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エトナ.1 留守番

 ドアが閉まりカギが掛かる。

 塔子の足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。 

 その瞬間、エトナは腰が抜けたかのように廊下に座り込んだ。

 

「よかった……」


 両手を胸にあてて、安堵をこぼす。

 気を抜けば涙が溢れそうだったが、きゅっと唇を引き結んでこらえた。


 美味しいご飯、温かいシャワー、清潔な衣服。

 そして何より、一緒に住もうという優しい言葉。

 

 どれもエトナが心から欲していたことで、でも自分には過ぎたる願いだと諦めていたものばかりだった。

 なのに塔子は、そのすべてを一瞬で叶えてくれた。今まで出会ってきた数え切れないほどの魔術師が誰一人聞いてすらくれず冷笑や侮蔑を投げつけてきた願いを、である。


「トーコさん……」


 貸してもらったパーカーの余った袖を、口元にあてる。

 すんと鼻を鳴らすといい香りがした。洗剤か、それとも塔子の匂いか。どっちもだといいなとエトナはなんとなく思った。浴室で抱きしめてもらった時のやわらかさや甘い香りまで思い出してしまい、エトナのほっぺがほんのり紅色に染まる。


「あれ、すごく……ドキドキしました……」


 微かに熱を帯びた声で言い、微笑する。


 ──このまま生きるくらいなら、死んでしまうほうがいい。


 そんな覚悟を秘めて、エトナは不完全な『狭間跨ぎ(ウォルストラ)』を行使した。行き先は完全にランダムであり、異世界に辿り着いた瞬間に『鉄槌の焔(マレスフィア)』で焼かれることも想定していた。

 

 塔子には不死だと説明したが、唯一の例外として『鉄槌の焔』に焼かれ続ければエトナとて死ぬ。読み漁った文献によれば『不死』という概念自体を燃やし尽くすのだとか。『不死』の焼却には時間がかかるため焼かれる不死者は精神が先に砕け、見るに耐えない醜態を晒す……とも記述されていた。


 自分がそうならなかったのは、幸運以外のなにものでもない。


「トーコさん……」


 もう一度、恩人の名を親愛をこめてつぶやく。

 胸がきゅぅっとした。

 初めての感覚だったけれど、心地いい。

 恋も愛も知らず、それどころか友人すらいなかったエトナにとって、この甘やかな感情がなんなのかまだ分からなかった。

 ただ、大切にしたいのはたしかで。


「……なにか、トーコさんのお役に立ちたいです」


 つぶやき、立ち上がってリビングに戻る。

 塔子には寝室にある本を好きに読んでいいと言われたが、彼女が自分のために買い物をしてくれているのを思うと、自分もあの人のために何かがしたかった。


「……掃除なら、わたしにもできますよね」


 空き缶やつまみの空き袋が散乱したリビングを眺め、ぽつり。

 『狭間跨ぎウォルド・ストラ』に内包された現地適応能力が発動し、ゴミの分別が必要なことが閃きのような感覚で理解る。

 エトナは、コンビニの空き袋にテキパキとゴミを入れて部屋の隅に置いた。

 たったそれだけで、惨憺たる様子だったリビングがそれなりになる。


「トーコさんて、結構ズボラなんでしょうか……?」


 だとすれば、今後も自分が役に立てる機会はありそうだ。

 嬉しくなって、つい口元が緩む。


 だが次の瞬間、右の胸に激痛が走り、エトナはその場に蹲った。


「うぐっ、かはっ……ひぐっ……」

 

 胸を押さえ、歯を食い縛る。

 呼吸が苦しくなり、視界が涙で滲んだ。

 心臓を直接殴られたかのような耐え難い痛みが、断続的にする。

 浅い呼吸を繰り返しながら、エトナはパーカーと、その下に着た薄いシャツを捲りあげる。膨らみかけた胸──その心臓のあたりを中心に、こぶしほどの大きさの黒く禍々しい紋様が浮かび上がっていた。

 それは苦しみ喘ぐエトナを嘲笑うかのように蠢いている。


「あぐっ……けほっ、はっ……ごほっ……」


 咳き込む。

 それと同時に身体の奥底から冷たくおぞましい何かが込み上げてきて、エトナは慌てて口元に手を当てた。


「はぁ、はぁ…………わかって、ます……」


 顔を蒼白にし、声を絞り出す。

 口から離した手のひらが濡れていた。

 それは唾液や胃液でもなければ血でもなく、黒く粘ついた液体だった。


 よろよろと立ち上がり、転びそうになりながら洗面所へ向かう。

 手と口を洗い、洗面台に痕跡が残らないように入念に水を流した後、エトナはその場にくずおれた。


「だいじょうぶです……わかっています……わたしは人でも魔術師でもなくて……魔女だってことくらい……わたしが、一番わかっています……」


 肩で息をし、自分に言い聞かせるように唱える。

 

「少しでいいんです。……少しだけ、待っていてください。せっかく、トーコさんみたいな素敵な人に辿り着けたんです。最後くらい、夢を見させてくれたっていいじゃないですか……」


 心臓に手を当て、ひたすらに乞う。

 それから再び服を捲くって見ると、浮かび上がっていたはずの黒い紋様は幻だったかのように消えていた。


「トーコさんがいない時でよかった……」


 蒼い顔に安堵を浮かべ、エトナは立ち上がる。

 自分が何者なのか、塔子には絶対に言えない。いや、言う必要はない。

 いずれ何もかも消え去ってしまうのだから。


「……トーコさんにはやく、会いたいです」


 無意識につぶやいた後、エトナは台所に向かい、ぎこちない手つきで洗い物をはじめた。

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