なんでもない時間が、いつまでも続けばいいのに。
ごめんなさい!!!
転職とか色々あってあたふたしてます!!
「ふひゅぅ……長い1日だった……」
18時過ぎ。
エレベーターを降りた私は、やれやれと息をついた。
灯鞠のことでドタバタした1日だった。
彼女が立ち直ってくれたようで一安心だけど、こうしてマンションに戻ってきた今、途端に疲労感が押し寄せてくる。肉体的にも精神的にも消耗しているようだ。
「告白されて断って、だもんなぁ……」
改めて目まぐるしい1日だったと苦笑しつつ、玄関を開ける。
すると、とととっ──と耳慣れた足音が聞こえて。
「おかえりなさい、トーコさん……!」
黒いシャツの上に薄桃色のエプロンを着たエトナが出迎えてくれた。
私はいつも通り「ただいま」と返して靴を脱いで廊下に上がり、鞄を置いてエトナを抱きすくめる。
「ただいまぁ……」
エトナの柔らかな銀髪に鼻を埋め、囁くようにしてもう一度言う。
「……えっと、トーコさんお疲れ……ですか?」
「うん、まぁちょっとね。やっぱり分かる?」
「声がなんとなくしんどそうだったので」
そう言ってエトナは私の背中に手を回し、小さな手のひらで優しくさすってくれた。
「お仕事お疲れさまでした。……わたしなんかが言うのもおこがましいですけど、とてもご立派です」
労いと慈しみを込めた言葉。
それだけで、気だるい心がすっと軽くなる。
世界中の労働に勤しむ人々すべてにこの幸せをおすそ分けしたいくらいだ。いや、やっぱり誰にもあげたくない。独占したい。
「エトナは優しいなぁ」
「そんなことないですよ……トーコさんが優しくしてくれたから、そのお返しをしてるだけです」
「良く出来た子だぁ……」
ついつい可愛くて、むぎゅっと抱く力を強くする。
エトナは「あうっ」と冗談めかした悲鳴をあげて、されるがまま。可愛い。
温もりに浸ってふにゃふにゃになってきた私は、思ったことを考えなしに口走る。
「エトナと結婚する人はきっと幸せになるだろうなぁ……」
「そ、そうですか……?」
「うんうん。可愛いし料理は上手だし気配りもできるし、やっぱり可愛いし」
よしよしと、エトナの頭を撫でる。
相変わらず極上の手触りだ。ずっと撫でていたい。
私がちょっとだらしない顔をしてエトナを撫で続けていると、彼女はそっと呟いた。
「……それじゃあ、トーコさんもですか?」
「ん、なにがー?」
「もしわたしがトーコさんと……その……結婚したら……幸せになってくれますか?」
エトナが、純粋さと少しばかりの憂いを帯びた瞳で見上げてきた。
だがすぐに自分が何を口走ったのか気づいて真っ赤になり、わたわたする。
「あ、あの、ちがうんです……! 結婚っていうのは言葉の綾で、えっと……その、ただ、えっと……トーコさんは、わたしといて楽しいのかなって……す、少しでも幸せになっていただけているならいいなって思って……その……」
最早収集がつかないといったように狼狽え、あわあわするエトナ。
そんな彼女に向かって私は微笑み、「当然だよ」と返す。
めいいっぱいの親愛と実感を込めて。
「今だって、エトナと一緒にいられて幸せだしね」
「……っ!」
エトナの表情が、今まで以上に色づく。
「あうぅ……」と可愛らしく呻きながら私の胸に顔を押し当て「うれしいです……」と消え入りそうな声でこぼし、身体を預けてくる。
「まあ、結婚は飛躍し過ぎだけどね。そもそも16歳からじゃないとできないし」
「そうなんですか?」
まだ赤らんだままの顔を上げ、エトナが疑問符を浮かべる。
「エトナがいた世界ではどうだったか知らないけど、この国ではそういう決まりなんだ」
「……そうなんですか」
目に見えて残念そうだった。
結婚願望が強いのかな? 私なんてアラサーの域だけれど、結婚しようだなんて考えたことすらない。このあたりは世界の違いというか、文化の違いなのかな。単純に個人の問題かもしれないけど。
いや、結婚できないわけじゃないから。
ただ、しようと思わないだけ。それだけ。
……止めよう、この話は考えれば考えるほどドツボだ。
私は心と話題を切り替えるべくエトナに尋ねる。
「ところで、今日の晩御飯なに?」
エトナは目をぱちくりさせた後、嬉しそうに答えてくれる。
「鰤の照り焼きとコロッケを作りました。コロッケはタネからちゃんと作った自信作です」
「すごい。エトナの料理がどんどん手の込んだものになってる」
「美味しく食べてほしい人がいるからですよ」
ふにゅりと笑うエトナ。
あー、ちくしょう可愛いなこいつ。
「ほんっとエトナは天使だなぁ。やっぱり絶対いいお嫁さんになれるよ……!」
最後に一度強めにぎゅっとした後、私はエトナから腕を解く。
そうして廊下に放りっぱなしだった鞄を手に、意気揚々とリビングへ向かった。
だから。
私の背後。廊下で佇み、少し戸惑いがちに「天使じゃなくて魔女なんですけどね……」と呟くエトナの言葉も、その後に続いた「でも……トーコさんと少しでも一緒にいられるなら、なんだって構わないです」という囁きも。
何一つ聞こえなかった。
聞こえない、フリをした。
■■■
夕飯のち、入浴。
普段どおりの流れを普段どおりに営み終えたわたしは、寝室のベッドに寝転がってスマホをいじいじする。
エトナがお風呂から上がるまで、しばし1人の時間だ。
結局夕飯ではコロッケを3つも食べてしまった。
挽肉たっぷりの牛肉コロッケは絶品だったし、鰤の照り焼きもタレのあまじょっぱさが絶妙で、ご飯が進むのなんの。
ふっくら炊けた白米を茶碗2杯も掻きこんでしまった。
「これは脂肪フラグ」
パジャマの上からお腹を触ってみると、やや柔らかい感触が返ってくる。
「あれ? これ、本気で太ってない?」
冗談めかして言ったフラグが、秒速で回収された瞬間だった。
不摂生をしているつもりはないが、エトナが作ってくれるご飯のおかげで自然とカロリー過多になっていたのだろうか。美味しいからついつい食べ過ぎる……というのは幸中の不幸とでも言うべきか。
「……運動するかぁ」
食べる量を減らす、というのは却下だ。
作った料理をたくさん食べれば食べるほどエトナが嬉しそうにしてくれるので、その笑顔を今後もずっと見続けたいのである。
よって、運動一択だ。
ジムにでも通おうかな……。
と、手近なジムをスマホで探してしばらくした頃、エトナが寝室に入ってきた。
もこもこのパーカータイプのパジャマを着た彼女は、手にバスタオルを持ち、濡れ髪のままだ。
「ちゃんと温まった?」
「はい。ちゃんと湯船で50数えました」
「よろしい。それじゃあ、おいで」
スマホを置いてベッドの端に腰掛けた私は、膝をぽんぽんと叩いてエトナを招く。
エトナはとことことこちらに寄ってきて、私の膝の上にちょこんと座った。
「お願いします」
そう言って、エトナは私にバスタオルを手渡してくる。
受け取った私は、バスタオルを広げてエトナの濡れ髪を優しく包み込むようにして拭いていく。綺麗な銀色の髪を傷つけないように丁寧に、そっと。
髪が長いエトナは、どうやら自分では上手く髪を乾かせないみたいだったので、私が手伝ってあげるというわけである。
湯上りでぽかぽかのエトナの体温に心地よさを感じつつ、手を動かしていく。
時折くすぐったそうにエトナが身じろぎするので「ほら、動かないの」とおしおき代わりに耳にふっと吐息を吹きかけてやったりもした。
エトナは私と同じで耳が弱いらしく「ひゃっ!?」なんて声を上げるので、可愛げがあってたいへんよろしい。あんまりやりすぎるとやり返されるのでほどほどに、というのが肝要だ。
「それじゃあ、次はドライヤーね」
髪を極力痛ませないように、弱風でさっと乾かしていく。
エトナの髪の極上の手触りとシャンプーの香りに浸りながら、数分で完了。
ドライヤーを床に置いた私は、そのままエトナを後ろから抱きしめてベッドに倒れこむ。
「このまま寝よっか」
「はい……明日のためにも、今日はたくさん眠っておきたいです」
「いよいよ明日だね、お出掛け」
「すごく……すっごく楽しみです」
エトナが溜めた感情をこぼすように、嬉しそうに言う。
「でも私が出かける場所決めちゃって本当によかったの? しかも、この家の周辺でいいだなんて。ちょっと遠出すれば観光スポットとか色々あるんだけど」
「近くだからこそ、いいんです。トーコさんが普段暮らして馴染みのある場所のことが知りたかったので……それに、トーコさんがわたしのために考えてくれたんだって思えば、どこだって嬉しいですし。だから、問題なんてありません」
私の指に、エトナが指を絡めてきてきゅっと握ってくる。
「絶対に忘れられない1日にしたいです」
「そうだね……私もだよ」
私にとってはなんでもない暮らしなれた街でも。
エトナにとっては、特別な場所だ。
そう自覚した途端、エトナの手を握る私の手にも力が篭った。
「それじゃあ、おやすみなさい。エトナ」
「はい、おやすみなさいです。トーコさん」
布団を被って身を寄せ合った私たちは、いつものようにおやすみを交わして目を閉じた。
明日の予報は1日晴れ。
絶好の、お出掛け日和だ。




