第三十二話 ずるむけ
「もしかしてなんだけど」
「はい」
「具合、悪かったりしない?」
夕愛はぽかんとした。その表情がじわじわと歪んでいく。それを隠すようにうつむき、同時にしゃがみこんでしまった。
「だ、大丈夫か? どっか痛いのか?」
「……しが」
「ん?」
「足が、痛いです」
「足のどこ」
「指……」
ということは靴擦れだろうか。
「とりあえず座ろう」
肩を貸し、ベンチに移動する。
「右足?」
「左です……」
「靴、とるぞ?」
夕愛はこくりと頷く。彼女の前に跪き、ローファーを脱がす。
「……!」
思わず声が出そうになった。白い靴下のつま先に真っ赤な血がにじんでいた。
靴下も脱がす。小指の側面の皮がずるりと剥けていた。
手当てをしないと。必要なのは絆創膏と、それから消毒液か? いや、たしか消毒をするとかえって傷の治りが遅くなるって聞いたことがある。清潔にして、それから保護だ。
「ちょっともらうぞ」
夕愛のトートバッグから紙コップを何個か拝借し、水飲み場で水を汲む。そして傷を洗った。
「っ!」
痛かったのか、それとも冷たかったのか、夕愛がぴくりと痙攣する。
「ごめん。でも我慢して」
「はい……」
ティッシュで水気を拭きとり、紙ナプキンを当てて、その上から靴下を履かせた。
「ひとまず応急処置だから。コンビニかドラッグストアがないか探してくる」
「……」
夕愛はなにか言いたげな顔で俺を見たあと、こくりと頷いた。
「はい……」
「――やめた」
「え?」
夕愛がきょとんとする。
「帰ろう。おんぶする」
背を向けて屈む。
「で、でも」
「遠慮するな」
「わたし、重いし」
「そうは見えないけどな。――ほら」
後ろ手に手招きする。
「……」
しばし考えるような間が空いたあと、
「ありがとう……」
と、夕愛はつぶやくように言い、俺の背中に体重を預けてきた。ふとももの下に手を差し入れ、立ちあがる。
うん、大丈夫。近くのバス停くらいまでなら問題なく歩けそうだ。どちらかというと背中や手から伝わってくる柔らかな感触のほうが問題だ。体力より精神力のほうが削られそう。
できるだけその感触を意識しないように、無心となって公園の出口を目指す。
と、それまで黙っていた夕愛が口を開いた。
「どうして……」
「ん、え? な、なに?」
「どうして分かったんですか?」
「なにが?」
「怪我してるって」
「いや、怪我に気がついたわけじゃなくて」
べつに歩き方がおかしかったわけではないし。
夕愛は重ねて疑問を口にする。
「それに、コンビニに行くのも急に『やめた』って」
どちらの答えも同じだ。
『そう言っている気がしたから』
甘えるのが死ぬほど下手くそな夕愛の顔を俺はいつも注意深く見ていた。うまく笑顔で隠していても、本当は心の中に言いたいことを抱えて我慢していると、そう感じることが今までたくさんあった。そうしているうちに、なんとなくだが夕愛がなにを求めているか推測できるようになった。そういう話だ。
だから夕愛がなにか我慢していることも、俺が離れようとしたとき本当は心細いのを口にできなかったことも、なんとなく分かったのだ。
……ひとつ見栄を張った。夕愛の顔を見ていたのは気持ちを読みとろうと必死になっていたからだけではない。見たかったから見ていただけだ。もっと言うと、気づいたら見つめてしまっていただけ。むしろこちらのほうが主な理由だ。
ともかく、俺は言うなれば夕愛の表情ソムリエ。違いが分かる男なのだ。
「勘だよ」
でも、いつも見てたからなんて言うのは恥ずかしくて、適当にごまかした。
「わたしのこと、なんでも分かるんですか?」
「さすがになんでもは分からない」
「ですよね。なんでも分かるなら、わたしの――」
語尾がすぼまり、聞こえなくなる。
「なんて?」
「内緒です。自分で考えてください。勘がいいんでしょ?」
くすっと笑った。
よく分からないが、ともかくもう落ちこんではいないようだ。
「ところで」
夕愛は俺の耳元で囁くように言った。
「清楚なファッションに過激な下着がツボなんですね。参考にします」
そして「ふう」と耳に息を吹きかけた。
その妖しい声の響きと耳をくすぐるような生温かい息に背筋がぞくぞくとした。
すっかりいつもの調子をとりもどしたようだ。清楚な夕愛も魅力的だったが、やはりいつもの彼女には敵わない。
――でも……。
どうしていきなりこんな格好をしようと思ったのだろう。文化祭のコスプレに味を占めたのだろうか。それとも――。
ただのお遊びならそれでいい。しかし過去にイメチェンを繰りかえしてきたという事実が、俺の気持ちを少しだけざわつかせていた。




