二度目の関東大震災
その日は東京出張の日。勿論いつもと変わらぬ何の変哲もない東京行きである。あえて付け加えるなら一週間前に仙台行きを変更しての東京出張である事。しかしながら、あくまでその日は何の変哲もない穏やかな春の一日だった....のはずだった。
山手線の浜松町駅を出て竹芝方面へ向かう足取りはいつもと変わりなく、東京の空も穏やかな日差しが降り注ぐ清々しい午後を醸し出しており、今夜は両国駅前でちゃんこ鍋でも食べようかと頭をよぎる頃には目的の取引先のオフィスビルの前に到着していた。
アポイントは午後3時。時計を覗くとまだ15分前である事もあり、エレベーター横のトイレで用を足そうと思った瞬間の事である。奇妙な揺れのような物を感じ何事かと思案していると突然、物凄い激しい揺れが足元を襲う。本能的に外へと飛び出したわけだが信じられない光景を目の当たりにする。
路上で激しく上下に揺さぶられてる乗用車や配送のトラック。
地割れを起こし砂混じりの水が噴き出している目の前のアスファルト舗装。
明らかに左右に揺れている周りのビル群。
割れて飛び散るビルのコンクリート基礎ブロック。
これは首都直下型地震のXデイに出くわしてしまったようだ。真面目にその時はそう思ったのと同時に生まれてはじめて死の恐怖というものを実感した。
いったいこの揺れはいつまで続くんだ?
東京が壊滅するまで続くのか?
ふと周りを見渡すと大勢の人が地面に座り込み、いつ終わるとも知れぬこの巨大地震に恐怖の表情を浮かべている。
やがて揺れは収まり誰もが微かな安堵感を見せ始めた時だった。
「東京湾に津波警報が発令されたぞ!」
何処からともなくそんな声が聞こえてきた。更にしばらくすると、
「近くの高校に避難して下さい。もしくは高台に逃げて下さい!」
とても現実離れした話に白日夢ではないかと錯覚するほどだ。
次に頭をよぎったのは大正時代の関東大震災。あの時は地震火災で大勢の人が焼け死んだ事を知っている自分の記憶力が恨めしい。津波による溺死か地震火災による焼死の二者択一を迫られた私だったが、結局その場から西へ向かおうと考えた。東京都内の地形は東側が埋立地である事を歴史で学んだ事がこんな形で役立つとは思いもよらなかった。
西へ向かって歩き始めると建物が倒壊してるとか火の手が上がっているような光景は見当たらない。ただ尋常ではない交通マヒが首都のド真ん中で起きている。ガラケーやPHSも上手く繋がらないのでこの首都直下型地震の全貌がつかめない。
とりあえず東京タワー辺りまで逃げてきた時に空が雨雲に覆われている事に気づく。こんな時に雨に降られたら大変だ。
そこで中野にある親類の家に避難する事を決意する私だったのだが、果たしてどれだけの人が東京23区を歩いて横断出来るくらい道路に熟知してるだろ? 都内の移動手段の主流は断然地下鉄だ。だが東京都内をそこそこ知り尽くしている私は流石である。新宿の高層ビル群を当面の目印に据えたのである。だが....
徳川家康を本気で罵りたくなったのは後にも先にも初めてできっと今後もないだろう。東京23区の複雑怪奇に曲がりくねった道路は方向感覚を麻痺させる。ましてや夕闇迫る時間帯だ。400年の時空を超えての徳川家康の策略にまんまと引っ掛かった形である。
中野の親類の家に辿り着いたのは午後10時に迫ろうとしていた時間。実に5時間半近く東京を彷徨っていた計算になる。
「東北の海岸べりは津波の被害で大変みたいよ!」
伯母さんの言葉の節々でやっとこの首都直下型地震が東北沖を震源とする巨大地震であった事を理解した。
あれから11年。早いものである。
私の住んでる場所も環境も大きく変わったのだが、あの日の事は今でも時々思い出す。
出張先が東京に変更とならずそのまま仙台だったとしたら私はどうなっていただろうと。
(終)