スランプ
結局此葉は、日曜日の昼過ぎまで私の家で遊んで帰った。
エトナは想像以上に此葉に懐いてくれたようで見ているこちらが微笑ましくなるくらい打ち解けていた。
私以外の誰かと関わりを持つことは、エトナにとってきっと必要だ。
此葉のおかげでその重要性を実感できた。……うん、此葉にはいずれ美味しいお寿司をご馳走してあげよう。もちろんその時はこの家で、エトナも一緒に。
◇◇◇
週末が明け、月曜日。
「コノハさんによろしくお伝えください……!」と力を込めて言ってくるエトナに「うんうん、了解」と笑って手を振り、私は出社した。
オフィスに着くと既に此葉がいて、朝食であろうパンをもっしゃりしていた。
脇に置かれた袋を見るに、駅前のベーカリーで買ってきたらしい。
私は彼女に声を掛け、先日のお礼とエトナのことを伝える。
すると此葉はコロッケパンを一口で豪快に口に収めてもごもごごっくんした後、
「にゃはっ、喜んでもらえて何よりっす。是非また呼んでくれると嬉しいっすね。本当に、いつでも呼んでくれていいっすから。……自分もまた、エトナちゃんと遊びたいっすし」
と、笑顔で言ってくれた。
最後の一言だけ彼女にしては妙に穏やかな声音だった。
なんだろう、母性にでも目覚めてしまったのだろうか。
まあ、エトナは小さくて可愛いのでそういうキモチが湧くのも致し方ないかもしれないけれど。
そうして業務に取り掛かり、昼過ぎ。
さて昼食しようかと伸びをしたところで、背後から声がした。
「やあ、塔ちゃん。お昼一緒にどうだい?」
振り返ると、三峰雪花が立っていた。
いつも通りどこか浮世離れした雰囲気のある彼女は、トレードマークの赤縁メガネの位置を手で弄りつつ艶然と微笑んでいる。
「? いいですけど、どうしてまた」
「いいからいいから、ね?」
私が怪訝そうに返すと、社長は口元に手を当てて声を潜めつつウィンクした。
色気のある仕草だったが、私は嫌な予感を膨らませる。
社長は普段誰かを昼食に誘ったりしない。
彼女はいつも手製の弁当を社長用オフィスで黙々と食べつつ仕事を進めるのが常だった。
それが私を誘ったということは、何かある証左に他ならない。
「そんなに警戒しないでくれたまえ。ちょっと相談したいことがあるだけさ」
苦笑しつつ、社長は一瞬だけ視線を私から外す。
私は立ち上がって、視線の先をちらっと確かめた。
するとPCの画面を前にして難しい顔をしている白咲の横顔が見える。
社長へ視線を戻すと、彼女は無言で頷く。
どうやら白咲について話があるらしい。
「詳しいことは、外で話そう。今日は美味しい丼物が食べたい気分なんだ。ご馳走するよ」
「いいですね、喜んで」
私たちは連れ立ってオフィスを後にした。
その間、白咲は身じろぎひとつせず画面と睨めっこしていた。
◇◇◇
「スランプ……ですか?」
「まだそこまで深刻かは断定できない。ただ、ここ最近の白咲の成果物が明らかにおかしいのは確かなんだ」
そう言って、社長は特上海鮮丼(大盛り)の器を持ち上げて豪快にかきこんだ。
ウニやいくら、ほぐしたカニの身などが一気に彼女の口へと雪崩込む。
艶のある美人の清々しい食べっぷりは中々絵になるなと思いつつ、私は特上天丼(ご飯少なめ)の茄子のてんぷらを齧った。サクっとした衣とあまじょっぱいつゆ、そして茄子の甘みが口いっぱいに広がる。
会社から7分ほどの場所にある『丼屋 しぐれ』は昼時とあってほぼ満席だった。
運よく2人掛けのテーブル席に案内された私たちは、賑わう店内で他の客同様にこの店自慢の丼を堪能している。
「おかしいって、どんなふうに?」
「簡単に言ってしまえば、王道ないしユーザーが求める最適解が書けていない。ひまりんのライターとしての長所は、ユーザーが一番求めている展開を高い水準で書き切るところなんだが……ここ数日の彼女は、どうにも調子が悪いみたいでね」
「社長が私に話を持ち掛けるってことは、相当なんですね」
「ああ。昨日なんて、誰も報われないバッドエンドをクライアントに提出しようとしていた。さすがに私が止めたよ。まだ締め切りまで期日もあるから再考するように言ったんだが、あの様子だと行き詰っているらしい。……まあ、我々の仕事が行き詰るのは道端で小石を見つけるのと同じようなものだけどね」
柔らかく笑って、冷たい茶を啜る社長。
対して私は爽やかな苦味と甘みのいんげん豆のてんぷらを食みながら考える。
白咲の長所は王道を書き切れること──たとえば、ソーシャルゲームのイベントシナリオでは登場人物すべてに上手く役割を振り分けたうえで悪役にさえ多大な魅力を持たせ、誰も彼もをハッピーエンドに導く。そういう才能が、彼女にはあった。
白咲が担当したイベントシナリオに登場したキャラクターは必ずといっていいほど人気が出て、その後のガチャの売上げが急増する……と、以前親しいクライアントの担当者が言っていた。
それがまさか、誰も報われないバッドエンドを提出するだなんて。
「……クライアントの指示ではないんですよね?」
「月末に実装されるイベントシナリオの案件だったんだが、ざっくり言うと水着キャラたちがきゃっきゃうふふする明るいシナリオをという発注だった。バッドエンドとは程遠いな」
「それはまた……」
擁護の余地もなかった。
スランプか、もしくはそれ以上の何かと断定していいだろう。
「しかし意外だな。てっきり私は、塔ちゃんなら白咲の異常について既に把握していると思っていたのだが。最近の白咲の成果物、確認していなかったのかい? 共有ファイルに入っていたはずだが」
「すみません。ちょっと最近、忙しくて」
私は曖昧に笑って応じた。
社長の言うとおり、私は白咲をはじめテノルテ社員がクライアントに提出した成果物を逐一チェックしていた。業務上必ず必要というわけではないが、一緒に仕事をする仲間の得手不得手や調子の把握、そして何より自分の勉強になると思っていたからだ。
日課と呼べるくらいに私の中で当たり前になっていた作業だったのだが、エトナと暮らし始めてからは時間の関係で手をつけていなかった。
社長も、私が日課にしていたことを知っていたからこそ純粋に疑問に思ったのだろう。
「そうか。忙しいというのは、仕事が溜まり過ぎているからかい? それとも、日々が充実しているからこそかい?」
「充実し過ぎているからですね。正直、身体が二つ欲しいくらいです」
私が冗談めかして言うと、社長はくくっと可笑しそうに笑ってくれた。
「なら重畳。忙しいなら手伝おうかとも思ったが、余計なお世話だったかな。でも、人手不足ならいつでも言ってくれたまえ。社員の心身に気を配るのは社長の役目だからね」
「頼りにしてます。……だからこそ、白咲が心配なんですね」
「そういうことさ。あの子は塔ちゃんに並々ならぬ思い入れがあるようだし──もし彼女に何かあったのなら、それを救えるのは私ではなくキミだ。だからこそ、今こうして話している」
「買い被り過ぎでは?」
丼の端っこに盛り付けられたおしんこを齧りつつ言う。
社長は「ただの事実さ」と言って、肉厚のホタテを口にする。
「何にせよ、ひまりんを見てやってくれ。もし作業が滞りそうなら、すぐ私に言うように。キミたちの請け負っている仕事はすべて把握しているから、すぐにでも執筆のヘルプには入れるしチームの取りまとめも、どうにかして見せよう」
「どうにかってより私たち以上にチーム纏めていいもの納品しちゃえますよね、社長なら」
「ふふっ、それこそ買い被りってものさ」
不敵に笑った後、社長は茶を一息に飲み干した。
いつの間にか、彼女の丼は米粒ひとつ残っていない。
「え、食べるのはやっ」
「何事も迅速にというやつさ。ああ、慌てなくていい。私も──すみません。追加でミニ天道1つ」
ちょうど横を通りがかった店員に、社長はなんでもないように注文した。
特上海鮮丼(大盛り)を平らげてまだ食べるのかと唖然として見つめる私に、彼女はちょっとだけ照れ気味に笑って、
「塔ちゃんのを見ていたら我慢できなくなったんだ。別にいいだろう、栄養はきっとこっちに回る」
そう言って、洋服の布地を押し上げるたわやかな胸に手を当てる。
「太って社長の威厳がなくなっても知りませんからね」
私はエビを咥えながら、白咲について考えを巡らせた。




