第10話 危機
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「うぅ~……、ここどこぉ……?」
無我夢中で飛び込んだ部屋の隅で膝を抱えながら、心愛は滲む涙を強引な手付きで拭った。思い出すのは、下るはずだった階段を上ったという事実。あり得ない場所にいる現状に恐怖し身動きが取れない心愛は、ただただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
(足音とかは聞こえないけど、窓の外は変な色だし鳥肌止まんないしスマホ投げちゃうし……。こんなところ来るんじゃなかった……)
深夜であるはずなのに、窓から入る赤い光は三階にいた時よりも強く、不気味に病室内を照らしている。ナニかが近づけばはっきりとわかる明るさだが、そのナニかにもすぐに気づかれてしまうだろうと、心愛は身震いした。
(どうしよう。どこかに隠れた方がいい? でもどこに? ロッカーとかベッドの下とか……。……いやいや、死亡フラグ立っちゃう)
隠れられそうな場所を求めて部屋を見回した心愛は、思い直してブルブルと頭を横に振る。怖がりだがホラー映画や心霊系のゲームをよくやる彼女にとって、こういう状況においてどのような行動が首を絞めるのかよく理解していた。
(……とりあえず、廊下に出てみよう、かな? いつまでもここにはいられないし、澪人君と慧流君と合流しないと)
ここで待っていてもどうにもならないと、意を決した心愛がそっと立ち上がる。難しいことなど何もない。今来た廊下を帰ればいいだけなのだ。
開けっぱなしだったドアから外を覗く。赤く染まる廊下は殊更不気味だ。左右に目をやって、何もいないことを確認してから病室から出れば、しーんと静まったそこに靴音だけが響いた。
「右から来たから、そっちに帰れば三階に戻れるよね?」
誰に言うともなく、確認するように口に出して頷いた心愛は1歩踏み出したものの、どんなに静かに歩こうと努めても鳴る靴音に危機感を覚え、靴を脱いで両手で握った。一階、二階、三階は瓦礫や土埃で汚れていたが、この四階は清掃されているかのように清潔で、多少の抵抗感はあったものの、背に腹は代えられなかった。
ひんやりとした廊下の床を靴下越しに感じながら、心愛は体を縮めるように歩みを進めた。可能ならば窓からも隠れたいと思っていたが、それでは歩く速度が遅くなり、一刻も早く三階に下りたかった彼女は中腰で足早に進み続けた。
「そんなに走ってきてはないはず……。でも何部屋分走ったっけ? ああもう覚えてないよう……」
遥か先まで続く廊下には何枚ものドアが並んでいる。終わりは見えない。立ち止まった心愛は両手の靴をギュッと握り締め、気合いを入れた。
「ここに来るまで何もいなかったんだから、きっと大丈夫。絶対大丈夫。……うん、行ける!」
そう自分自身を鼓舞し、心愛は駆け出した。なるべく音を立てないように、しかし余計な物は見ないようにまっすぐ正面を見据えたまま廊下を駆ける。危険な行為であることは重々承知しているが、とどまる方が危険なのだと頭の中で誰かの声が聞こえているような気がしたからだ。
何枚のドアを通り過ぎたかわからない。それでも三階に下る階段は見えてこなかった。涙ぐみながら駆け続けた心愛だったが、不意に何かに躓き前のめりに転倒してしまった。
「いっっったぁ……」
両手をついて起き上がり、掌に目をやる。思い切りぶつけてしまったせいで強い痛痺れを感じる、が……。
「え? 無傷?」
痺れこそあれど、擦り傷などは全くなかった。高校生の頃に体育館でドッジボールをして遊んでいた時も同じように派手に転けたことがあるが、その時は血が滲むほど擦り剥いてしまった。しかし、今はそれがない。不思議に思っている内に、転けた証拠である痺れすらさっぱり消えてしまった。
「なんで……?」
自身の体の異変に恐怖を覚えた心愛は急いで三階に戻る為立ち上がろうとした、が、できなかった。四つん這いの姿勢で硬直する。足首に触れるヒヤリとしたそれに、気づいてしまった。
振り返りかけた視界の端に、脚が映る。恐る恐る先へと視線をなぞれば、足首を掴む、血の気のない手。まるで骨などないかのように、蛇のように半開きの病室のドアから伸びる手が、赤い光に照らされて青白く光っていた。
「ひぁ、あ、あぅ……」
あまりの衝撃に悲鳴にならない声を漏らし、仰向けに姿勢を変えた心愛はもう片方の足で青白い手を蹴りつける。しかし、蹴った感覚が全くない。霞のように、心愛の蹴りはすり抜けてしまう。
「は、離して! 離してよぉ!」
肘を使って逃げようと這うが、蹴れない手は逃げた分伸びてくる。通常の人間の腕よりも遥かに長くなっても、手は心愛を離さなかった。
のそり、と、ドアの向こうから何かが這い出てくる。目を逸らそうとしても、金縛りにあったかのように動けない。心愛を追うように現れたのは、ぼきりと折れた首から垂れる頭を揺らす、虚ろな目をした男だった。
「ヒッーー」
心愛の喉が引き攣る。目尻に浮かんだ涙がこぼれ、頬に痕を残して落ちた。男は無表情のままもぞもぞと動き、ついに病室から全身を這い出した。
心愛の足首を掴んでいるのは右手で、左手はぐしゃぐゃに潰れていて意味を成していない。腰から下はぐにゃりと歪んでおり、なぜこの姿で這えるのか不思議はほどに、男は壊れていた。
『んーーーーーーーーー』
ぽっかりと空いた口から、音にしづらい音が出る。ずるずると体をくねらせて心愛に這い寄った男は、動けない彼女に覆い被さった。
『んーーーーーーーーーーーーーーーーーー』
目の前で、男が唸る。恐怖故に目を逸らせない心愛は、ガチガチと鳴る歯を止められないまま、ただただ男を見上げることしかできなかった。




