その3
時間がどのくらいたったのかはわからない。
月も星も見えない小さな灯りだけの世界だった。
ヒューは、腕によりかかるものを感じた。ルーエの頭がくっついている。両手でヒューの上着をたくし込んでいる。
腕を回し、ルーエの身体を抱き寄せた。
体温が心地よく感じる。
(いつかあの子もこんなふうにそばにいてくれるのだろうか。)
ふと、ヒューは、洞穴の海面に目をやった。
海の中が白っぽくキラキラと光っている。洞穴の入り口はまだ暗く、光は海の底の方から浮かんできていた。
「なんだ…?」思わずつぶやく。
身を乗り出すように動いてしまった。
「…なに?」ヒューからずり落ちたルーエが目をこすった。
「オレ、寝てた?」
「…海が光っている。」
ルーエも海面を見た。
海の奥が白く青く揺らいでいる。
「…なーんだ、『やこうちゅう』だ。」
「夜光虫?」
「父さんに聞いたことがある。海の掃除人だ。
海の中で、クジラの死骸を食ってんだ。
あ、『やこうちゅう』は食えねえんだぞ。」
「…。
綺麗なものだな。」
「何が『綺麗』だよ! 死骸喰ってるロクでもないヤツだ!
それでもって、こいつらはクジラや魚に食われるんだ!」
「食物、連鎖か…。」
「なに?」
「ほかの者に食べられるのも夜光虫の存在する理由なのだろう。
嫌われていてもかけがえのないものだということだ。
この世のものは、皆、誰かのためにいるのかもしれないな…。」
「…。
変なことを言うおっさんだ!
『やこうちゅう』なんて珍しくもなんともねぇよ!」
ヒューが微笑んだ。
「息子に、土産話ができた。」
◇◇◇
夜光虫の灯りが海面から遠ざかり、洞穴の入れ口からは朝日が差し込んできた。
ほどなく、流れ込んできたときよりずっと海面が下がり、外に突き出た岩場が見えてきた。
「外に出られる。」
そういって、ルーエが岩場を飛び降りた。
羽織っていたヒューの上着がはらりと落ちた。
「悪いっ!」ルーエが慌てて拾うとしたが、ヒューはそれを制した。
「行きなさい。」
彼は、自分の上着を拾うとルーエの後を追うように歩き出した。
岩場の壁にできた階段のようなくぼみに足をかけ上っていくと崖の上の平たい場所に出た。
先に上がったルーエが呆然と突っ立っていた。
崖の上には篝火がたかれ、大勢の人が立っていた。
人々は二人を見つけるとどよめいた。
その中から、栗色の髪をなびかせて、一人の若い女性が走ってきた。
「ルーエ!」
翻った薄いスカートから足があらわになっていたが、かまわず走ってくる。
女が子供を抱きしめた。子供の顔が女の胸にうずまってしまう。
「姉ちゃん、くるじぃ…」
ルーエが全力で姉を引き離した。
「なんだよ! 気持ち悪っ!」
「皆、心配して一晩中、ここにいたのよ!
私も心臓が痛かったわ!
お前になんかあったら、私はウミに顔向けできないじゃないの!」
そう言った姉は弟の頭に拳骨を落とした。
「痛てっ!
いつものことなのになんだよ!」
「バカね! 昨日の晩は大潮だったのよ! クジラ穴でも水没したらどうするの!」
「…ごめん。」
「それより、アンタ、酷く臭いわよ!」
「灯かりとりにクジラの脂を燃やした。」
「うぇっ! 三日は取れないじゃない!」
「へへ。」
ルーエは、ヒューの姿を探した。彼らから少し離れた場所で同じような格好の騎士に囲まれている。騎士たちの顔が一様に歪んでいるから、彼も酷く臭うのだろう。
「どうやったら、こんなに臭うんですか!」
グレンがヒューバートを前に鼻をつまんだ。
ヒューバートも苦笑いを浮かべるだけだ。
「クジラがこんなに臭うとは思わなかったよ。」
「クジラ?」
「あの大きな生き物だ。」
ヒューバートの視線の先に大きな黒いクジラがその尾で海面を叩いた。
「魔獣だ…」
グレンが口をあんぐり開けた。
「魔獣ではないよ。私の剣は何も反応してないだろう。」
グレンの手にあったヒューの剣は無言だ。
魔獣が現れると振動で知らせてくれる魔剣でもある。
「はぁ。」
「さて、どこか宿屋を探してもらえるかな。湯あみと着替えがしたい。」
「もちろんです!
その臭い、何とかしないと会談どころじゃありませんよ!」
鼻をつまんでグレンが呻いた。
「昨日泊まるはずだった宿屋で湯あみを用意させますよ。
閣下、こちらへ!」
ヒューはもう一度、ルーエの姿を探した。
まだ、女性に捕まって小言をもらっているようだ。
フッと笑顔が浮かぶ。
その顔をルーエが見た。
ルーエは姉の手を振り切って、ヒューのもとにかけてきた。
「おっさん!」
「…。」
ルーエがごそごそと服の下から革ひもにぶら下がった小さな三角の飾りを取り出した。首から取り、手にぶら下げたものをヒューに差し出した。
「これ、やる!」
「…なにかな?」
「クジラの歯だ!
これをクビにかけとけば、溺れない!」
「え?」
「おっさんの子供にやる! これで河に落ちても死なないからな!」
「…。」
ルーエの勢いに思わず受け取ってしまった。
「じゃあ、なっ!」
ルーエが姉のもとに戻っていった。
そしてまた拳骨をもらっていた。女性はヒューを見ると優雅に頭を下げた。
ルーエも女性に頭を押さえつけられてヒューに挨拶した。
ヒューも軽く会釈を返す。
銀色の騎士は、ゆっくりとグレン達のあとについていった。
「きれいな人だったわね…」エ・ルドリッドがしみじみという。
「おっさんだぞ! 子供もいるってさ!
姉ちゃんなんか相手にしてくれないさ!」
「うるさいわね!」
エ・ルドリッドがまたルーエに拳骨を落とした。
「あんまり、叩くなよ! バカになったらどうすんだ!」
「はじめっから、たいしたことないでしょ。
心配ばかりかけて。」
「悪かったって。」
しゅんとしたルーエの頭をエ・ルドリッドがぐるぐる撫でまわした。
「姉ちゃん…、」
「なに?」
「『騎士』って、どうやったらなれるんだ?」
「何それ?」
「あのおっさん、『騎士』なんだって。クジラの臭いにも平気な顔してた。
『騎士』ってすげえな。
どうやったらなれるんだ?」
「王国の『騎士』様は『騎士見習』ってところに行って勉強してなるのよ。
『騎士見習』に入るには、試験があるの。すっごく勉強しないと試験に受からないわ。
アンタには無理よね、勉強嫌いだから。」
「う…。」
◇◇◇
数日の後、ヒューバートは、王都の端にある居城に戻った。
城の前では、いつものように召使いたちが出迎えたが、中の広いホールにいたのは、執事と侍女頭の二人と小さな男の子。
ヒューバートと同じ銀髪に黒く見える濃紺の瞳。子供は何も言わず、小さく頭を下げた。
いつもはそれに頷いて、自室に行くのだが、今日は子供の前で立ち止まった。
「顔を見せてくれないか、ギルバート。」
意外という顔をしたのは、子供だけではなかった。
子供が顔を上げた。
彼の父親は、いつも難しい顔をしている。特に彼と接するときは目すら合わせてくれないことが多い。
「…。」
今日の父親は、穏やかな顔を見せている。
「…陛下の御用で南部地方へ行っていた。」
ヒューは子供の目線までしゃがみこんだ。そして、上着の内側から何かを取り出した。
「南部地方で知り合った者にもらったものだ。
彼は『君に』といった。」
ヒューは、ギルバートの首にクジラの歯のお守りをかけた。
子供が不思議そうに三角の歯を手にした。
「溺れない、お守りだそうだ。」
子供が大きな目を見開いて父親を見た。少し恥ずかしそうな顔をしていた。
ギルバートが口をひらこうとしたが、それより先にヒューバートは立ち去ってしまった。
◇◇◇
(『自分は、誰かのためにいるのかもしれない。』)
ふと、思い出した昔のことに口元が笑ってしまった。
「思い出し笑い?」
「い、いえ!」
ギルバートに聞かれて、ルーエは慌てて真顔に戻る。
店の中はバーマンが片付けに入っていた。ギルバート以外、客はいない。
それをみてルーエが言った。
「…今日はもう終いです。
バーマン、もういいよ。あとは俺が閉めておくから。」
「…では、旦那様、これで失礼いたします。」
バーマンがルーエと最後の客に頭を下げると奥に戻っていった。
「彼は? ここに住んでいるのか?」
「いえ、別に家を持っています。彼にも気を抜く場所は必要ですからね。」
「?」
「バーマンは、オレの子供のころからの『お目付け』です。」
「『お目付け』?」
フフとルーエが笑った。
「姉貴が心配性で、『お目付け』をさせているんです。
バカな女に引っかかってないか、とかね。」
「…。」
「さて、本当に閉める時間なんですが。」
ルーエが笑顔で催促する。
「…わかった。」
ギルバートが渋々席を立つ。上着の内側から財布を取り出すと中から銀貨を2枚取り出すとカウンターに置いた。
「あれ? 多いですよ。」
「彼女たちの分も。」
「それはどうも。」
店の入り口の鈴が鳴った。ルーエがその音に顔を向ける。
「今日はもう終いです!」
「ええ。」
入ってきたのは、水色の髪をおさげにしたラナだった。
「おや、お嬢?」
「お迎えに来たのよ。」
意外な顔をしたのはギルバートだ。
「王都にお戻りなら、お屋敷にお帰り下さいって、エバンズ夫人が。」
「君の… 家族が来ていただろう。屋敷でゆっくりしてもらえばいいと伝えていたはずだ。」
「…宿屋をとっているからって遠慮されてしまいました。」
「…。」
ルーエが二人を見比べる。
(なかなか、ここも難しい…)
「で、お嬢、公爵様がここにおいでるの、何で分かったんですか?」
「あら、『アカ』に『クロ』のところに連れてって言ったら、まっすぐここに来たの。」
(馬のほうが主人より進んでいるのか。)
思わずルーエが笑いをかみ殺す。
「お屋敷にお戻りください、公爵様。
それとも、酔っ払って動けないんですか?」
「…酔ってなどいない。」ギルバートが不機嫌そうに答える。
「なら、よかった!」
ラナが笑顔でギルバートを促した。
ギルバートがルーエに少し困ったような顔を見せたが、ひとつ息をついてラナの後を追って出て行った。
(なんだ、困った顔をしたくせに、嬉しそうじゃないか。)
二人の姿が無くなって、ルーエが店の前にかけている札を裏返した。
「あ、もう終わりなんですか!」
息を切らした女性の声がした。
茶黒い髪を少し乱し、ヘイゼルの瞳が彼を見上げていた。
「センセイ?」
「私、半分残したままで、」
「それで戻ってきたんですか?」
「走ってきました!」
ルーエがあっけにとられている。そして、エリーに優しい笑顔を見せる。
「うちも商売なんで、お客さんの残したものは時間で処分しないといけないんです。」
「あ、」
エリーの顔が悲しそうになる。
「…まだ、材料がありますから新しいのを焼いてあげますよ。」
エリーの顔がぱっと明るくなる。
(まったく、わかりやすいんだから。)
「で、センセイ、お仕事は終わったんですか?」
「いえ、一刻したら様子を見に戻ろうと思ってます。」
「え、大変なんですか!」
「いえ、手当はちゃんとできました。でも、小さい子供さんですから、急変の心配もあります。明日、外科の先生が出られるまで付いていようと思って。
今は当直の先生が見てくれています。」
「明日も勤務じゃ?」
「明日はお休みです。」
「…じゃ、中へどうぞ。
準備をしますよ。
で、センセイがお食べになっている間に馬車を借りてきます。」
「いえ、また走って…」
「馬車なら走るより時間がかかりません。その分、ゆっくりお食事できるでしょ。」
「はい!」
エリーが破顔する。満面の笑みの子供と同じだ。
(全く…、
オレはセンセイの笑顔のためにいるのかもな…)
ルーエの顔もほころんだ。