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ここにも、どこにも。

作者: s.s

 鍵谷誠一は気が付いたら那須野が原という場所にたどり着いていた。


 新緑の季節、辺りには青々とした木々が生い茂り、突き抜ける蒼穹が樹木を包み込む。まるで美を誇張された風景画の如くで、日本の原風景を醸し出していた。

 青いペンキをぶちまけたような背景に緑の絨毯が敷かれ、そこにアスファルトの道を置いた上に鍵谷誠一は淡々と歩いていた。

 自宅を出てから、半日近く歩き詰めた誠一の体力は底をついたかに思われたが、あまり疲労を感じさせない冷淡な面持ちで地面を蹴っていた。

 ひどく五月晴れのその日は、何故か妙に余寒を覚える日和だったが、誠一はこの日のために万全の準備をしてきたため。厚手のコートで寒さをしのいでいた。

 準備の入念さを伺える大きなボストンバッグを肩に掛けた誠一は、清純な高校生とは言い難く、毛先は右往左往にとっ散らかり、目の下には大きなくまを添えていた。

 その風貌は、戦場から潰走した敗残兵のようにも見えたが、一転して、飄々とした世捨て人のようにも捉えることが出来た。

 誠一は喉仏を上下に唾を飲み込み、

「水が欲しい」

 一言、些末に呟くと。また淡々と数メートル先のアスファルトを追うのに集中した。


 しばらく歩くとコンビニが見えてくる、誠一はそこで飲み物を買うことにした。

 コンビニのまわりには特大の駐車場が広がっており、桃色のミニバンが一台止まっている。

 背景には、これまた額縁に入れ飾りたい景色が広がっており、観光客やバイカーであればその風景に感嘆するのだが、誠一は揺るぎなく地面と睨めっこを続けていた。

 駐車場を横断し、自動ドアをくぐる。

 店内はほんのり暖かく、誠一と同年代くらいの店員が、非常に元気に「いらっしゃいませ」を言う。

 誠一はレジ横のホットスナックやお菓子の棚には目もくれず、目的を果たすため後方のリーチンに行き、ガラス戸を引き開ける。

 水を手に、踵を返すと。レジの天板に杜撰とペットボトルを置いた。

 先ほどの元気な女店員は常軌を越えた威勢のよさで、置かれた商品を手に取りバーコードリーダーにかざす、そして胸を膨らませ、

「八十八円でございます!」

 誠一はその大音声に嫌悪感を顔に灯したが即座に無表情に戻し。財布を取ろうとバッグを弄りながら、胸元の名札を見る。

 日本人然とした長い黒髪が印象的な店員の名は、那須野美雨、ネームプレートには素っ気ないゴシック体でそう印字されていた。

 どうやら、財布はボストンバッグの深層に潜ってしまったらしく、しばし慌ただしくバッグの中を攪拌させる。内、あまり開いていなかったチャックが広がり、中が見えるように。

 スマホに財布、衣服など、そして、荒縄に遺書と書かれた封筒も同梱されて、内容物は惨烈たるものだった。那須野美雨は大きな瞳を更に見開かせ、

「あの……お客さん?」

 そう訊くと、誠一は慌ててチャックを締め上げ、何も買わずいそいそと去っていた、ハヤテの如く。

「店チョー、今日、もう、あがりでいい?」

 美雨は三度大きな声で、

「ああ? どうしたんだ」

 バックヤードから店長の声が聞こえる。

「さっきのお客さん、ちょっとおかしい」

 暫しの沈黙を経て、

「そうか、まぁ、今日は暇そうだからあがっていいぞ」

 店長は少し怪訝そうに、

「ありがとう、後、この水買ってくね。お代はバイト代からっ」

 そう言って制服であるエプロンを脱ぎ天板に叩きつけると、水を掻っ攫い、見事な韋駄天を見せ、店を後にした。


 久しく汗をかき、誠一は逃走を図っていた。

「警察に通報されたらたまったもんじゃない」

 そう独り言を言い放つと、無表情に焦燥を内包させ、せかせかと国道四号を歩き詰めていた。県道井口-東那須野線の遅沢橋上流、砂利道をザッザッと降り、誠一が目指していた場所に着く。

 そこは他とは一段下がっており、丸石が所狭しとひしめいて、所々に青々とした草が生えていた。

 誠一は息を吐き出すように、

「ここが蛇尾川か」

 そこは川とは言い難く、水が枯れ果て河川敷のみが残った跡地のように見えたが、それもそのはず、蛇尾川は伏流水と呼ばれ、河川の下に水が流れている。視覚的に川になるのは沢山雨が降った後と言う、珍しい川であった。

「澄んだ小川を眺めながら死のうと思ったのだが、水が流れていないとは残念だ」

 誠一は落胆をあらわに、俯いた。

「せせらぎだけが川の魅力じゃないわ!」

 突如として、後方から天地を裂く金切り声が聞こえ、脊髄反射で振り向く。

 ーーそこには太陽を後光とした那須野美雨が仁王立ちで構えていた。

「あんたは……」

 誠一は少したじろぎ、が、勇ましく言う。

「ほら、これ」

 美雨は振りかぶり、手に持っていたペットボトルを投げる、放物線の頂点でプリズムを発した水は、見事な弧を描き誠一の手に収まった。

「……」

 誠一は掌に落とし込まれたボトルに視点を向け、

「水、飲みたかったんでしょ」

 焦点は上昇し美雨に向く、彼女は蜂蜜を塗りたくったような、素麺のような翡翠の髪状をひるがえし、無駄なドヤ顔を晒していた。

「別に、必要ない」

「さっき買おうとしてたでしょ、私に嘘は通用しないわ」

 美雨は誠一に近づき、笑顔で、

「たんと飲みなさい私の奢りよ」

 誠一は少し考え、言葉に甘えることにし、キャップを開け、二口水を飲み、キャップを閉める。

「美味しい?」

「普通の水だ」

「そう」

 静寂の後。

「水は礼を言う、ありがとう……じゃあな」

 折り返そうとする誠一の肩に手を乗せ、

「じゃあな、じゃ無いわ。君、これからどこに行く気?」

 美雨は言った。誠一は眉間に縦線を拵え、

「どこでもいいだろう、あんたには関係ない」

「関係なくないわ、君死のうとしてるでしょ?」

 虚をつかれたように、

「そんなことはない、俺は観光客だ」

「バッグの中身はどう説明するのよ、それにさっきのセリフ、少し前に大雨が降ってたらここで自殺つもりだったんでしょ? 本当迷惑極まりないわ」

 妙に早口で誠一の拙い嘘を看破する。

「ゔ、ゔ」

「とりあえず、警察に言われたくなければ、私の話を聞きなさい」

 誠一はひきつった顔で頭を廻らせ、

「……わかった」

 息をつがえた。すると、美雨は燦然と輝く笑顔を見せて、

「よし!じゃあ、私の車で話しましょ」

 誠一の手首を強引に握り、少し離れた砂地に止めてある桃色のミニバンに押し込むと自分も乗り込み。息つく間もなく。

「君、名前は?」

 ハンドルに腕を乗せ、美雨は訊いた。誠一は窓に頬杖をつきながら、

「鍵谷誠一」

 美雨は自分も名乗ろうと、

「私の名前はーー」

「那須野美雨……」

「なんで、知ってるの?」

 美雨は驚き、目を見開く。誠一は揺るぎなく外を眺めながら言う。

「コンビニの時、名札見た」

 納得し、切り替えるように、

「ふーん、私は十九、君は?」

 無愛嬌に、

「俺は十七」

 美雨は一息吐き出すと、堰をきったように発問をする。

「互いの自己紹介はこの辺にしといて、なんで自殺なんかしようとしたの?」

 美雨は誠一に顔を向けるのをやめ、ハンドルの上に乗っている左腕に顎を乗っけて前を見る。誠一は微小に前髪を揺らし強調するように呟いた。

「生きる意味が分からなくなったんだ」

 あまりにもありふれた常套句を並べた誠一の目は虚ろで、美雨は不謹慎にもドラマや映画以外でこんなことを言う奴いるんだなと思い、

「それってさ、どう言う意味?」

 と、訊いた。

 誠一は尻目で運転席の方をジロっと睨み付けると、すぐに動かない丸石の観察に戻り、質問に答えなかった。

 美雨は一向に返答しない誠一の方を視点だけで見つめていた。して、答えが出されるのを待つのではなく、自分で考えるようになるが、結局は分からず、なんとなくで説教じみたことを始めた。

「死ぬことはなんの解決にもならないよ、ただ逃げてるだけ、だから、生きよ? 生きたくっても生きられない人もいるんだから……」

 俯きかげんで言った。すると、

「それがなんだ! 俺は今すぐここから消えて無くなりたいんだ、一刻も早く、一秒の無駄も無く、それをお前が邪魔した、世間体をよそおったかなんだか知らんが迷惑なのはお前だ!」

 それまで、死んだ魚介のような目をしていた誠一が、打って変わり、血相を変えて怒号を飛ばしたのだ。美雨は言葉の圧に負け黙り込んでしまう。

「俺は……死場所を探している、見受けるとお前はこの場所をひどく気にいてるようじゃないか、だから、俺はここでは死なない、わかったら、これ以上俺に構うな!」

 美雨は自分の軽率な行動を呪った。自殺志願者がいたら止めてあげる、それが善行だと美雨は信じ込んでいた。しかし、誠一の顔は憎しみや苦しみ、悲しみを多分に含んでおり、世界中のカルマを全て背負い込んだ、可愛そうな人に見えてやまなかった。

 この人はそれだけ悩みこの決断を下したことも、誠一の目尻に溜まる水分を一瞥すれば、容易に悟るのは可能だった。

 そして、美雨は自分の無力さを痛感し、誠一を救えなかったことに憤怒した。だから、

「私は地元民よ、ここらの鬱蒼な森、人気のない場所、全て知っているわ、君は……どう見ても他県の人よね? だったら、私が死場所を探すのを手伝ってあげるわ? どう、いいアイディアでしょ」

 車のドアから半分身を乗り出していた誠一は動きを止め、振り向く。

「お前になんのメリットがある?」

 疑り深そうな目が美雨に届く。

「メリット、私はココがすっごーく気に入ってるの、だからね、私が納得する場所で自殺して欲しいの、私の家の前でやられたらたまったもんじゃないからね」

 美雨は正直者のように振る舞った、実のところ、美雨は自分の無力さを払拭したかっただけ、否が応でも死なせないなどと言う、そして、それが誠一の幸だと盲信していた。

 誠一ははみ出した体を車内に戻して、

「信用していいんだな」

 と、美雨は誠実な目を見開いて。

「神様に誓うわ」

 誠一は呆れたように、

「俺は神はいないと思うが、わかった」

 と、

「交渉成立ね、じゃあ手始めに自殺の動機について詳細に教えなさい」

「なんでそうなる」

 誠一は運転席の方に身を乗り出し、

「さっきの質問、答えてないでしょ。君の死ぬ理由があまりにも下らなくって、いざって時やめたら、私はくたびれ儲けの骨折り損になっちゃうわ、この際隠し事はなしよ」

 美雨は真剣な目で、溜息を吐いた誠一はトボトボと語る。

「俺はひきこもりなんだ。発端は中学の時に俺が空気を読み間違えて、とち狂った発言をしちまって、それで仲間たちに無視されたんだ。アイツらにとっては別になんでもないんだろうが、俺は我慢できなかったんだ」

「それで、不登校に」

 美雨は肩を落とし訊く、誠一はこっくりと頷いた。

「まぁ、すぐに学校に戻れば良かったんだ、でも、俺にはそんな勇気は無かった、また、間違ったらどうしよう、また、無視されたら、と言う恐怖が俺を支配した」

 誠一は徐々にげんなりとなりながら。

「そして、ダラダラと高校二年生までひきこもりを決め込み続けた。親不孝だともなんの解決にならないことも至極わかる、でも、俺にはコレしかないんだ。もう、四年もずっと考えて家を出て来たんだ、だから、俺は絶対に死ぬ」

 自嘲ぎみの誠一は哀愁を垂れ流し、美雨はどうしていいか分からなくなった。

 二人の気持ちと同期するように太陽は沈み気づけば夕方に、東には紫が西には橙が丁度頭上で潮目を作り、空に満ちる光は地上の河川敷に降り注ぎ、それは心悲しさと幻想を紡いでいた。

「今日はもう遅いわ、君、泊まるとことか行くあてはあるの?」

 美雨は眼前に広がる景勝を目を細め見ながら、魅力をヒシヒシと感じ。

「寝袋を持っている」

 誠一は数分前より光度が低下したダッシュボードに焦点の合わない目を向け。

「夜は冷えるわ、今日は私の家に泊まるといい、暖かいご飯もお風呂もあるから、自分の家が最後の晩餐会場になるなんて光栄だしね」

 美雨は空元気を振り絞り全力の笑顔を見せた。誠一は少し考え、死ぬ前に風呂で体を綺麗にしたいと思い、また、言葉に甘えることにした。

「良いのか?」

「オールオッケーよ!」

 サムズアップし、そう言うと、美雨は車のキーを回し、アクセルを力強く踏み込む。


 車で数十分、たどり着いたのは、どこにでもある住宅街に建つ、どこにでもある平凡な一軒家だった。

「ここが私の家っ、今日は君の家でもあるわ」

 誠一は一人暮らしには不似合いの一軒家を見て、憂慮を顔に示し、

「実家暮らしなのか? 親とかは文句を言わないのか、急に俺みたいなのを連れ込んで」

「何言ってんの? 別になんの問題もないじゃない、人は沢山いる方が楽しいわ、パパやママもきっとそう言うに違いないから」

 自信たっぷりの顔つきで広言するので、誠一は己の考えを杞憂だと思い美雨の背後について行った。

 玄関を開錠し、「ただいまー!」と美雨があけすけに言い、誠一も続くように「お邪魔します」と言った。

 奥からは平均的なお母さんの風貌をした、美雨の母親らしき人物が出て来て、狐のような顔をすると、

「おかえりなさい、あら、彼氏でも連れて来たの?」

「この子は……そうね、友達の友達で、今ここに旅行に来てるんだけど、泊まるところがなくって、それで私の家に泊まることになったの、いいでしょ?」

 美雨は即興で嘘をつく、流石に自殺志願者の死場所を探すのを手伝っていて云々とは、明言するよりはマシだと誠一は思ったので、自分も沈鬱な気持ちを見せないように尽力した。

「ど、どうも……」

 美雨の母親は誠一を一瞥すると、とびきりの笑みを見せて、

「そうなの、だったら大歓迎です、今日は腕によりをかけて晩ご飯を作るわ」

 誠一は安堵の一息をつく。

「貴方名前は?」

 美雨の母親はセカセカと訊く。

「鍵谷誠一です」

「誠一くん、丁度二階に和室があるから、そこで泊まってくれる?」

 誠一は頷くと、

「じゃあ、美雨、誠一くんを案内してあげなさい」

 美雨は腕を振り上げ、

「はぁーい」


 二階の和室は四畳近く、奥に敷布団が畳まれていた。誠一はボストンバッグを下ろし壁際に置くと、コートを脱ぎ捨てる。

「なんもない部屋だけど、そうだ、私の漫画とか貸してあげようか?」

「ああ、別にいい」

 隅っこに腰を落ち着かせながら、部屋を出てこうとする美雨の配慮を誠一は断り、カバンから貰った水を取り出し口に含み、詰まった息を吐いた。

 誠一の前頭葉に浮かぶ事案といえば、那須野美雨のお節介ぶりだ。何故、彼女が見ず知らずの自分のために水を持って来てくれたり、家に泊まらせてくれたりするのか全く持って理解の余地がなかった。

「変わった奴もいたもんだ、俺の死際でも見たいのか?」

 手に持った水を眺めながら、虚空に独り言を放つと、半日近く歩き続けた疲労のためか、目蓋は自然に閉じ、そのままスヤスヤと眠りについた。

 

 ゆさゆさと三半規管を刺激されたことにより、誠一は呻き声を上げながら目覚める。

「ゔーん、寝てしまったか……」

 前を見ると美雨が心配そうな顔で、

「毒薬でも飲んだのかと思ったよ」

「心配するな、最低限約束は守る」

「で、ご飯にする? お風呂にする?」

 と、新妻の如く訊いてくるので誠一はよそよそしく。

「どっちでもいい」

「じゃあ、ご飯ね、私お腹空いちゃったから」

 そう言うと、また強引に手を引かれ居間に連れて行かれた。肉じゃがや唐揚げ、ポテトサラダなど芳しい匂いを放つ料理が食卓に並べられており、テーブルを取り囲む四つの椅子の一つに美雨の父親らしき人物が座っていた。

「君が誠一くんかぁ、今日は自分の家だと思って寛ぐといいよ」

 柔和な笑顔を見せた美雨の父親は、一昔前の作家のような格好をしており、誠一は挨拶を返す。

 美雨はスタスタと歩き椅子に座った、それを見ていた誠一もスゥーと移動し美雨の隣に座した。

「今日はとっても豪勢だね、ママ」

 美雨は食卓を舌舐めずりするよう眺めながら身を押し出し、美雨の母親はご飯がよそられた茶碗を乗せた盆を持ちながらやってきて。

「は、じゃないでしょ、も、でしょ」

 と、ムッとした口調で言い、美雨の父親の隣に掛け声と共に腰を下ろした。

 して「いただきます!」食事が始まった。

 誠一は誰かと食卓を囲むのは久しく、親は共働きであり、食事は一人で即席麺が多かった。誠一は親の共働きを容認しており、それは自分を養うためだと何年もそうやって過ごして来た。家族で食卓を囲むのは正月くらいなもんだった。

「っちょ! パパ、それ、私が取ろうっと思った唐揚げ」

「はは、すまないな、でもコレは僕のだ」

「もう、お父さんは大人げないんだから」

「そうよ、食べ物の恨みは怖いんだからね」

 眼前では、近くて遠かった、なんとも無い光景が広がっている。長い間感じることが無かった人の温かみというものが、自分の胸中にヒシヒシと浸透するのが分かった。

 むせ返すような悲壮が誠一を襲う、自分は今まで何をして来たか、意味も分からないフラストレーションが誠一の大脳を掌握する。

「どうした、誠一くん、口に合わなかったかい」

 箸が止まった誠一を案じて、美雨の父親は訊いた。

「あ、いえ、とても美味しいです」

 そう言うと、カッカッと音を立てて、米をかき込む。その姿を美雨は横からしたり顔で眺めていた。


 晩飯を平らげたら誠一は、那須野一家の好意で一番風呂を貰い、汗が染み込んだ服を脱ぎ湯船に浸かる。腰や肩に蓄積された疲労がドクドク流れ出て、お湯に吸収される感覚を覚える。我慢することができず大きな嘆息を吐いた。

 いつも、シャワーで事務的に風呂を済ませていた誠一には、湯船はとても隔たりのあるもので、とても愉快だった。

「誠一くん、パジャマなんだけど、お父さんのなんだけど良い?」

 お風呂の扉越しに声が聞こえ、美雨の母親らしきシルエットが扉のすりガラスに映し出されていた。

「お構いなく」

 誠一は淡々と答え、湯船に顔を沈める。

 ここの家の人はとても優しい、縁もゆかりもなく突然上がり込んできた他人に沢山親切をくれた。しかし、自分は明日にでも潰える命、誠一は少しもどかしくなった。

 でも、自分には四年間熟考した末編み出された、完璧な死ぬ理由があった。

 これ以上生きていても、親やその他大勢に迷惑をかけ続けるだけだ。自分には大した力はない、何かを成し遂げることだって、もう無理だ。高校だって入学は出来たが登校はしてないし、偏差値もさして高くない。

 将来の憂いは天井無しだ。自分のやってることの低俗さは重々理解していたけど、誠一の人生は詰んでいる、であるなら死ぬのがベストだ。

 今すぐにでも浴槽に顔を突っ込みそのまま逝きたいと思うが、那須野家に迷惑をかけたくはない。そもそも、迷惑をかけないために死ぬのに、ここで死んで迷惑をかけるのなら本末転倒だ。

「のぼせてきたな、上がるか」


 浴室から出て、脱衣所にて用意されていた服に着替える、ネイビーの甚平だ。

 風呂から出たこととお礼を言おうと居間に戻ると、待ち構えていたように美雨が、

「結構な長風呂だったわね、待ちくたびれたわ」

 誠一は湿った髪を少し揺らし、

「なんだ?」

「はいコレ、千本松牧場牛乳よ! お風呂上がりに飲むと、チョー美味しいのよ」

 差し出されたコップを受け取り。グビグビ飲む、風呂上りだけあって喉の渇きは尋常ではなく、一気に飲み干した。

「なかなかの飲みっぷりね」

「うん、美味しい」

 誠一は飲み干したグラスを洗面台に置くと、居間にいる美雨の両親に向け。

「今日はもう寝ます、ありがとうございました」

「礼儀のいい子ね、親御さんの育て方が良かったんだわ」

「あーそうだな、うちの美雨もこれくらいだったらな」

「私だって、礼節は弁えてるつもりよ」

「美雨は元気があり余すぎていかん」

 など、談笑団欒がスタートしたので誠一は邪魔しないよう、いそいそと二階の和室に戻り、ベットメイクされた敷布団に体を収めた、睡魔が誠一を犯すのはすぐ後のことだった。


 うららかな春の日差しにより目覚めた誠一は枕元に畳まれている、昨日のうちに洗濯されたであろう自分の服を着て。眠たい足を行使しながら、居間へと降りた。

 居間には、ソファーに座ってテレビを見ながら馬鹿笑いする美雨が居た、内容はお昼の情報番組で今はラーメンの特集が流されている。

「おー、やっと、起きたか」

 誠一は無言で頷きながら辺りを見渡した、美雨と自分以外人の気配がない。

「親はどうしたんだ?」

「仕事よ、共働きで介護職についてるわ」

 誠一はなるほどと言いたげな顔をし、次いで、言う。

「善は急げだ。早く案内をしてくれないか」

「朝ごはんは食べなくてもいいの? そっか、それじゃあ、最後の晩餐にはならない……、でも、それは食事って意味じゃなくて、夜ご飯って意味だから……」

 美雨は一人で言葉の迷宮に迷い込んだらしく、掛け算に四苦八苦する小学生のような顔で徒然独り言を言っていた。

「まぁ、良いわ、それなりに目星をつけといたから早くいきましょ」

 美雨は定義の探究を蹴り飛ばし、元の路線に戻った。誠一はまた、無言で頷くと美雨について行く。

 駐車スペースに止めてあるミニバンに乗り、「最初は神社に行くわ」と呟くと、ジェットコースターの如く車は急発進した。


 それなりの時間を車中で過ごしついたのち、目的地に到着、美雨は胸を張り出し「ここが西郷神社よ!」と、過剰な音声で言った。

 そこにはとても簡素な造りの神社があり、これまたソレとして体をなしているのか誠一は疑問を覚えた。

 木々が生茂る中、二基の灯籠と垂れ下がったしめ縄が印象的な鳥居が一つ。神域を示すのは微々たる盛り土のみ、だがそれだけでは推し量れないほど、厳かな雰囲気が漂っていた。

 鳥居をくぐり、本殿に近づく、そこには異形でとても貫禄のある石像が悔りがたい重厚さを放ち鎮座していた。誠一はあまりの威風に息を飲む。

「ここはね、明治の元勲、西郷従道元帥を祀ってる神社でね、那須野が原の発展に大きく貢献した人がいるんだ」

 と、あどけなさを見せながら美雨は説明した、内には目論見を潜めながら。

 誠一は辺りを見渡すと、

「ここは人気があまりないのか?」

「まぁ、ここは静かに参拝出来るのが長所だからね」

「わかった」

 そう言うと持ってきたボストンバッグから荒縄を取り出すと、一本たくましくも貧弱な木の枝にかける。そこら辺からそれなりの大きさの石を拾ってくると木下に置いた。

 石に足をかけ、

「俺は死ぬ、これが今生の別れだ。」

 誠一は縄に首をかけようとしているのを見て美雨はおどおどした。

 美雨の目論見では、この歴史ある地では誠一は死なないだろうと、美雨なりに打算的なことを考えていた。しかし、誠一は自害を敢行しようとしている。

 また、突然大きな無力感に襲われる、この世は虚無なのかと思うほど、やるせない気持ちがびたっと素肌に密着するのが分かった。

 そして、自軍より倍以上の敵勢を目前とした作戦参謀のように脳漿をかき回し始める、どうすれば、誠一を救えるか、考えて、考えて、考えて……

「何をしている!」

 突然大きな怒声が頭を突き抜けるように聞こえた、二人はシンクロしたように声のした方を振り向く。

 美雨はホッと安堵しながら。

 巡回中の警察官だとヤマをたて見ると、そこには激昂した男と心配そうな目をする女性が棒立ちしていた。二人とも年齢は四十代ほどで、男は拳を今にも振り上げそうに、女性はとくとくと流れ出す涙をハンカチで拭いながら。

 それを見た誠一は瞳を大きく見開き、

「父さん、母さん」

 と、美雨は暫し対峙する誠一と誠一の両親の間をせわしなく視点が行ったり来たり、とても困惑した。

「お前は……何をしている、馬鹿な真似はやめろ、早くその石から降りてこっちに来い!」

 誠一の父親は実の息子を殺そうとしているのかと、勘違いしてしまいそうな鬼の形相で怒鳴り散らす。

 誠一はその姿を目に一瞬静止するが、我に帰り石台から降りた。それを確認すると誠一の父親は堅物そうなしかめつらをして、ドタドタ足音をたてながら誠一に近づき、人間も鳥も風の音でさえ静まり返るような、高音を誠一の頬を平手打ちすることで鳴らす。

 誠一が殴られた反動で力なく地面に倒れ込み、ドサっと粉塵をあげるまでが異様に遅く感じた。

 誠一の父親の怒りは地獄の業火のように燃え盛り、消えることを知らない。続け様に、また、腕を振り上げようとする。

 丁度、限界まで持ち上げたところで拳は振り下がらなかった、誠一の母親が止めに入ったのだ、両手で微弱に父親の上腕を抑えている。

「何をするんだ、母さん、コイツは、誠一は学校もろくに行かず、毎日家に引きこもり、果てには家出して、自殺までしようと、スマホのGPSが無ければ、止めることさえままならなかった」

 誠一の父親は慮外の目で自分を止めに入った誠一の母親の顔を見る。暫く見つめあった二人はほとぼりが徐々に冷め、少し悲しげな普通の夫婦に戻った。

「お前はとんだ親不孝モンだ、でも、お前は家族でもある、家に帰るぞ」

 誠一の父親はスッと手を差し出した。

 誠一はふてくされながらも、赤くなった頬を触るのをやめ、差し出された手を取る。父親の威厳を見せるべく、腕力で誠一を立たせると、グッと手を引き去ろうとした。

 どうやら、美雨のことは眼中に無かったらしい。ぐんぐんと遠ざかる鍵谷一家を美雨は見ていた。

 魂が血管を下り、足裏から抜け地面にめり込むように陰惨を極めた。声も出ないほど打ちのめされ、足腰が緩み、地面にへたり込んでしまいそうだ。

 しかし、それ以上に美雨を突き動かす本能的危機察知能力とも言える、何かが熟れたトマトのように赤く光り、けたたましく警告音が唸った。

 このままじゃダメだ。

「また、逃げるの!」

 火のような激情に美雨は身をやつす。

 両親は鳩が火縄でも喰らったように振り向き、誠一も遅れるようにゆっくりと美雨の方に顔を向けた。美雨は構わず続ける、

「世間からも、生きることからも逃げて、今度は死ぬことからも逃げるの、そんなんでいいの?」

 美雨の言葉は七十メートル近く離れた扇を射抜いたかの矢のように的確に誠一の心を貫通した。確かに、このまま親の言うことを鵜呑みに、家に帰れば何も変わらない。自分はこの二日死ぬためにさまざまな苦労をし、やっとのことでここまで漕ぎ着けたんだ。

「……諦めてたまるか……」

 誠一は呟きを皮切りに父親の手を強引に振り解いた。そして、半日ぶりに逃走を図り、美雨の方へ全速力で走る。

 美雨は接近する誠一を見て、リレーのバトンを受け取る時みたいに、一緒に桃色のミニバンまで走り、飛び乗り、逃げ切った。

 誠一はスマホの電源を落とし。

「ありがとう」

「よくわからないけど、どういたしまして」

 車は法定速度ギリギリで道路を突き抜けている。


 車を飛ばし、行き着いたのは桃源郷かと見間違うほど、美麗な景色の広がる旧青木家那須別邸だった。

 五月であることが起因し、新芽がそこら中に広がり、今は日光に照らされとても空気が澄んでいる。整備された自然あふれる庭の奥に目を向けると、藍色の空に幾つか浮かぶ雲と同色の邸宅はこれ以上なくベストマッチし建っていた。

 近づくにつれ、その邸宅は壮観たる迫力を見せる、軸組や小屋組にドイツ様式の構法を採用された外壁に、鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもった貴重な近代建築は他ではあまり見ることは出来ない。まさに浪漫の一言に尽きた。

「ああ、なんだか、とても気持ちが良いわ」

 美雨は夏に向けエネルギーを充填する木々を見渡しながら、誠一も大いに賛同する。

「それで、君はこれからどーするの?」

 屋敷へと続く道を歩きながら。

「俺は……死にたいはずだった、けど、今はもう少しだけ生きていたい気分だ。こう、ズルズルと生きていてもいけないことは分かるのだが、それでも今はそういう感じなんだ」

 一言一句ハッキリと言う。

「だったら、生きれば良いじゃない、全ては君が決めればいいの」

「ああ、でも、俺には死ぬ理由がある」

 四年と言う月日はあまりに長かった、悶々と部屋に引きこもり悩み、頭を掻き毟った記憶が過ぎる。

 だから、このまま生きる無意味さを痛いほど自覚できた。圧倒的に死にたい、けど、誠一はまた、その一歩を躊躇っている。

 美雨は葛藤を抱える誠一を、優しく見守っていた、それが最適解だと理解したからだ。しかし、美雨はそこまで辛抱強くも、心を鬼に変貌させるのは至難だった。故の行為である。

 目を瞑り、深刻な思案をする誠一の顔に顔を近づける。

 それは、不意に起こった出来事で、柔らかい何かが自分の唇に押し当てられていることに気付く、何かが覚醒したようにかんじた、全身が硬直し金縛りにあったように五感は曖昧に、感覚の全ては美雨と触れ合う一点に集中する。

 十秒ほどだったか、誠一の体感ではとてもスローリーで実際の数倍長く感じたが、過ぎてしまえば儚くも感じた。

 我に帰った誠一は、

「な、なんだ!?」

 美雨は頬を紅潮させ、

「キスよ、ファーストキス」

 二歩三歩とリズミカルに後ずさる美雨は、誠一の目には犯罪的に可愛く映った。この世の全てを投げ打ってでも、悪魔に魂を明け渡してでも、誠一はその笑顔を手に入れたくなった。

 そう、思考が転換すると、死など、しょうもなく下らない現象へと成り下がった、命の冒涜でも何でもなく、ただ、純粋に誠一はそう思ったのだ。

 暫し、静寂が訪れ、刻々と日が傾き、空はオレンジと青が混ざったような色を、雲は薄紫色にたなびいている。それは、とても、とても綺麗で世の中の全てが変わって見えた。

「俺に協力して悪いのだが、俺は死ぬのをやめるよ、家に帰って、親に謝って、学校に行って、就職して、一人前の大人になって……また、ここに来る」

 誠一はぎこちなく、美雨の目を見て言った。そして、視点を邸宅の方に向け、

「こんな素晴らしい場所に俺の死場所はないな」

 誠一は清々しい顔をして、少し自嘲気味に、美雨も続け様に、

「ええ、きっと、ここにも、どこにも」

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