第4話 「大塩平八郎」
関所に到着すると、意義は馬を下りて懐から『大坂町奉行通行手形』を取り出して、番人に提示した。
「荷は材木ですな。用途は何でありましょう」
番人は訝るでもなく、ただ事務的に訊いてきた。
「町奉行の門が朽ちておりまして、お奉行が江戸から取り寄せよ、と」
「何故、江戸の材木を?」
「お奉行が江戸赴任中に日参した、日枝神社の神木だそうです」
ことさら奉行の名をちらつかせた。
箱根関所には番士と定番人が数名常駐している。
彼らは手形を回し見して、最後は現場の最高責任者・横目付の手に渡った。
「これは、大坂町奉行のお身内ですか。失礼つかまつった」
手形の刻印は、三つ葉葵。
箱根は小田原藩の所轄である。
非礼があればお上から藩に訓戒があるやもしれぬ、と彼らは恭しく立礼した。
車の荷を改めもしなかった。
もとより彼らが警戒するのは江戸からの出女、江戸へ向かう入り鉄砲だ。
徒に葵の御紋が付いた材木に触れる理由はない。
やはり今の侍は役人なのだ。
丁重に見送られながら関所を通過した直後、カイが意義に疑問をぶつけた。
「おっさん、どういうことだよ」
「何がだ?」
「なんで町奉行の身内が、十手持ちに尾け狙われるんだ?」
意義はカイを見て「ほう」と感心した。
「なんだよ」
「読み書きはできずとも、頭は回るようだな」
「ケ!」と舌打ち。
「侍は、窮屈なしきたりに縛られる生き物なんだ。ややこしいものなのさ」
「暇で暇でしょうがねえから、ややこしくしてるだけだろうが」
意義は驚く。
この小僧、また真実を言い当てた。
侍は江戸に参勤する際も領内で勤める際も月番交代が原則である。
つまりほとんどの侍は一年の半分しか働いていない。
残りの半年は、学問や武芸に励むか鷹狩など趣味に興じる結構なご身分だ。
泰平であれば「暇で暇でしょうがない」と感じる侍もいるだろう。
「武士道は死ぬことと見つけたり、という言葉を知っているか?」
「ああ。なんか弱っちい侍が題目みたいに言ってたなあ。どういう意味だい?」
これまで幾度となく侍を斬ってきたカイは、誰かの今際の台詞を聞いたのだろう。
「うむ。『葉隠』という侍向けの教書の言葉だ。本来は『毎日いつ死んでもよい覚悟で生きろ』という意味だが、今の侍は己の死を美化するために使っている。だが簡単に死ねば、今度は武士の責務『奉公』ができなくなる。考えれば考えるほど矛盾に陥るんだ。だから侍は考えることをやめて厳格な規範、窮屈なしきたりの方に逃げるのさ。その方がはるかに楽だからな」
「はん。やっぱ、侍の中身はスッカスカってことか」
「カイは、なぜ侍を目の敵にする?」
「たりめえだろ。百姓が一年がかりで作った米を、てめえらは汗ひとつかかねえでぶん捕ってく。百姓ならみんな憎むさ」
どうやら、やはりこの小僧は百姓の出らしい。
「……侍は、社会の居候」
「あん?」
「先生の持論だ」
「きのう言ってた先生か?」
先生に教えてもらえ、と意義は言っていた。
「大塩平八郎。もと大坂町奉行の与力で、今は陽明学の塾長をなさっている」
「よーめー? おおしお? 知らね」
化政時代は概ね泰平だったが、天保四年(1833年)から天保の大飢饉が日本中を覆っていた。
五十年前の天明の大飢饉と同様に、主な原因は大雨による洪水や冷害による凶作だ。
ただ天保期は商品作物の商業化が進み、農村に貧富の差が拡大していた。
そのため飢死者は米作に頼った貧困層に偏り、さらに米価急騰も引き起こしたため各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。
「格差」に対する不満はマグマのようにぐつぐつと滾り、局所的に噴火していたのだ。
当時の日本の推計人口はこの五年間で125万人も減少している。
当時約三千万の総人口との比率からすると、約4パーセントが餓死したことになる。
天保七年(1836年)には幕府の直轄領・大坂(現・大阪市)でも飢饉は深刻を極めていた。
農村部では毎日百五十人から二百人を超える餓死者が出ていたという。
田沼意義とカイが箱根関を通過し大坂に向かう半年ほど前。
この日の淀川にも餓死した民衆の死体が浮かんでいた。
腐ってしまえば疫病の元となってしまう。
知らせを受けた役人の手により遺体は粗大ごみのように扱われ、車に積まれていく。
大塩平八郎は、その様を馬上から悲しげな目で見送った。
この頃の平八郎はすでに与力職を養子に継がせて、大坂市内で陽明学の私塾を開いていた。
いま惨状を横目に進む馬の轡をとっているのが、その養子・格之助である。
「哀れや。ほんま胸が締め付けられるわ。のう、格之助」
格之助は大きく頷く。
しかし、感傷に浸っているわけにはいくまい。
格之助は義理の親子とはいえ、もはや誰よりも絆の深い平八郎にこう言った。
「父上。私は公務山積ですゆえ同席できませんが、くれぐれもお気をつけ下さい」
今日久方ぶりに馬を出したのも、東町奉行に赴き意見具申をするためだ。
「何をや?」
「東町奉行の跡部という男、今をときめく水野忠邦の実の弟やさかい、無駄に気位が高いんですわ」
つづく




