名前で呼べないわけ
「高城くん、おはよう」
学校も近くなってきたところへ、声をかけられる……それは同じクラスの女子である、安才 久美乃のものだ。
日本人形を思わせるほどに美しい黒髪を腰まで伸ばし、笑顔の似合うかわいらしい女の子だ。声は鈴の音のように透き通り、全体的にスレンダーな体型をしている。
「おはよう、安才」
俺の、好きな子……もちろん、ラブの意味で。本当ならば下の名前で呼びたいが、まだ単なるクラスメートの分際でそれは踏み込みすぎだろう。
……それに……
「……」
「マリシャちゃんも、おはよう」
「……えぇ、おはよう」
この女の前で、そんな真似をしたらどうなるか……考えただけでも、寒気がする。
中学の時、俺には仲のいい女の子がいた。そこに恋愛という感情はなかったが、気のおける仲の女の子。向こうも俺のことをそういった認識で思ってくれていたらしく、互いに下の名前で呼んでいた。
だが、それをこいつは……芹澤 マリシャという女は、良しとしなかった。わざわざ俺の前で、名前で呼ぶことをやめさせるよう彼女に言った。もちろん、俺にも彼女を名前で呼ばないように言った。
当然、そんな意見を受けるわけがない。却下だ。すると……こいつは、懐に忍ばせていたハサミを彼女に向けて、突き刺した。彼女の反応が一瞬でも遅れていたら、俺が止めるのが一瞬でも遅れていたら……
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』
『いい? 怜は私のなの。別に他の女の子と話すなとは言わないよ、私は怜を独占したい訳じゃないもの、怜の交友関係は大事にしたい。でも名前はダメ、別の女が怜の名前を呼ぶのも、怜が別の女の名前を呼ぶのも、ダメ。もし、今後そんなことがあったら……』
殺しちゃうかも、と、この女は血のついたハサミを持ったままにこりと笑った。傍らで怯える彼女を指差して。
その後俺は、向こうから名前を呼んでくるのは許してくれと頼み込んだ。世の中にはいろんな子がいる、下の名前で呼んでくるフレンドリーな子だって。そのすべてに敵意を向けられたらたまらない。
だからせめて、俺が他の女の子を下の名前で呼ばないことを約束し、この女も納得した。この女は、俺を独占したいわけじゃないと言うのだ、全然納得できないが。ならば俺が他の子に特別優しくしなければいいだけのこと。
この女にハサミで顔を傷つけられた彼女はその後休学、そして退学していった。
彼女がどうして、この女の仕業で顔に傷を負ったのか、誰かに話さないのかはわからない。口止めされているのか……
『もし誰かに話したら、今度は本当に殺しちゃうよ?』
この女なら、平気でそんなことを言いそうだ。結局、真相はわからない。
そんな過去がある。前科がある。だから俺は、呼びたくても安才を下の名前で呼べない。それに、この女は俺と一緒に住みたいがために、俺の両親を殺したんだ。
なにをするか、わかったもんじゃない。