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プルプル

冬の冷気が骨まで染み込むような朝、イワーヌシュカは惨めな姿で兵舎の廊下を歩いていた。


股間を押さえ、膝をかばうようにしてゆっくりと進む。一歩ごとに響く足音が、夜明けの静寂を打ち破るようだった。




——ちんちんが痛てぇ。


いや、ただの痛みではない。体の芯まで貫くような鋭い痛み。まるで氷の刃で抉られたかのような、いや、燃えさかる炎で焼かれるような感覚。


「くそ……あの猫のやつ……」


イワーヌシュカは歯を食いしばりながら呻いた。




昨夜の出来事が鮮明に蘇る。


柔らかな肉球が踏みしめる穏やかな快感から、鋭利な爪が食い込む激痛へ。


そして、牙の一撃がとどめを刺した。


「うぐっ……!」


思い出しただけで痛みが蘇る。イワーヌシュカは股間を押さえたまま、薄暗い廊下を進む。




目指すは医務室。だが、


——行きたくない。


このまま何事もなかったことにしたい。だが、時間が経つにつれ、痛みは増すばかりだった。


(もし、このまま放置して取り返しのつかないことになったら……?)


その考えが背筋を凍らせる。


(それだけは、嫌だ……!)


軍務の中で、多少の傷や打撲は日常茶飯事だった。戦場では命の危険もある。しかし、これは違う。男としての尊厳に関わる問題だった。




イワーヌシュカは震える手で医務室の扉を叩いた。


「どうぞ。」


静かな声が響いた。イワーヌシュカは唾を飲み込み、扉を押し開けた。医務室の中は、落ち着くような明かりが灯る空間だった。


診察台の前に、ひとりの青年が立っている。


軍医ニニアン・プレヴィン。


彼は細身の体にふんわりとした白い制服をまとい、長いアンバー色の髪を大きな三つ編みにして背で束ねていた。


深緑色の瞳が冷静にイワーヌシュカを見つめる。


「どうしたんですか、こんな朝早くに?」


短く発せられたその言葉に、イワーヌシュカは身震いした。


(……どう説明すればいい!?)


股間の痛みは限界に近かった。しかし、それ以上に、今から口にしようとしている言葉が恥ずかしすぎる。


「えっと……その……」


言葉を選ぶ間にも、ニニアンは心配のこもった視線を向けてくる。


「どうしました?どこか痛みが?」


「い、いや……その……」


イワーヌシュカは決死の覚悟で口を開いた。


「その……やられた……」


「……?」


ニニアンの眉がわずかに動いた。


「やられた……?誰に……どこを?」


「あ、あっと、そ、そうだ! 昨夜、俺の寝床に入り込んできたんだ! 最初はただ……玉とかふみふみして……甘えてただけだったんだが……急に……その……噛みつかれた!」


言葉に詰まる。


「ちんち……こ、股間を……猫に……」




静寂。




「つまり、猫をズボンの中に入れて遊んでいたら急所を噛まれたということですね?」


ニニアンは目を伏せ、何かを考えるように息をついた。


そうだけどそうじゃない、でも下手に言い訳するともっと誤解を与えそうなのでイワーヌシュカは渋い顔をしてうなずいた。


そして、ニニアンは淡々とした口調で言った。


「ズボンを下ろしてください」


「えっ」


「傷の状態を診ます。」


イワーヌシュカは震えた。戦場で斬られた傷なら、仲間に見せるのも誇りになっただろう。だが、これは違う。


(くそっ……俺は、俺の大事なモノは将来の嫁さんにだけ見せようと決めていたんだ……!)


こんなところで、こんな状況で、こんなに無防備に晒していいものなのか?


しかし、痛みがそれを許さなかった。このまま放置して取り返しのつかないことになったら、それこそ嫁さんどころではない。


出さなければ、診てもらうことはできない。覚悟を決め、イワーヌシュカはゆっくりとズボンを下ろした。




ニニアンは黙って手袋をはめ、患部へと向き合う。その動作には迷いがなく、まるでこれがただの腕や脚の傷であるかのような静かな気配があった。


(そうだ、ドクターは優しい。)


彼は自分の仕事に誠実で、多少のへまをしても笑ったり揶揄したりなんかしない。だから大丈夫だ、恥ずかしがることはない。


……そう思っていたのだが。




なんか、ドクターの身体がプルプルしてる。


真面目な顔をしているが、どう見ても頑張って笑いをこらえてる感じがすごい。




(おい、ちょっと待て)


イワーヌシュカは動揺した。


ニニアンは決して無表情ではなかった。唇の端が微かに震え、肩がほんのわずかに揺れている。


(やめろ……やめろ……!)


これまでどんな負傷兵にも冷静沈着に対応してきた軍医が、ここにきて——。


(やめろ……! 俺は本気で痛いんだぞ!!)


イワーヌシュカは内心で叫んだが、もうどうしようもない。


なぜなら、ニニアンの手がそっと彼のものに触れ、消毒液の冷たさがしみたからだ。


「んひゃぁんっ……!」


一瞬のうちに、ビリッとした刺激が走りイワーヌシュカの喉が妙な音を立てた。


それは悲鳴というには小さく、うめき声というには情けなく、そしてどういうわけか妙に甘ったるい響きがあった。


(なにやってんだ俺は!!)


瞬間、ニニアンの肩がぴくりと震えた。




——やめろ、笑うな。




イワーヌシュカは心の中で叫ぶ。


しかし、ニニアンは決して笑わなかった。その瞳は冷静に傷を見つめ、手際よく薬を塗っていく。


そう、彼は決して笑わなかった。




だが、目は笑っていた。




イワーヌシュカは悶絶した。




***




「二、三日は痛みがのこるかもしれません」


淡々とした口調で言いながら、ニニアンは手袋を外す。


「その、無理に使いすぎると悪化しますから。あまり触らせないようにしてくださいね。」




イワーヌシュカはうなだれたまま、小さくうなずいた。




——俺の尊厳は死んだ。

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