知らない屋敷
目が覚めると、まず見えたのは暖かい色合いの天井だった。
身体を起こそうとすると、全身が痛み出した。ギシギシと音を鳴りだしそうな身体を、私は気力で起き上がらせた。起きあがると、見えたのは私を柔らかく包み込む真っ白なシーツだ。お日様の匂いがして、気持ちよかった。
私の部屋かと思い、辺り見渡していると全然違ったものだった。
ここはどこだろうかと思っていると、扉が音を立てながら開いた。現れた人物は、起き上がっている私を見ると、大きい瞳を更に広げて、慌てながら近寄ってきた。
「お目覚めになったのですね、良かったです!」
「あ、ここは…?」
「あ、申し訳ございません。ここは、シクザール侯爵の御屋敷の客間でございます。旦那様があなたを道で拾ったらしく、慌てて帰ってこられました。」
「シクザール……?」
可笑しい、聞いたことがない家名だ。
私は仮にも“国”の王女だったのだ。一応、国の貴族の家名は知っている。
…夜会などには、一度も行ったことがないが。
貴族、しかも『侯爵』なら必ず、王族の耳にも入るはずのものだ。
聞いたことがない、ということで済む問題ではない。
「え、えっと…」
「すぐに手当てをしたので、大丈夫のようですね。しかし、お医者様は暫くは安静になさるように言ってらっしゃったので、ベットの上で我慢して下さい!」
「は、はい…」
どうやら、私に拒否権はないようだった。侍女にしては、ハキハキとしている彼女に私は、着替えやら食事などをされるがままの状態で受けた。
これについては、城に居たときも偶にあったことだった。特に何も問題はなかった。
しばらくしていると侍女は、「旦那様を呼んできますね。」と言って部屋を出て行った。
私は、漸く落ち着けるようだと思い、溜め息をついた。あのタイプの侍女は、少なくも母が支配している城の中では見なかった。母は、ああいう性格は嫌いらしい。だから、1人もいなかった。だから、彼女は私にとってとても新鮮に感じることができた。
何だか、変な感じもしたが。
それは彼女を侮辱しているようなので、すぐにその考えを私は、捨てた。
そんな事を考えている間に、どうやら『旦那様』が来たようだった。扉が開いた先にいたのは、先程の彼女を連れたとても『怖そうな』人だった。
年齢は、私の父より年上だろう。確か父はまだ30代前半だった。母も同じ年くらいだと聞いていた。
私の目の前にいる旦那様は、40代をゆうに越えているだろう。厳格さを隠さず体現している雰囲気はとても30代には見えない。
侍女の彼女はそんな旦那様の後ろでニコニコしている。肝が据わっているようだ。
「身体の調子はどうだね?…屋敷の前に倒れていたんだ。死んでいるかと思ったよ。」
「あ、大丈夫です。あの屋敷の前に倒れていたって…」
「ん…?覚えていないのか?屋敷の前で雨も降っていないのにずぶ濡れで倒れていた。」
「……」
怖そうな外見からは想像出来ない、優しい声に私はまず、驚いた。
乳母には『人を外見で判断するな』、と教えられてきたが、それをとても感じた。
そして、もうひとつは、
――屋敷の前に倒れていた。
そこからおかしかった。私は、城にいたはずだ。父も母も知っているか分からない、城の片隅にだ。
私が倒れていたのは、その片隅のまた片隅にある花壇のところだ。決して貴族の屋敷の前に倒れているはずもないのだ。
有り得ない、有り得ない、有り得ない。
今起きていることが、私は何が何だか分からなくなっている。
ただ1つ分かること、それは。
私の宝物を奪った、母――『魔女』がいない、安らかな場所に私は今居るということだ。
「大丈夫かい?顔色が悪いようだが……?」
「っ、…大丈夫です。…ちょっと頭が混乱してて…」
「もしかして、記憶喪失かい?」
私はそれを聞いて、今まで俯せていた顔を勢いよく上げた。私は、違うと否定したかったが、どうやら旦那様は逆にそれを判断したらしく、弁明の余地もなく黙らされた。
「…そうだったのか、それは辛いな。」
「い、いえ。あ、あのちがっ……」
「安心したまえ、君を放り出したりはしない。記憶が戻るまで此処にいるといい。」
そう言った旦那様は、「任せたぞ」と侍女の彼女に告げて、出て行ってしまった。彼女は彼女でとても輝いた瞳をこちらに向けていた。
どうやら、本気で記憶喪失だと思っているらしい。にっこり、と音がつくような笑顔を見せている。
「お嬢様、お名前は覚えてらっしゃいますか!?」
「あ、あの私、名前はなくてっ……」
「まあ、そうなのですかっ!?お名前まで忘れてしまわれたのですね…」
「い、いや。違うのっ…元からなっ」
「そんなに健気な姿を見せられては、私は心を痛んでしまいますわっ!!」
そう言って彼女は、両手で顔を覆いながら、泣き崩れてしまった。
……負けてしまった、と思った。
口では彼女には勝てない。
話す前に自己解決されてしまうからだ。会話を苦手としている私にとっては、彼女は天敵すぎる。無理だ。
仕方がない、記憶喪失ということにしておくことにした。その方が逆に安心できる。
此処は、私が知らない貴族の屋敷だ。仮にも“王女”だと言えば、何をされるかは分からない。
それに、私はまだ生きていたいのだ。死にたくないのだ。
浅はかな哀れな私はまだ未だに望んでいるのだ。
乳母との思い出を取り戻すことを、父との会話を望んでいるのだ。
こんな所では、死ねない。