その1
『黒いクジラの白いしぶき亭』は、飲み屋である。
食堂とは違い、酒類の提供が主で、料理は酒のアテになるものだ。
そのせいか、訪れるのはもっぱら酒の味にうるさい連中である。
店主が『王立』の騎士だというので、出入りの客も身元の定かな者たちが多い。
だから、お忍びの貴族連も庶民の中で気軽にしていられる。
大方、静かな店だが、時々、流しのギテル弾きがやってきて、賑やかしく盛り上げてくれる。
今夜も店の扉の鈴が鳴り、客が訪れた。
「いらっしゃいませ。」
カウンターのルーエが顔を上げて入ってきた男を見た。
そして、小さくため息をつく。
長身の男は、長いまっすぐな黒髪を背中に垂らしている。
前までは『みかわ糸』で出来た髪紐で黒髪を束ねていたが、それを無くしてからは銀鎖で縛っているだけだ。
長い前髪が顔を半分隠している。
男はまっすぐカウンターに来ると一番隅に座り、着ていた黒マントの留め具を緩めた。マントの下も黒の騎士服だ。
「何にいたしましょう?」ルーエが小声で尋ねる。
「テキラを。」
ルーエは、男の前に小さいグラスを置き、黄金色のテキラを注いだ。
「・・・盛況だな。」
「・・・お陰様で。」
男がテキラをぐっと飲み干した。
ルーエが笑顔を見せる。
「酔っ払いは嫌われませんか?」
「誰に?」
男がカウンターを指で打って、催促した。
ルーエが肩をそびやかせて、テキラを注ぐ。
二杯目はそのまま触れられずにいる。
「・・・屋敷に家族が来ている。
私がいては気を遣わせる。」
ルーエが苦笑いする。
「部屋は空いているだろうか?」
ルーエがカウンター下の鍵置き場を見た。
丸いクジラの形をした飾りのついた鍵が一つあるだけだ。
「・・・最近、宿をするのはやめたんです。」ルーエが伝える。
「そうか。」黒い男が残念そうに呟いた。
黒い男、『ギルバート』という名だが、初めて会ったのは春先のことで、今は短い秋のはじめになった。
彼は、貴族であるがいろいろと訳ありの青年で、ときどきふらっと店に寄ってくれる。
本当は「雲の上の御仁」なのだが。
また、鈴の音がした。
白の『治療院』の制服に濃い緑のコートを着ている女性の二人組。
一人は背が高く、もう一人は小柄。
ルーエが笑顔でカウンターに招く。
「こんばんは、ルーエさん。」
小柄のほうの女性がルーエに笑いかけた。
「二人ともいつものを。」
背の高いほうの女性が黒い騎士を見て意外そうな顔をした。
黒い騎士も彼女の顔を見て驚く。
「センセイ? お知り合いの方ですか?」
小柄のジュリが背の高いエリーを見た。
「ええ。」小声で答える。黒い騎士は無言だ。
ジュリはエリーと黒い騎士の間に割り込んで座った。
ルーエは苦笑すると後ろの厨房へ向かった。
「すごーく男前の騎士様ですけど、ダメですからね。
センセイには、もう彼氏さんがいるんです!」
ジュリに先制されて、ギルバートがあっけにとられている。
「ジュリ、へんなことを言わないで。
申し訳ありません、ギルバート兄さま。」
「え、お兄様!?
じゃ、センセイのお姉さまの旦那様!?
失礼なことを言ってすみません!」
ジュリが頭を下げた。
ギルバートが困った顔をする。
「ジュリ、この方は姉のご友人です。義兄は別ですよ。」
「え、また、早とちり!?
本当にごめんなさい。」
ジュリが顔を赤くして頭を下げた。
「…頭を下げることはない。」
ギルバートは穏やかに言った。
「兄さま、どうしてここへ?」
「店主と知り合いだ。」
「ルーエさんと?」
「君こそ?」
「『王立』の仕事でご一緒したので。」
「センセイの彼氏さんです!」
ジュリが笑顔で言った。
「ジュリ!」
顔を赤くしたエリーがジュリの袖を引っ張る。
でも否定はしない。
ギルバートが口元を緩めた。
奥からルーエが湯気の上がったパンケーキを二皿もって出てきた。
「お待たせ。
今日のパンケーキはジャムのせです。
ジュリさんのはオレンジ、センセイのはイチゴです。」
ルーエは、カトラリーの籠とジャムを乗せたパンケーキをそれぞれの前に置くと、温かい紅茶を入れる。
エリーとジュリが嬉しそうにパンケーキを食べ始めた。
「ここは飲み屋じゃなかったか?」
甘い匂いにギルバートが眉を顰める。
「このお二人は特別です。」
ルーエがしらっと答える。
「私たち、当直と日勤が明けて…。
お腹ペコペコだし、おいしいもの食べて、これからお休みに入るんです。」
ジュリが黒い騎士に笑顔を向けた。
エリーとジュリが嬉しそうにパンケーキを口にしていた。
それを見ているルーエの顔も優しい。
(ここは、そういうところなのか…?)
ギルバートがテキラのグラスを空けた。
(私には似合わないな…)
「じき、静かになりますよ。食べるのに忙しくなりますから。」
三杯目を注ぎながらルーエがギルバートに耳打ちした。少しギルバートの口元が動く。
「気にしない。」小声で返す。
ルーエが肩を聳やかせた。
「ルーエさん、あの、前から、聞こう聞こうと思っていたんですけど?」
ジュリがおそるおそる口を開いた。
「『クジラ』って何ですか?」
「え?」
「お店の看板の可愛い絵が『クジラ』だって。
センセイに教えてもらったのですけど、『クジラ』って知らないんですよね。」
ルーエに笑みが浮かぶ。
「王都は内陸ですからね。」
女性二人が不思議そうな顔をしてルーエを見上げた。
「『クジラ』って海にいる生き物ですよ。」
「生き物?」
「馬とか牛とか、みたいなね。
でも、それよりずーっと大きいですよ。
ここよりずっと南の果てに『海』があります。
『クジラ』はそこにいます。」
「海にいる?
お魚ですか? 形がお魚のように見えます。」
ジュリが問いかける。
「…んー、ちょっと違うかな。」
「?」
「『クジラ』って卵じゃなくて、人とおんなじように…
『クジラ』は『クジラ』の姿で生まれるんです。」
「!?」
「『クジラ』は魚じゃないし、大きすぎるんで、獲るのも大変でね。」
「…。」
「ですが、意外と、旨いんですよ。」
「え?」
「食べるんですか?」ジュリが驚いて言う。
「こっそりとね。地元だけですよ。」
ルーエがいたずらっぽく笑う。
「でも、『クジラ』肉は、捌いている間に傷んでしまうから、すぐに塩漬けかなんかにしないといけなくて。
手間がかかるから、市場には、あんまり出ないんですよ。」
「どうやって食べるんですか?」
ジュリがルーエを見上げる。
「大豆の油で素揚げにしたり、薄く切って鉄板で焼いたり。塩味、ついていますからね。」
「お肉みたいですね。」ジュリが目を輝かせる。
「そうですねぇ。
センセイ、食べてみたいですか?」
ルーエが急にエリーにふった。
エリーのフォークが止まってしまう。
ルーエを見るヘイゼルの瞳が大きくなる。
「塩味ですけど、甘めのソースもあうと思いますよ。
食べたいですか?」
少し、間があく。
「…でも、王都では無理なんですね。」
少しがっかりした様子でエリーが答えた。
(センセイ、食べたいのか!?)
「いつか、南部に行ったときにごちそうしますよ。」
ルーエの言葉にエリーが頷いた。
(この二人…?)
人の気持ちに疎いといわれるギルバートだが、エリーがルーエに向ける憧れに似たまなざしぐらいはわかる。同じぐらい優しい表情をルーエも彼女に向けている。
(いい顔だ…)
ギルバートも穏やかな気持ちになる。
だが、それも大きく鳴った鈴に消されてしまった。
「『治療院』のエリー・ケリー先生、いらっしゃいますか!」
緑の襷をかけた若者が店に駆け込んできた。
エリーが立ち上がって入口を見た。
「エリー・ケリーは、私です!」
「『王立』の救護隊です! 子供の怪我人を『治療院』に運びました!
出血が酷くて、『治療院』がエリー先生をお呼びしろと!
通りに馬車がいます! すぐ、来ていただけますか!」
「わかりました。」
パンケーキがまだ皿に残っていたが、コートのポケットから財布を取り出そうとする。
「センセイ、お代は後でいいですよ。
ジュリさんもね。」
ジュリもエリーの隣で行く準備をしている。
「明日、集金に来てくださいね。」
ジュリの言葉にルーエが頷く。
「センセ、行きますよ!」
ジュリがエリーを引っ張るようにして店を出て行った。
「いつものことですから…」
ルーエに苦笑が浮かぶ。
「忙しいのだな。」ギルバートが呟く。
ルーエがパンケーキの皿を引っ込めた。
ジュリのは空っぽだが、エリーのは半分残っている。
そのあと、ルーエがギルバートにテキラを注いだ。
「…付き合いは、いつから?」
ギルバートがルーエに尋ねた。
少し困った顔でルーエが答える。
「…付き合いって、いうのではありませんよ。
…そうですね、初めてお会いしたのはケネス領から帰ったころかな。
あの王都の火事の時ですよ、治療院のお医者様で現場に来ていただいたので。
あとは、法医の先生として何度か。」
「…一緒に、宿に泊まったと聞いたが?」
「誰に!ってあの方ですね。」ルーエがうな垂れる。
「…義妹に手を出したら一刀両断だと笑っていた。君の事だったか。」
ルーエが肩を落とす。
「人の事を何だと…。
そんなこと、しませんよ!
していないから、半分になっていません…。」
力ない答えにギルバートが苦笑を浮かべた。
「…知っているのか、彼女の事。」
「『王立』でわかる程度です。」
溜息をついたのはルーエの方だった。
ギルバートのグラスが空になっていた。
ルーエがまたテキラを注ぐ。
「…エリーが笑っていた。」
「ああ…おいしいものをお食べになると、キラキラとした笑顔を見せてくださるんです。」
ギルバートがカウンターのグラスを取るとルーエの前に置いた。そばのテキラを注ぐ。
「店主に。」
ルーエが頭を下げた。そして、少し口をつける。
「あの方の笑顔、可愛いと思うんですよねぇ…。
見ていたら、なんか、幸せな感じがして。」
ギルバートの口元が微笑む。
「…家族にも笑顔を見せない子だった。」
「え?」
「君は、よほど彼女に気に入られたのだな。」
ギルバートにそう言われたルーエが嬉しそうな顔をした。
「気に入られているなら、ちょっと嬉しいかな。」
「?」
「センセイを笑顔にできているならよかったですよ。
俺でも役に立ってる…」
「君は、人の世話を焼くのが苦ではないのだな。」
「まあ…。
ガキの頃に言われたことがあって。
『自分は、誰かのためにいるのかもしれない。』
『その誰かを幸せにするために自分がいる』って、ね。」
「…君は優しい。」
「え? そんなこと…。
本当に優しい人間は、あんなことしませんよ。」
ルーエの語尾は自嘲だ。
「…なぜ、君は受け入れられる?」
「それは…。」
ルーエがテキラを飲み干した。