第5話 「水野忠邦の実弟・跡部良弼」
跡部良弼の評判は聞いている。
肥前唐津藩主水野忠光の六男で旗本・跡部家に養子入りしたが、実兄の忠邦の威光を借りて傲岸不遜で、周辺と諍いを起こすことたびたび。
総じて悪評だが世渡りには長けており、駿府、堺の両町奉行を経て現在は大坂東町奉行に赴任したばかりだ。
本人はいずれ城代か、あわよくば兄のように老中にまでなるつもりでいるのかもしれない。
「要するにへりくだって猫を撫でるように具申せい、いうことやろ。わかっとるわい」
格之助はしかし、気位の高さではこの人も負けていない。
おかしなことにならねばいいが、と案じていた。
やはり、おかしなことになった。
奉行と与力の関係を現代に置き換えると、奉行は中央のキャリア官僚で与力は地元のノンキャリア官僚である。
平八郎自身、代々大坂の与力の家柄に生まれた浪速っ子。
現在のわが故郷の窮状は忍ぶに堪えない。
一方の跡部は腰掛程度に考えている上昇志向の塊なのだから、最初から温度差があった。
東町の奉行部屋に上げられた平八郎は、挨拶もそこそこに跡部良弼を前にして朗々と具申書を読み上げた。
「ひとつ、蔵米を無償にて民に与えること。ひとつ、豪商に買い占めを止めさせること、ひとつ……」
時間をかけて自分なりに立案した具体的な対策を逐一読み上げたのだが、跡部を窺うと頬杖をついて虚ろな目で聞いている。
知己の同心に聞いたところでは、跡部は赴任以来連日連夜関係各所からの接待を受けており、昼過ぎに所内でその姿を見たことはないとか。
恐らくは昨夜も深い酒席だったか。跡部の頬が拳から落ちた時、平八郎は読むのを止めた。
「お奉行は、お疲れであられるようで」
そう言い捨てて、具申書を丸め始めた。
「いや、失敬。このところ夜勤が続いておりましてな」
この男、接待を夜勤と呼んでいるようだ。平八郎の目尻が上がる。
「貴公は、民が飢餓に喘ぐこの現状に心を痛めぬのか?」
「そうは申しておりませぬよ。ただ大塩殿に指摘されるまでもなく、われら東町も順次対策を整えておりましてな。来月には建議書を以て公儀に打診する所存です。何しろこれは単に大坂だけの問題ではなく一国の問題ですから、まずはお上の方策が出るまで……」
いま、来月と申したか?
平八郎が大きな眼をぎょろりと剥いた。
「それでは遅い! こうしとる今も死者が出とるんや。急がな手遅れになるんがわからんのかい、ボケ!」
もはや無用の丸めた具申書で、跡部をポカリとやった。
跡部は、同心たちの目の前での無礼に顔を真っ赤にする。
「先輩だからとおとなしく聞いてやっていれば! 貴様こそ、今はただの隠居爺であろうが。奉行に意見するなぞ、た、た、立場をわきまえよ!」
「なんやとコラ」
同心たちは、平八郎が跡部に殴りかかろうとするのを必死になって止めた。
ノンキャリアOBがキャリア官僚をポカリ、っておいおい……と、腹の中で快哉を叫びながら。
跡部が評判通りの男なのを確認すると、平八郎はその足で鴻池善右衛門のいる両替屋に向かった。
鴻池屋は名だたる大坂の豪商である。
その当主善右衛門の名は17世紀初代正成から受け継がれ、この時点では九代目の幸実が平八郎に対応した。
その九代目に頭を下げて、平八郎は懇願した。
「鴻池屋、頼む。わしと門人の禄米を担保に、一万両を貸してほしい」
善右衛門は驚いた。元与力で、ここ大坂では押しも押されぬ有名人が頭を下げている。
「お手を挙げとくなはれ、大塩様。おいでになるなり土下座とは何事ですか。そもそも一万両もの大金をどうなさるおつもりで」
「ようさん米を買うて、飢えに苦しんどる者たちに配るんや」
平八郎は頭を上げて事情を説明した。
善右衛門は、これはどうしたものかと思案したが、結局そつない返答を選んだ。
「これはご立派なお考えで、身どもも熟考しとうおす。申し訳おまへんが、善右衛門にしばしのお時間頂戴できまへんやろか」
「わかった。よい返事を期待しとるからな。あんじょう頼んだで」
平八郎の顔が一縷の希望にぱっと輝いた。
だが官僚同様、豪商もまた有事に際し二つの道を用意していた。
平八郎が鴻池善右衛門に一万両の借金を申し込んでから数日が経った。
そろそろ返事をすべき頃合いで、善右衛門は跡部と料亭で密会した。
「いかがしたもんでっしゃろか」
善右衛門は恭しく跡部に酌をしながら、お知恵を拝借、と遜る。
「俺が袖にしたからお主の所に参ったか、あの偽善者め。無論、断れ!」
「せやけど、江戸より赴任されたばかりの跡部様はご存じおまへんやろが、大塩様はここ大坂では絶大な人気をお持ちの正義漢ですわ。厄介なことにならしまへんやろか」
つづく




