灯鞠ハートブレイク 4
くつくつと、何かを煮込むような音が聞こえる。
お腹が減る音だな、とあたしはぼんやり思った。
どうして自分がベッドで眠っているのかよく分からなかったけれど、まだ起き上がれるそうにもなかった。身体中が粘度の高い泥になったみたいに重かった。
あたしはどろんとしたまま、鼻をひくつかせる。
お出汁のいい匂いがした。
懐かしい匂いだ。
まだ学生だった頃、お母さんが作ってくれた朝ご飯の匂いに似ている。
白咲家の朝食は、野菜や魚が中心で、やたら品目ばかり多かった。
当時は面倒臭い朝ご飯だな、朝マックとかでいいじゃん、お金だけ渡してくんないかなぁ……なんて思いながら食べていたけれど、今思えば育ち盛りのあたしのためにきちんと栄養価を考えて作ってくれていたのだろう。
毎朝あたしより早く起きて、温かい朝食を用意してくれて。
あたしがシナリオライターになると言い出した時も、最後まで心配してくれたのはお母さんだった……。あたしの夢をくだらないと一蹴したクソ親父に気づかれないように、こっそりあたしの荷物の中にお金と手紙の入った封筒を入れておいてくれたり……。
勘当同然で東京へ飛び出してきて以来、実家には一度も帰っていないし連絡もしていない。お母さんには悪いと思っているけれど、でも、連絡なんて取ってしまえばクソ親父にバレて連れ戻されそうで怖いのだ。
別に、寂しくなんかない。
自分は、1人でだってやっていける。
だから、寂しくなんか……。
「まだ寝てていいよ」
不意に、声がした。
穏やかで、聞いているだけで安らぐ声。
絶対に知っている声のはずなのに、疲れ切った頭では全然思い出せない。確かめようと思って目を開けようとするのに、睡魔が猛襲を仕掛けてきて瞼も上手く上げられない。
「無理しなくていいから、寝てなさいって」
慈愛が滲む声で言って、その誰かはあたしの頭を撫でた。
最近ロクにお風呂に入っていなくて手入れだってしていないあたしのボサボサの髪を、まるで絹糸にでも触るかのように優しく撫でてくれる。
そんな風にしてもらう価値なんてない髪なのに、心がじわりと熱くなる。
「おやすみ、白咲」
その短くも気遣い漂う声に、返事をしたかった。
おやすみなさいと、もう随分久しく誰にも言っていないありふれた言葉を返したかった。
けれど底の見えない透明な水の中に沈むように。
あたしは再び眠りに落ちていった。
◆◆◆
「よしよし、ちゃんと寝たね」
白咲が寝息を立てるのを確認して、私は彼女の頭から手を離した。
少し前より、幾分か顔色がよくなっているように見える。
料理が一段落ついたので白咲の様子を確認してみると、ちょうどぼんやりと目を覚まそうとしていたところだった。とはいえ、まだ疲れが抜けていないようだったし、料理も未完成だったため寝かしつけた──というわけだ。
と、ピーッと炊飯器が鳴った。
「炊けたかな」
私は踵を返して台所に戻る。
1人暮らし用の2合炊き炊飯器を開けると、ふっくら炊けた白米が迎えてくれた。
「まったく……炊飯器はあるくせにお米切らしてるなんて。白咲のやつ、自炊とかほっとんどしてなかったんだろうなぁ」
2キロとはいえ、米まで買って帰るのは中々に骨だった。小さなスーパーが近くにあって助かったというものだ。……逆に言えば、近くにスーパーがあるのにコンビニ弁当ばかりの食生活だったというのが、白咲の普段の生活を物語っているわけで。
「ま、生き方なんて人それぞれではあるんだけどね」
呟き、椀にご飯を山盛りよそってコンロの前へ向かう。
火の点いたコンロの上では、鍋がぐつぐつ煮えていた。
鶏肉や白身魚、白菜やネギ、キノコなどを入れて塩味ベースで煮込んだ寄せ鍋だ。既に具材はいい塩梅に煮えており、すぐにでも食べられるだろう。
が、これが本命ではない。
私は新たに小さな鍋を取り出して、その中に鍋の具や汁を適量移し、火にかけた。そこに先ほど盛った炊き立てご飯を投入。味を調えるために、醤油などを少々。
やがてコトコトと煮立ち始めるのを確認した後、買ってきた卵を冷蔵庫から取り出す。
「やっぱり、弱った時は雑炊だよね」
ということで、小鍋に卵を2つ投入。
軽くかき混ぜながら、卵が上手く固まるのを待つ。
「食欲があるようならお鍋も食べてもらえばいいし。便利よのう、お主は」
なんて言いながら、鍋の火を止める。
もしも食欲がなかった時のためにゼリーなども買ってきたし、出来る限りの準備は整えたつもりだ。空っぽだった冷蔵庫が、見違えるくらいに活用されている。
「それじゃあ、掃除もしちゃいますか」
同じく買ってきた指定ゴミ袋を手にし、私は台所を離れて白咲が眠っている狭い部屋へ戻る。極力音を立てないように注意しつつ、分別しつつ、床や机に散らかったゴミを片付けていった。
脱ぎっぱなしの衣服はとりあえずハンガーに掛けてやり、乱雑に放置された仕事の資料は、種類ごとに纏めて机に置く。
「……これは?」
ゴミだらけの部屋に似つかわしくない、綺麗な装飾を施された小箱を見つけた。
何かの折に貰ったお菓子か何かの箱だろうか。
ゴミなのか白咲の私物なのか図りかね、箱を開けてみる。
「これ、私のゲームじゃん……」
中に入っていたのは、『最期の日までに』のパッケージだった。
他にも、私がテノルテに入社してから関わったコンシューマーゲームのパッケージがいくつか。あとは、達筆な文字で『灯鞠へ』と書かれたくしゃくしゃの封筒と、おそらく手紙と思しき畳まれた紙。
さすがに手紙の内容まで見る気はなかったけれど、その紙はだいぶ古くなっており、折り目を見る限り何度も開いたり折ったり……つまり、たくさん読み返されていたことが察せられた。
「この箱、白咲の大切な物入れってこと……?」
私が関わったゲームが入っているのは謎だったが、何にせよ床にほったらかしにして置くなよと思いつつ、机に載せておく。
「ま、こんなとこかな」
ある程度片付いた部屋を眺め、私はひと心地つく。
スーパーで買ってきておいた紙パックのカフェ・オレで糖分を摂取しつつ、白咲が眠るベッドの傍に腰を下ろす。
「……あとは白咲のお目覚めを待つばかりか」
スマホを操作し、自宅近辺の観光スポット情報を眺める。
こうしてドタバタとしているが、明日はエトナとのお出掛けがある。
飾り過ぎず気取り過ぎず、でもエトナにとって大切な思い出になるようなお出掛けコースを構築していく。
「んっ……」
小さな声が漏れたかと思うと、白咲がこてんと寝返りを打った。
スマホから目を離し、彼女を眺める。
普段の白咲からは想像もつかないくらいに無防備でだらしない寝顔だ。メイクをしていないので派手さの欠片もない顔は、しかし素朴で可愛らしい。
「こういう時でも、爪はちゃんと切ってるんだ」
なんとなしに視界に入った白咲の手を見て、呟く。
髪や洋服などにはこだわる反面、彼女は常に爪を短くしていた。
いつだったか「キーボードを打つ時に邪魔なのよ」と言っていたのは、よく覚えている。
「……よく、頑張ってるね」
白咲の細い指に触れつつ、囁く。
彼女が目を覚ましたら、優しくしてあげようと思う。
勿論その後で、周りを心配させたことについては怒るつもりだけれど。
それはそれ、これはこれ。
メリハリは大事だ。
「そろそろ起きてもいいよ」
そんな私の独り言に反応したのか否か。
白咲の指が、私の指を求めるように絡まってきた。
「ふふっ、寂しんぼめ」
私は指ではなく、手全体で白咲の指を包み込んだ。
「大丈夫だよ、1人になんてしないから」
スマホを置いた私は、穏やかに眠る白咲を眺めて待つことにする。
彼女が起きるまで下手に立てないなぁ、とぼんやり思った。




