銃口にマリアは微笑む
茅蜩の声しか音らしい音はない、山深き墓地。どこかノスタルジア漂う静謐に、カランコロン、カランコロン……と、石畳踏む音が心地よく響く。そうして静々と進むは、まだまだ歳若き乙女というべき女。だが、彼女の装いと供の出立を見れば……気軽に話しかけてはならない相手であろうことは、一目瞭然だ。
色喪服は晩夏に涼しと冴え渡る、薄藤。きっと色喪服に揃えたのだろう……足元を彩るは、黒塗りに絢爛な枝垂れ藤が綻ぶ津軽塗下駄。洒脱な足捌きも、鮮やかに。稀にチロリと見える白肌は、この上なく艶かしい。
それはまるで、1枚の美人画のよう。彼女がいる情景だけを切り取れば、ただただ、どこまでも「美しく、可憐」だけで済むに違いない。だが……。
「お嬢……これを」
「あぁ、ご苦労だね、菱田。どれ……」
歩みを止めた「お嬢」と呼ばれる少女の背に声を掛けるのは、菱田と呼ばれた黒服の男。面立ちはスッキリと整い、歳は20代半ばと言ったところか。それだけであれば、この男もまた「絵になる」佇まいであろうが……頬にはザックリと残された古傷が刻まれており、明らかに穏やかではない人生を歩んできたことを、まざまざと物語っている。
そんな菱田から、鉄砲百合と小菊でまとめられた仏花を受け取り、墓前に供えると……お嬢がその場で手を合わせる。
「とうさ……いいや、先代。お久しぶりにございます。……麻里亜、御前に参上いたしました」
墓石には「御堂家之墓」と彫られている。ここに眠るは、御堂龍三……麻里亜の父であり、関東ヤクザの一大派閥である、極西会の組長だった男である。
***
「……すまないね、わがままに付き合わせて。菱田……ここから先は遠慮なく、お前が用意した場所に連れて行っておくれ」
墓参りを終え、黒塗りセダンのシートに背を預けては、ぼんやりと窓の外を見つめる麻里亜。
今時、黒塗りのセダンなんて、ちょいと時代遅れだとも思うが。極西会は言わずと知れた、「指定暴力団」である。世相に合う車種を買おうにも、取り締まりが厳しい昨今は、自由に新車1台買う事もできない。
それでも、麻里亜は乗り慣れたこの車は嫌いではなかった。そして、いつもながらに滑らかな菱田の運転も、だ。
「……承知しやした、お嬢。しかし……」
「いいんだ。……これは先代とアタシが決めた、ケジメの着け方ってもんさ。……お前には、その権利がある」
それに……と、朱染の唇でクスリと微笑む麻里亜を、ルームミラーでチラと伺う菱田。悪戯っぽく、あどけない表情だけを見れば、麻里亜はまだまだ若鮎の少女である。身を包んでいる着物こそ、上等品ではあるが。本来であれば、高校に通い、着物ではなく制服を着込み……青春とやらを謳歌している年頃だ。
「気にすることはないよ、菱田。……後の事は周防に譲った。そもそも……女だてらに、組を纏めることはできないさね」
しかしながら、麻里亜は終始、この古めかしい口調である。それこそ、時代錯誤というべき芝居がかった物言いに、吹き出してしまえれば、どれだけ菱田も楽であろうか。だが、今は大切なお嬢の送迎中だ。二重の意味で、吹き出していい場面ではない。
「そんな事はないと思いますよ、お嬢。……お嬢には、テッペンの器がおありです」
「おや、おかしなことを言うんだね、菱田。これから死のうって相手に……何を吐かすんだい」
「……」
そう……麻里亜はケジメを着けるために、死を選ぼうとしている。しかも……それもこれも、自分のためだと思うと、菱田には吹き出すことなんぞ、できるはずもない。
(お嬢は本当に……最初から最後まで、頑固でいらっしゃる。……逃げようと思えば、いつでも逃げられたというのに……)
いつの間にか、窓には小ぶりな雫が舞い散っていた。俄かに降り出した雨に負けじと、ワイパーをINTに切り替え様子を伺う。そう言えば、お嬢と初めて会った日も雨が降っていたっけ。菱田はハンドルを握りながら、チラリとあの日一緒に雨に打たれた腕時計を見やった後……窓を遊び場に選んだ雨粒を眺めては、束の間の思い出を引っ張り出していた。
***
拾われた……菱田の境遇は表向きには、そういうことになっている。菱田が極西会に入ることになったのは、偏に先代・龍三がとあることが原因で、天涯孤独となった菱田を引き取ると決めたからである。
菱田……フルネームは菱田誠司、当時15歳。11年前の極西会絡みの抗争に巻き込まれて亡くなった、刑事の息子である。母は既に病死しており、育った環境はいわゆる父子家庭。
被害者である刑事・菱田庸平は男手1つで誠司を育てており、「寂しい思いをさせてすまない」が口癖だったが。一方の誠司は仕事に生きる父を尊敬こそすれ、不満を抱く事はなかった。有り体に言えば、可もなく不可もなし。庸平と誠司の親子関係は適度な距離感こそあれ、良好でもあった。
そんな父が……突然の死を迎えたのだから、誠司の心痛は如何許りか。
もちろん、誠司を引き取ってくれようとする親戚も大勢あったし、父の相棒だった刑事・柏崎も誠司を引き取ろうと算段を整えていたらしい。それでなくても、誠司は凶弾に斃れ、殉職した「悲劇の刑事」の息子である。要するに……彼もまた、ならず者の被害者であり、世間的には「可哀想な子供」であったのだ。それを憐れむのが役目だと、こぞって誠司に手を差し伸べる大人達。だが……誠司は彼らの媚びへつらうような特別扱いが、何よりも嫌だった。
可哀想な子供を、穏やかな私達が慰めてあげる。
可哀想な子供を、優しい私達が助けてあげる。
可哀想な子供に、手を差し伸べてあげる。
そう、私達は……とっても寛大で、善良な大人ですから。
「慈悲深い仮面」を着けた大人達は、誠司のために情けをかけると見せかけて……自分を持ち上げるのに、余念がない。そして一方で……それらがタダの自己満足であり、自己欺瞞であることを、未熟ながらも誠司は肌で感じていた。
上辺だけの、温情。
上辺だけの、献身。
上辺だけの、愛情。
そんなもの、一言も欲しいとは言っていない。誠司はただただ、父親の死を悼む時間が欲しかっただけだと言うのに。
そうして後先考えずに、「保護」という名の檻から逃げ出そうと……誠司は雨の日に飛び出す。行くアテなんぞ、ない。行きたい場所なんぞ、何も思い当たらない。だが、それでも……誠司は気付けば何かに引き寄せられるように、父が眠る墓地に辿り着いていた。
これは雨か、涙か? はたまた……両方か?
顔をぐしゃぐしゃにして、体もびしょ濡れにして。誠司は、大声で墓の前で泣く。墓に縋り付いて、父さん、父さんと、絶え間なく慟哭する。しかし、泣いているうちに、自分の身に降り注ぐ雨がない事にハタと気づく誠司。そうして、恐る恐る背後を見上げれば……黒い羽織姿の大柄な男が、誠司に傘を差掛け、立っていた。
「……大丈夫か、坊主。あぁ、あぁ……こんなに体を濡らしちゃぁ、寒かろうに。どうだ……立てるかい?」
太く逞しい腕に、大きく温かい掌。男は軽々と、誠司の手を引き上げるついでに……彼の細腕にぶら下がっている腕時計にも言及する。
「……それ、親父さんの形見かい? このまま濡らしてちゃぁ、ならんだろ。それに、寸も合ってないぞ。よし、だったら……それが似合うように、逞しくならにゃいかんな?」
***
あの日、泣きじゃくる菱田に傘を差し出してくれたのは、龍三その人だった。
目の前で不器用に微笑む大男は紛れもなく、菱田の父を奪った当事者の一部……敢えて言えば、最大の加害者であったはずなのに。彼の言葉を聞けば聞く程、怒りも嘆きも落ち着くのが、当時の菱田には不思議で仕方がなかった。
邂逅の日、親戚衆の弔問がひと段落するのを見計らって、龍三はわざわざ庸平の墓前に花を手向けにやってきたと言う。そして、後から気づいたことでもあったが……彼が雨の日を選んだのは、故人の遺族と鉢合わせする可能性を抑えるためであり、無駄に不愉快な思いをさせないためだった。
それがどうして、雨の墓前で被害者の忘れ形見が縋り泣いていると見れば。傘だけではなく、手を差し伸べずにはいられなかったのだろう。そうして行くアテが見定められないと咽ぶ菱田を、龍三は育て上げることに決める。
龍三は確かに、最大勢力を誇る暴力団の組長である。だが、人情と芯はキチリと通った、気骨ある任侠でもあった。そうして来るべき日のために、龍三は菱田を育て、養い……麻里亜の護衛に引き立てたのだ。
だが、龍三が想定していた「来るべき日」は結局、やってこなかった。彼は菱田を育て、後継者を見定め……そして、菱田の仇討ちのために命を擲たんと、着々と準備もしていたが。しかし……龍三は菱田の仇討ちを待つことなく、たった3ヶ月前に急性脳梗塞で呆気なくこの世を去った。
(先代も……決して、悪いお人じゃなかった……)
気付けば、フロントガラスには大粒の雨が叩きつけられており、流水となってダラダラと滑り落ちている。その光景に、あぁ、こいつは不味いなと……菱田は慌ててINTからHIにワイパーを切り替えるついでに、遠慮がちに麻里亜の様子をミラー越しで見つめるが……。
「……そう言や、あんたが来たのも、雨の日だったねぇ。アタシゃ、雨の度にあんたのずぶ濡れ顔を思い出すよ」
「止してくださいよ、お嬢。……あれは俺の中で、一番格好悪い日ですから。トットと、忘れちまってください」
「おや、そうかい? だったら、ますます忘れるわけにはいかないね」
相変わらず、お嬢は意地悪である。
忘れるわけにはいかないなんて、言うのなら……ケジメを着ける等と、無駄に格好付けなくてもいいだろうに。
***
麻里亜は馬鹿な娘だ……そう小さく呟くは、極西会若頭・周防。次期極西会・組長になる男であり、現在の最高支配人である。今の極西会には組長もいなければ、正統な後継者でもある麻里亜も……もうじきいなくなる。そんな事を考えながら……自分の居場所となった組長の椅子で、周防はタバコを燻らせながら踏ん反り返っていた。
「……来たか」
「えぇ、やって参りましたよ……前祝いってヤツに。あぁ、上納金はいつもの額でいいっすよ?」
「……」
気怠げに紫煙を吐く周防の前に現れたのは、随分とシマリのないスーツ姿の刑事……柏崎。いくら残暑厳しい時期とは言え、そこまで着崩さなくていいだろうにと、周防は侮るように鼻を鳴らす。
「しかし、シケてますね、旦那。泣く子も黙る極西会の会長が、こんなだだっ広いハコに置き去りにされているなんて。取り逃した魚……あぁ、いや。取り逃した嫁は大物だった、ってトコですかい?」
「ふん……余計な世話だ。そう言うお前こそ、鼻垂れ小僧1人、捕まえられなかったクセに」
「いやいや。僕の獲物は結果的にはそちらの懐に入ったんだから、いいじゃありませんか。……菱田の遺品を処分する時間稼ぎはタンとできたでしょ?」
「どうだかな。肝心の手帳は見つからなかったぞ?」
「そんなの……もう11年も経ってるんすよ? 今更、出てきやしませんって。そんな事を気にするよりも……僕の手帳を気にした方がいいんじゃないすか?」
この……口の減らない、ポリ公風情が。
そう罵ってやりたいのは、山々だが。警察手帳を見せびらかしながら、ヘラヘラと笑顔を浮かべている柏崎は憎たらしいことに……旧来からのビジネスパートナーである。決して、無下にはできない。
柏崎は周防が精を出していた麻薬密売が刑事・菱田に嗅ぎつけられたのを、真っ先に知らせてきた忠犬であり、あろう事か相棒を呆気なく見殺しにした駄犬である。しかも、非常によろしくないことに……彼は公の立場では「捜査続行中」の体を取っている。要するに、開けっ広げに「危ない事に首を突っ込んでますよ〜」と吹聴しているようなので、柏崎の身に何かあれば真っ先に検挙されるのも自明というもの。
……掴みどころは確かにないが、柏崎はこの上なく狡猾で周到な男だ。おそらく、自身の死と同時に周防を破滅に導く算段も整えているだろう。それこそ……相棒だったらしい菱田を証拠隠滅ついでに亡き者にし、彼の忘れ形見を懐柔する算段を整えていたように。
「それにしても、いいのか? 柏崎。こうもノコノコと俺の前にやってきて。……尾けられたりしてないよな?」
「もぅ、そんなヘマはしませんって。……こんな身なりをしているのは、周りを油断させるためなんですよ?」
安っぽい背広をわざとらしく、ヒラヒラとさせつつも。柏崎がピシリと打ち込んだ鋭い自嘲に、周防は堪らず舌打ちをしてしまう。なるほど、柏崎は周防が自分のことを内心で嘲っていたのも、お見通しらしい。
(本当に……食えないヤツだ)
どんなに駄犬でも、どんなに腐っていても、柏崎は刑事である。生きたまま敵に回すのは、賢明ではないだろう。だが、このままズルズルと首輪を着けてやるのも、非常に癪だ。
(さて……こいつはどう処分するかな……)
***
「へぇ……ウチのシマにこんな所があったなんてねぇ。って、あぁ。もう、ウチのシマなんて言い方、通用しないか」
お嬢を連れて菱田がやってきたのは、小高い丘にあるお気に入りの場所。ちょっとした由緒正しい城跡ではあるのだが、如何せん都市部からのアクセスが悪い上に、周囲に面白そうな設備もなく、人の気もない。肝心の城が残っている訳でもなし、城壁崩れの岩ばかりともなれば……訪れるのは、歴史研究家か余程の物好きくらいのものだろう。
「城は城でも、小さめの砦だったようですから、大した規模じゃぁありませんが……意外と雰囲気はあるでしょう? 俺はここ、結構好きでしてね。なんと申しますか……世間の目やら、しがらみやらから、解放された気分にさせられまして」
「そうだな。分かる気がする。……ふふ。こうも静かだと、世界で2人きりになった気分だな」
これまた古めかしい番傘を肩に乗せ、足元が悪いのも気にもせずに麻里亜はコロコロとはしゃいで見せる。菱田が危ないと注意しても、早く早くと先を急いでは……歪な石組の階段も嬉々として登っていく。静まり返った深緑に響くは、お嬢の下駄の足音だけ。カラコロと小気味よく木霊しては……木立の間を一時、さざめかせる。
「……ここが終着点か」
「えぇ、そうです。ここがテッペン……この辺りじゃ、空に一番近い場所です」
「そうか。しかし……あぁ、あぁ、こんな時まで雨が降りやがって。折角の空が見えないじゃないか。……まぁ、いい。これだけ降ってりゃ、チャカの音も響かないってもんだ」
「お嬢……」
「……知ってるんだよ、アタシだって。周防にも言われてるんだろ? ……逃げたアタシに価値はない。だから、始末してこい……って。……フン。分かっているさ。先代が周防を指名した時から、アタシはあいつの隣に収まらにゃならないって事くらい。だけど……」
それは嫌だったんだ。死んでも、嫌だったんだ。
か細く、そう呟いたかと思えば……傘を投げ出して、空を仰ぐ麻里亜。きっと、雨に弱さを擦りつける腹づもりなのだろう。だが……麻里亜が泣いているのを隠し切る程までには、雨は薄情ではなかった。
「分かってる……分かっているさ。アタシは……とんでもない卑怯者だ。お前を使って……何もかもから、逃げ出そうとしている。先代のケジメを引き継ぐなんて、格好つけて。……お前にはその権利があるなんて、唆して。本当は自分のためなのにね。……ったく、格好悪いったら、ありゃしない。だから、もう……終いにしてくれないかい、菱田。……アタシはあんたの手で死ねるんなら、本望さ」
親を殺された恨みは、たんまりあるだろう?
汚い世界に巻き込まれた悔しさも、しこたまあるだろう?
さ……その手にある拳銃で、卑怯なアタシを断罪しておくれ。
気色悪いくらいに贖罪に打って付けな、このマリアを……解放しておくれ。
麻里亜の瞳に怯えはない。ただただ、溢れるのは涙と慈しみだけ。
そうして、死期を悟った麻里亜は菱田の手元に微笑む。最後の最後に、愛しい相手に最高の笑顔を見せて。そっと閉じられた瞼からは、大粒の雨がツツと零れた。
「……菱田……どうした?」
だが、待ち望んでいた銃声はいくら待てども、響いてこない。麻里亜が恐る恐る目を再び、瞠ってみれば。目の前には同じように雨に打たれて、拳銃を下ろす菱田の力ない笑顔がある。
「お嬢……俺には恩人の娘を手にかけるなんて事、出来やしません。そもそも、俺は先代やお嬢を恨んじゃいませんよ。あの時、先代が拾ってくれなかったら、俺はただただ人生を飼い殺されていたでしょう。……俺だって、知ってるんです。先代やお嬢がキチンと、親父の墓にまで花を手向けてくれた事くらい。……親戚の誰も来なくなっているって言うのに、あなた達だけは親父を忘れないでいてくれました」
だが……それと同時に、菱田は周防がどんな事を考えているのかも知っている。きっと、彼を裏切ったら自分も危ないし……そもそも、麻里亜の命も保証されない。で、あれば……。
「とは言え、俺には親父がし損じた仕事が残されているみたいでして。そいつはどうしても、片付けなければならないんです。ですから……お嬢。ちょいとしばらくの間……死んだフリをしていて下さいね」
「死んだフリ? それって、どういう……?」
だが……麻里亜の言葉は今度こそ、耳をつんざくような銃声で途切れる。麻里亜の予測とは裏腹に……雨の空には高く高く、銃声が目一杯響いた。
雨というのは、本当に役に立たない。涙を肩代わりすることもできなければ、合図を隠し通すこともできない。
***
「戻ったか、菱田」
「はい、若頭……あぁ、いや。組長。菱田……ただ今、戻りました」
「ご苦労だったな。で? 麻里亜は?」
「脳天に一発。……それきりです」
「ふん……そうか」
あれ程までに甲斐甲斐しく世話を焼いていたと言うのに。菱田は表情1つ崩さず、冷徹な報告を上げてくる。尾けさせていた奴からも銃声を確認したと聞いていたし……菱田の報告にも嘘はなさそうだ。
そんな冷血な幹部に改めて、一瞥をくれてやる周防。先代が目をかけていただけあって、菱田は礼儀作法も、整った佇まいも申し分ない。しかも、若い割には頬の傷も相まって……スマートさだけではなく、ちょっとした迫力も備えている。さっきの駄犬とは大違いだと、名犬を見つめては……これは使えるヤツだろうと、周防は腹の中で嗤っていた。
「お前には今日から、麻布一帯を任せる。その見目であれば、女共も大喜びだろう」
「……ご冗談を。俺にイロ作りは向いていませんよ」
「ほぉ、そうか? いずれにしても、幹部ともなればそれなりの場にツラを出しとけ。その方が小娘の世話よりも、張り合いもあるってもんだ」
小娘……とわざと嘲るような言葉を選んでも、菱田は眉1つ動かさない。その様子に、ますます気に入ったと……周防は独りで満足そうに肩を揺らすが。
しかし、周防は知らないのだ。菱田のこの余裕は彼の冷血さではなく……滾るような怒りを隠すための演技だという事を。そうして、相変わらず「何も知らないフリ」をしている裸の王様を相手に……菱田は意趣返しとばかりに「何も知らないフリ」をして、別れを言い渡す。
「……それじゃ、組長。行ってきます。しかし……次にお会いする時はもしかしたら、塀の中かもしれませんね?」
「うむ? それはどういう意味……あぁ、そういう事か。なに、心配するな。……コロシの件はきちんと、尻を拭ってやるさ。使ったチャカは置いていけ。……身代わりくらいは用意してやる」
周防の随分と甘い答えに菱田は今度こそ、吹き出してしまいそうになるが。最後の晩くらいは、組長の椅子でゆったりと過ごさせてやるかと、曖昧に微笑んでは事務所を後にする。……いずれにしても、もう自分がここに来ることはないだろう。
***
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! 僕が何をしたって言うんすか!」
あくる日。いつものようにヨレヨレのスーツで出勤した柏崎の目の前に突きつけられたのは、任意同行の書状だった。それがただ、容疑者にガサ入れして来い……という命令であれば、よかったのだが。あいにくと、書状によれば容疑者は柏崎となっている。
「……残念だよ、柏崎。まさか、お前が……ケツモチ付きだったとはなぁ?」
「はっ? ケツモチですか? 僕が?」
「お前さん、極西会の周防と随分とネンゴロだったみたいじゃないか。しかも、菱田は殉職じゃない……お前と周防にハメられて、殺されてたんだ。どこの誰かは知らないが。……今更になって、11年前のコロシの証拠が送りつけられてきたんだよ」
証拠品とやらは、周防も行方を気にしていた菱田の警察手帳。表紙が擦り切れて、ボロボロになってはいるが……そこに記されていたのは、命日直前までの彼の足取りと、菱田が最期まで執拗に食らい付いていた麻薬密売ルートの尾行記録だった。そして、最後のページには「カシワザキ、ケツモチアリ」と殴り書きが暴れている。
「はは……これ、本物ですか?」
「鑑定に出してないが……多分、本物だろうよ」
しかも……と、柏崎の上司が意地悪く言う事には。ご丁寧にも、昨日の周防とのやりとりが録音された音声データまで一緒に送られてきたらしい。菱田の警察手帳だけであれば……非常に苦しい立場に置かれる事は、間違いないが……それでもまだ、言い逃れの余地はあったかも知れない。だが、当人同士の肉声データまで揃えられたら、逮捕状を待つまでもなく、一気に留置所まっしぐらだろう。
「ば、馬鹿な……? 周防が……ドジを踏んだのか?」
「さぁ、な? だが、これで極西会も終わりだな。良かったなぁ、柏崎。これで晴れて、危ない麻薬捜査からは抜けられるぞ? ま、ついでに警察も辞める事になりそうだが」
「そんな……嘘でしょう?」
そもそも……こんな事をして、誰が得をするんだ? 一体、誰が……こんなふざけた事をしたんだ?
(周防……じゃないな。この場合、あいつもセットだ。だとすると、菱田の息子……あぁ、いや。極西会の構成員である以上、この筋書きは描かないか……)
自分の悪事を暴く証拠はタンとあるのに、自分を陥れた奴の尻尾は掴めない。そして……柏崎が自分をハメたホシを知る事は、生涯なかった。
***
「麻里亜、起きなさい。遅刻しますよ!」
「うぅ……まだ、眠い……後5分……」
「いけません。その5分が命取りになります」
「くぅぅ……!」
極西会の一斉検挙から3ヶ月。
菱田と麻里亜は関東から遠く離れた、九州に渡り……新天地で曲がりなりにも、日常生活を送っていた。確かに菱田は極西会の構成員ではあったが、麻里亜の側仕えを務めていたこともあり、直接的な悪さは殆どしていない。菱田が逃げたところで、主だった罪状もない以上、足が付く可能性は低いだろう。
幸いにも、龍三の取り計らいで菱田の最終学歴は大卒である。初対面で頬の傷に驚かれこそすれ、転んでできた傷なのですと一言添えれば、なんて事もなし。元からの頭の回転の速さも相まって、菱田の方はすんなりと会計事務所に再就職しては、贅沢はできないにしても、麻里亜に不自由させない程度の収入を得るに至っていた。
一方、麻里亜は完全なる箱入り娘。極西会という、ある意味で秘境中の秘境で生まれ育った、世間知らずのお嬢様である。しかし……悪事に近い場所にいながらも、本人の手はまだまだ綺麗なものだった。そして……彼女は出遅れた青春を取り戻そうと、古めかしい口調も捨て去り、ごく普通の女子高生として暮らしている。
「うぅ……誠司。その……今日の宿題、実はできてない……」
そんな麻里亜が学生にありがちな弱音を吐く。どうやら……麻里亜は意外と、勉強が苦手らしい。
「またですか、麻里亜。ですから、お遊びは程々にしなさいと、申していたでしょうに!」
「だ、だって……ミーコ達にカラオケに誘われて……」
なお、ミーコとは麻里亜が通う高校で初めてできた友人である。相当に気が合うらしく、新しい事に夢中な麻里亜に何かと付き合ってくれる、なかなかに貴重な悪友だ。
「……まぁ、宿題をせずに怒られるのは麻里亜ですし。俺には関係ありませんか? とにかく、早く食べちまって下さい。俺まで、仕事に遅れちまう」
「誠司の薄情者……」
「薄情で結構」
そんな事を言いながらも、きちんと麻里亜の弁当まで用意しているのだから、口程までに菱田は薄情者ではないだろう。押し頂くように可愛い包みを持たされて、麻里亜の意識は既に弁当の中身に向いている。ただ……。
(……いつになったら、気づいてくれるんだろうな。この気持ちに……)
麻里亜は相変わらず、お嬢扱いが抜けない菱田に不満だ。呼び捨てにしてくれるようにはなったが……まだまだ、彼の敬語が抜けない。
(はぁぁ……全く、麻里亜と来たら……。いつになったら、心配かけさせないでくれるんでしょう……)
片や、菱田は麻里亜が心配でつい、子供扱いしてしまう。それでも、いつかは来るかも知れないその日まで……彼女を見守る事を決心し直す。そうして、今やクセになってしまっているらしい、何かを誤魔化すように腕時計をチラリと見やっては……今日は晴れている空を見上げて、2人の父親に思いを馳せる。
(親父、ようやく……俺のケジメも着いたよ。まさか……ココに手がかりを残すなんて思っていなかったけど。……親父のお陰で、お嬢を自由にしてやれたんだ)
形見の時計には庸平が残した証拠品を納めた、私書箱の番号が仕込まれていた。そして……全てを知った菱田は機会を窺っていたのだ。極西会を潰すのは、恩人に迷惑がかからない頃合いを待ってから。そして、龍三が亡くなり、周防から麻里亜を処分する事を命じられた時……菱田は本当の復讐に踏み切った。
極西会というしがらみさえなければ、麻里亜は普通の女の子でいられる。被害者だなんて立場さえなければ、麻里亜と対等に暮らしていける。だからこそ……。
「あぁ、そうそう。麻里亜、来月は東京に戻りますよ」
「えっ? 何か予定が……あぁ、そうか! 誠司のお父さんの墓参りだな!」
「それもありますが……先代の墓にも顔を出さないといけません。きちんと、掃除してきましょう」
「うん……そうだね。ふふ……2人のお父様にきちんと挨拶しないと、ね」
「2人のお父様」に妙なイントネーションを効かせた麻里亜の心持ちは……今は「何も知らないフリ」をしておこう。だけど……そのうち、きちんと気づかないといけないかと、菱田はやれやれと肩を落とす。
それでなくても、麻里亜は菱田にとって人生最大の「格好悪い日」を覚えている。意地悪な麻里亜が……そんな思い出も含めて、菱田を忘れることは絶対にないだろう。これから先も……ずっと、ずっと。