いつも通り
泣きたくなった日から早、三週間も経った。あの日、私は結局泣かなかった。
泣いたところで両親が名前を付けてくれる訳でもない、むしろ侍女たちが困り果ててしまうだけだ。
私は部屋から出て、庭先を散歩していた。これは、私が生まれてからの習慣だった。
乳母はあの人を、彼女を一番慕っていた。彼女がしていたことを私に沢山、させたのだ。
――あのお方は、花がお好きでした。だから、花の苗を植えてみましょう。
――それはダメです、あなた様。あのお方は、肉類が嫌いでした。だから、肉ではなく魚をお食べください。
――誰ですか、このドレスを選んだのは。下げなさい。こちらの方が、似合います。だって、あなた様は――
『陛下とあのお方の“子”なのです。』
よく考えてみると、乳母は病んでいた。
私の何もかもを彼女がいい、慕っていた『あのお方』に似せようとした。
私は、それを自然と受け入れていた。私にとって乳母は、掛け替えのない存在だったからだ。乳母は喜んだ、あのお方に似ている私を。
しかし、乳母は私を一度も『あのお方』の名前で呼ばなかった。理性で止めていたのだろう。似せようとしたところで、乳母の望む人は戻ってこないのだから。
それと同時に乳母は自分の名前を私に呼ばさなかった。これは、母に対する憎しみだろう。
乳母は本当に危ない状態だったのだ。
私は、あのお方の瞳を持っていて、そして乳母にとっては憎くて憎くては、怨みきれない母の子を育てることは。
そのことを気にしてか、私がいい人だね、と言う度に乳母は、苦い顔をしていたのはよく覚えている。
『あなた様、私は善人ではありません。偽善者です。』
『何で?』
『あなたを見ているようで、あなたを見ていませんわ。私は。』
『……誰を見てるの?』
『……あのお方をです。』
やっぱり、乳母はいい人だったのだ。
悔いていたのだ。幼い私を通して、あの人を見るのを。普通、偽善者ならそんなことを言うわけがない。笑って誤魔化したはずだ。
でも、乳母はしなかった。どこかで私に謝っていたのだから。
私は花壇へとたどり着いた。この花壇は乳母と私が一生懸命育てたものだ。これが完成したときは乳母は嬉しそうだった。涙を流していたからだ。
私は泣かなかった。
勿論、この趣味は『あのお方』のものだ。色とりどりの花はとても心を安らかにしてくれる。不思議なことに私はこの花たちがとても好きだった。もし、『あのお方』が生きていたら、趣味があったかもしれないな、と私は心の底で笑いながら思った。
実はこの花壇には父も通っている。
とは、言っても私は一度も会ったことがなかった。このことを教えてくれたのは、庭師だ。
―とても優しい瞳をしていました。
私は、心が踊った。
今まで無関心だった父が、感情を感じるようになったのだ。嬉しかった。
父にとってこの花壇は、安らぎの場所なのだろうと私は、思った。
この花壇は私と父を繋ぐ最後の橋だ。最後かもしれないチャンスを作ってくれるはずだ。私は、今日も丹念に花壇の世話をした。
でも、翌日すべて無くなってしまった。
「……」
「…あ、あなた様!申し訳ございません!……お、王妃様が燃やすように、と…」
「お母様が?」
「は、はい。」
灰しかなかった。
今まで暖かい色とりどりの花たちが迎えてくれたのに。
父が感心を持ったのに、乳母が大事にしていたのに。
私が『大切』だと思ったのに。
母は、魔女だった。
*
あれから侍女たちに聞いた。母が父をつけていて、あの花壇を見つけたらしい。
嫉妬深い母のことだ、一瞬にして怒り狂っただろう。
夜に騎士たちに燃やしてこい、と命じてあの結果らしい。
父は何も言っていないらしい。無関心に戻ったようだ。
母には、庭師が植えたものだと伝えているらしい。つまり、私と乳母が育てたものと思ってない。
――安心してください、あなた様。
それでも、悲しかった。
私は三週間ぶりに悲しさを思い知った。
その日は、ただ椅子に座って空を見上げていた。
*
あれから、一週間経った。一つ変わったことは、散歩の道先にあの花壇がないことだ。
父もあれから姿を見せていないらしい。いつも通り、国の政治を治めている。
母は、父の心を奪うものがなくなって満足したのか、いつも通りに各国の商人を呼んで、ドレスや宝石を買い漁っているらしい。
みんな、みんな、みんないつも通り。
私の日常だけ、変化した。
花を植えることは禁止された。母の命令だ。罰を受けた庭師も命は安全らしい。
母も殺すまでの極刑を与えなかった。喜ばしいのかは、また別の話だ。
花壇のところについた。黒い焼け跡が色濃く残っていた。私はそこに膝をついて、指で土をなぞった。
……ボロボロだった。
感触がいい、暖かい土はなかった。そこには灰と焦げた草花が混ざり合った不快なものだった。
私は、土をとり握った。
それでもその感触はなかった。
「……―」
私は、“初めて”泣いた。
思い出が、全て頭の中に蘇ってきた。乳母は、笑うことが少なかった。笑わせようと私は、努力した。でも、乳母は笑わなかった。
しかし、乳母は笑った。この花壇ができてからだ。嬉しそうに語ったのだ。あの頃を、父もあのお方も生きていた、この城が平和だった時を。
私の中に何かが駆け巡った。
何とも言えない、感情が。今まで1回も感じることも思うことも出来なかったものが。
涙が着ていたドレスを汚した。でも、ドレスは既に汚れている。もう枯れ果てた土の黒いシミがつき、広がっている。
突然頭痛が襲ってきた。
私は頭を抱えた。
―痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!
痛みが私を包んでいく。涙が顔を濡らしていった。私の悲しさを哀れに思ったのか、空も一緒に泣き出した。頬を濡らす水が増していった。
私の中で、何かが弾けた。
世界は、真っ白で真っ黒で、残酷だ。