そこにある切れ長の目は、髪と同じ色を持って怒りに歪んでいた。
その姿からすぐに最強の魔女と謳われる、黒の魔女だと理解した。確か、この魔女は王よりも年上のはずだったなと欠伸をしつつ思い出す。
「姿を偽ってまでも若く見られたい、か……。で、オレに何のようだ?」
眠気と相まって、苛ついたために嫌みのつもりで言った。だが、それは禁句だったらしい。
息をのむ臣下達とふんと笑ったヴァルツの声がその場に響いた。
「――ここまで愚かだとは……」
一言。
ため息と共に吐き出された嗄れ声を聞いたのと同時に、ヴァルツの視界は暗転した。
そして気がつけば、大木に囲まれていた。見慣れた形状をしているのだが顔を大きく逸らして仰がなければ葉が見えないほど高い。
先程までそばにいた大臣や兵士はおろか、人の気配さえしない場所にヴァルツは……座っていた。座っているつもりだが、両手を前に付いていた。
……一体何が起こったのか。
言いようのない不安に襲われる中、尻の方でぶんぶんと何かが動き、怖気が走ると共に嫌な予感を覚えた。
訳が分からないと開こうとした口には長い四つの犬歯。
恐る恐る、前足を見ると、指の代わりにあったのは……黒い毛に囲まれた桃色の肉球。にぎると爪が出る。
そっと、頭を触る……耳と思ったところには耳たぶはなく、薄い皮膚のような物が立っていた。
ヴァルツはひくりと髭を引きつらせ、毛を逆立てた。もしかして、など考えたくはなかったが、不安になればなるほど尻尾が勝手に自己主張する。
思わず毛繕いしそうになった。
否が応でもわかってしまった。
大木に囲まれたのではなく、ヴァルツ自身が小さくなってしまったのだ。
そして、小さくなった体から見る景色は見知らぬものばかり。というより、一度も訪れたことのない森の中。城から遠く離れた場所に飛ばされたようだった。
こんなことをしたのは、あの黒の魔女に間違いない。
魔女に対して憤るも、この場にいない者に対してどうしようもなく、途方に暮れるしかなかった。
空腹に、とりあえず移動しようと慣れない足で歩き出したヴァルツだが、短い四肢では一日歩いても人に出会わず、森を抜けることも叶わなかった。
なんとか目の前を横切る野ねずみを捕まえたが食べる気になれず、木の実を探すも上手く齧れずに食べられなかった。
プライドを捨て、水たまりで喉を癒すも空腹は満たされない。苛々して、水面に映る真っ黒い影を前足で殴った。
いつしか夜になり、顔から伸びる長い髭がむずむずとしだす。
気持ち悪さに何回めかの顔洗いをしていると突然狼に襲われ、必死に逃げ周り、最終的に木に登り事なきを得た。慣れない四肢で必死に逃げ回ったため、身体中傷だらけだ。
何とか助かった物の、すぐそばに感じた生命の危機にしばらく毛が逆立ったままだった。
そうやって一晩中緊張と空腹に体力・気力を消耗しつくし、ついに曇り空の下、ヴァルツは動けなくなってしまったのだった。
***
――寒い……寒がりでは無いはずなのに、人であったときよりも寒さが身に染みる。
冷たい雨に、猫が顔を洗うと雨が降るのは本当だったのかと今更ながら実感した。ぐっしょり湿った毛に不快感を感じるが、起き上がる気力も、もうない。
こんなちっぽけな黒猫の姿で死ぬことになるなんて、誰が考えるだろうか。あまりにも理不尽だ。
このまま自分が死んだらどうなるだろうかと考え、何も変わらないかと自嘲する。
そっと暖かいものに包まれて揺られるも、それが何なのか理解できずにヴァルツは意識を失った。
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