第11話 「田沼意義の憂鬱」
そうだ。
オイラは結局おっさんの事は何ひとつ聞かされないまま、ここまで振り回されている。
格之助は質問には答えず言った。
「お主はただのおっさん扱いしておるが、意義殿はあの田沼意次様の御子孫だぞ」
「誰それ?」
そこから教えねばならぬか、と格之助が吐息をつく。
「よし、歴史の講義をしてやろう」
「歴史? どうでもいいよ」
カイは布団の中に逃げ込んだ。
さっき聞いたところでは、平八郎先生は丑の刻(午前二時)に起きて自らの鍛錬や研究に励み、六つ半(午前五時)には塾生たちを集めて講義をすると言うではないか。
正気の沙汰じゃない。
寝かせてほしい。
だが格之助は構わず話を続けた。
「田沼意次様は今から五十年ほど前に老中首座として数々の改革を成し遂げられ、見事幕府の財政を立て直された為政者だ。だが後ろ盾の家治公が亡くなると、政敵・松平定信の陰謀で『賄賂政治の張本人』という汚名を着せられて失脚した」
難しい言葉と長ったらしい名前が続くなあ。
どうやら歴史ってのはクソほどめんどくさそうだ。
聞きながらカイの瞼は落ちかけていたが、格之助は構わず語り続けた。
「だが、私は意次公は立派な方だと思っている。財政を立て直すために海外との貿易も具体的に進めておられたし、町人や農民にも目を配った政をされた」
「でも賄賂もらってたんだろ。じゃ、ダメじゃん」
「当時の風潮では、賂は政治献金という色合いが濃かった。意次公は受け取った賂を幕府の台所に当てていたのであって、決して自分の懐に入れていたわけではない。その証拠に、定信が田沼家の屋敷を没収しようと役人を送ったとき、噂に上っていた金銀財宝は屋敷の中には一切なかったそうだ」
「それがなんで『賄賂政治の張本人』になるんだよ?」
「定信はな、田沼政治の公式記録を改ざんしたのだ」
「改ざんって?」
「自分の都合に良いよう、政敵の都合に悪いように書き換えることだ」
カイは黙り込んだ。
てっぺんに立つ奴らがこれじゃ、やっぱり侍の世界はクズだな。
そんでもって、それが歴史になるんなら歴史ってやつもクズだな。
意義にとっても久しぶりに枕を高く眠れる夜だった。
だがやはり幾ばくかの興奮があり、今回の旅のことを思い返す。
平八郎の依頼を受けて江戸に向かう途上、意義は遠江相良藩にある相良城跡に立ち寄った。
その藩邸は意義の実兄であり、幕府でも重職に就く田沼意留の屋敷とあって広大な建物だった。
しかし田沼家の家風なのか、決して華美な内外装ではなく機能重視のつくりだった。
雨がしとしと降っていた。
意留は意義の手で届けられた建議書を、精査するように熟読していた。
そして読み終えてから言った。
「あいわかった。これは必ずや幕閣に渡しておこう」
ほっとした。
内容が内容だったからだ。
建議書というより告発状。
それを雁ノ間詰の兄が受け入れるか、という不安から解放された。
案ずるより生むが易し、だったか。
「ときにお主、相良に戻る気はないか? 私ももう齢五十。江戸詰めと藩主の二足のわらじはきつい。家老にでもなって藩政だけでも手伝ってはくれぬかな?当主は代替わりしたのだ。勘当も解いてやるぞ」
十年ぶりに会う兄の目で言った。
このときの意留は、前年に隠居した父・意正の家督を継いで相良藩の藩主となったばかりだった。
だが幕府での位置もナンバー5あたりの雁ノ間詰なので、二年のうち丸一年は毎日参勤しなければならない。
さらには隠居してわずか三月余りで意正が亡くなってしまったため、後見も助言も得られず幕政に四苦八苦していた。
嫡男の意尊はまだ十八歳で、藩を主導するには荷が重い。
対して意義は四十歳。
あわよくば弟にしばらく繋ぎの役を、と考えていたのだろう。
それゆえに意義が持ってきた厄介事にも快く頷いた、ということか。
兄の心中を察した意義だが、その場に伏して返答した。
「申し訳ありません。私なぞは器ではありません」
兄はため息をついてから、苦笑いを浮かべた。
「即答はなかろう。せめて『少し考えさせてくれ』くらいのことを申したらよかろうに。だが、それがお主なのであろうな。まあよい。しばらくゆっくりいたせ」
だが、次なる要件があるとすぐに宿に戻ってしまった。
兄上は気を悪くしたかもしれないな。
それにその後、嫌なものを見た。相良にいた頃の友人が宿を訪ね、吉原に誘われた。
遊ぶ気分ではなかったので、茶屋の前まで同行し中に入ったふりをしてすぐに店を出た。
そこで、あの女を見かけてしまった。
あの女とは、意義が田沼家を勘当されるまで妻として寄り添った葵だった。
葵は白粉を塗りたくり、けばけばしい紅を引いていた。
「ねえ、お兄さん。寄っておいでよ。うちのお店には上玉が揃ってるよ」
そんな台詞を背中で聞いた。
噂で知る限りでは葵は田沼家から三下り半を突き付けられたあと、武士の嫁としての籍を抜き吉原の茶屋の女主人に転身したという。
意義は見てみぬふりをし、その場を逃げ去った。
(それもこれも俺のせいだ。俺が勘当されたから、その煽りを受けたのだ)
あるいは、意義が見たのは別人だったかもしれない。
だが、自分が妻だった女性の人生を狂わせたことは確かだ。
罪悪感と自己嫌悪。
一度その思いに駆られると、頭の中に黒い霧が立ち込め、闇の中へ引きずり込まれる。
彼は現代医学でいう「うつ病」だった。
この夜も意義は、布団に潜り込んだまま一睡もできなかった。
つづく
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