2話「絶望の淵に立つ者」
灰色の空がどこまでも広がる荒野を、ヴァルトはただ一人で歩いていた。重い足取りにまとわりつく冷たい風は、血の匂いを帯びているようで、彼の胸をさらに重くする。かつて仲間たちと笑い合い、共に戦った日々は、遠い幻影のように霞んでいた。
足元に転がる小石を蹴り飛ばす音だけが、空虚な世界に響く。周囲には誰もいない。寂寥と絶望が心を蝕む中、ヴァルトは血塗られた双剣を背に進み続ける。
(俺は……なぜ、剣を捨てられないのか……。)
双剣の重みは、仲間たちの想いの象徴。だが同時に、それは彼が背負う罪と後悔の重みでもあった。あの日、救えなかった仲間の叫びが、今も耳朶を離れない。風に運ばれるかのように、幻の声が聞こえてくる。
「ヴァルト……お前なら、きっと……。」
誰の声か、もう思い出せない。だが、その声が彼を立ち止まらせる。胸の奥に渦巻く後悔と、仲間の幻影。それらを振り払うように、ヴァルトは深く息を吐いた。
「……俺は、前に進むしかない。」
荒野は無慈悲だ。岩と砂ばかりの景色に、命の気配はない。灰色の雲が空を覆い、太陽の光すら遮る。だが、ヴァルトの双剣は確かにその手にあった。血の匂いを纏い、決して彼を裏切らない――呪われた剣。
「呪いでも、構わない。」
声に出すと、その響きが少しだけ心を支えた。砂の上を踏みしめ、ヴァルトは歩き続ける。冷たい空気が肺を満たし、意識が鋭く研ぎ澄まされていく。
しばらく歩いた先、瓦礫の中に小さな祠の残骸を見つけた。かつては人々が祈りを捧げた場所なのかもしれない。だが今、その痕跡は風に削られ、形だけが残っている。ヴァルトは立ち止まり、祠の前に腰を下ろした。
(ここで……少しだけ、休ませてくれ。)
双剣を横に置き、荒野に沈む自分の影を見つめる。かつて仲間たちと笑い合った日々。戦いの中で交わした誓い。全てが遠い過去になってしまった。けれど、決して消えたわけではない。胸の奥で脈打つ痛みは、確かに生きている証だ。
ふと、背後から足音が聞こえた。瓦礫を踏む音は小さいが、静寂の中では鋭く響く。ヴァルトは双剣を握り、声の方を振り返る。
「誰だ……!」
そこに立っていたのは、黒衣の女だった。フードに隠れた顔から覗く瞳は、深い青。無言のまま、彼女はゆっくりと歩み寄る。ヴァルトは剣を構え、睨むように言葉を吐いた。
「近づくな。」
しかし、女は怯むことなく進み、ヴァルトの前に立つ。顔を覆うフードの影から、静かな声が響いた。
「……その剣が、あなたを導くのですね。」
その声は、不思議と柔らかく、そしてどこか悲しげだった。ヴァルトは双剣を下げ、わずかに眉をひそめる。
「俺を……知っているのか?」
女は小さく頷き、続ける。
「あなたの双剣は、血の呪いを背負う者の象徴。でも……同時に、運命を切り開く鍵でもある。」
ヴァルトは無言のまま、その言葉を胸に刻む。運命を切り開く鍵。そんなものが本当にあるのか――半信半疑のまま、それでも心の奥がかすかに熱を帯びる。
女は一歩近づき、そっと手を伸ばす。だがその手は、双剣ではなく、ヴァルトの胸元に触れた。冷たい指先が、血の匂いに満ちたヴァルトの鎧を撫でる。
「あなたの心は……まだ折れていない。」
その言葉に、ヴァルトはわずかに目を見開く。
女の瞳は青い光を湛え、まるで全てを見透かすように深い。
胸の奥に沈んでいた希望の欠片を、彼女の言葉が呼び覚ますようだった。
「……お前は、何者だ。」
問いかける声に、女は静かに微笑むだけだった。
そして背を向けると、再び砂の上を歩き出す。
「また会いましょう、剣の人。」
その背中が荒野の霧に溶けるまで、ヴァルトは剣を下ろすことができなかった。
残されたのは、自分自身の心音と、握りしめた双剣の感触だけ。
そして胸に残るのは、彼女の言葉――運命を切り開く鍵という響き。
(……俺は、まだ終わっていない。)
荒野の風が吹き抜け、再び歩みを始める。
双剣の重みは相変わらずだが、その重さが今は確かに彼の力になっていた。
いつか血塗られた因果を断ち切ると信じて、ヴァルトは再び前を向いた。
ヴァルトは再び荒野を歩き出した。
冷たい風にさらされるたび、皮膚がひりつき、血の匂いが鋭く鼻を刺す。
それでも、彼の歩みは止まらなかった。
遠い空に雷鳴が響く。
雲の切れ間から光が覗く瞬間、ヴァルトは双剣を握り直し、深紅の瞳を細めた。
(あの女……何者だったのか。)
先ほど出会った黒衣の女の言葉が、胸に残っている。
「運命を切り開く鍵」――その言葉は、まるで幻のように儚く、それでいて確かにヴァルトの心を揺さぶった。
歩きながら、ヴァルトは過去の記憶を呼び起こす。
あの時、仲間たちと笑い合った日々。
彼らの声が、今も彼の耳に届くような気がしてならない。
「ヴァルト、俺たちはお前を信じてる。」
「どんなに苦しくても……一緒に戦おう。」
それは幻影かもしれない。
だが、それでも構わない。
その声を頼りに、ヴァルトは歩みを進める。
やがて、瓦礫の丘の向こうに小さな集落の廃墟が見えてきた。
崩れた家々、打ち捨てられた生活の残骸。
かつてここに人々の営みがあった痕跡が、今は死の静寂に飲まれていた。
ヴァルトは廃墟に足を踏み入れる。
壊れた壁を撫でる指先に、ひび割れた感触が残る。
風に舞う砂塵が、まるで亡霊のように視界を霞ませる。
(この地にも……誰かの願いがあったのか。)
小さな祠が朽ち果て、地面に倒れている。
その中には、欠けた木像が一体だけ残されていた。
ヴァルトはその像に手を伸ばし、そっと拾い上げる。
「……何もかも、壊れていくのか。」
悲しげに呟いたその時、瓦礫の奥から微かな光が見えた。
振り返ると、古びた祭壇のような場所に青い光が瞬いていた。
引き寄せられるように歩を進め、そこにたどり着く。
青い光は小さな結晶のように輝き、空気を震わせている。
その光に手を伸ばすと、微かな温かさが指先を包んだ。
「これは……。」
結晶に触れた瞬間、ヴァルトの意識に微かな声が響く。
『……運命に、抗え。』
低く、確かに刻まれた声だった。
目を閉じると、その声はさらに鮮明になり、胸の奥に火を灯す。
(運命に……抗う。)
その言葉は、ヴァルトがこれまでに何度も自分に言い聞かせてきたものだ。
だが今、この結晶の声はそれを確信に変えようとしている。
瞳を開き、結晶を手にしたヴァルトは深く息を吸う。
双剣を腰に収め、静かに決意を固める。
「俺は、必ず運命を切り裂く。」
声に出すと、その響きが廃墟に反響し、空気が震えた。
立ち上がり、結晶を懐にしまうと、ヴァルトは再び歩き出す。
廃墟を後にし、荒野を越える。
その時、不意に背後に気配を感じた。
振り向くと、先ほどの黒衣の女が立っていた。
彼女の青い瞳が、結晶を見てわずかに光る。
「それを見つけたのですね。」
「お前は……やはり、俺を導こうとしているのか。」
女は静かに頷く。
「私の役目は、運命の狭間に立つ者を見届けること。あなたがその剣を振るう限り、私はあなたを見守る。」
「……ならば、俺の戦いを見ていろ。」
言い切ると、女はわずかに微笑む。
「ええ……ヴァルト。血塗られた剣の先に、希望はあるはずです。」
その声に、ヴァルトの胸はわずかに温かくなった。
仲間の幻影だけでなく、この荒野で出会った女の存在もまた、彼を支える力になっていた。
「……もう迷わない。」
強く呟くと、ヴァルトは再び歩を進める。
荒野の風が冷たく、血の匂いが色濃い。
だがその中に、一筋の光が確かに差し込んでいた。
背後で女の声が、祈りのように届く。
「どうか……運命を超えて。」
その言葉を背に受け、ヴァルトは双剣を握り直す。
かつては重荷にしか思えなかったその剣が、今は力強く彼の意志を映していた。
空はまだ灰色のまま。
だが、遠い空に光の兆しを感じる。
荒野を越えた先にあるものが何であれ――彼はもう、振り返らない。
(すべては……仲間たちの想いと共に。)
双剣の重みを胸に抱き、ヴァルトは血塗られた道を歩き続ける。
そこにあるのは絶望だけではない。
小さくとも、確かな希望が、確かに彼の心に灯っていた。
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