お泊り此葉 1
翌々日、金曜日。
私は普段より1時間ほど早い17時に仕事を切り上げ、荷物を纏めた始めた。
エトナと過ごす時間を少しでも増やすために、普段以上のペースで仕事をこなした結果だった。
「およ? 今日は早いっすね」
隣のデスクで作業していた此葉が、椅子に座ったまま言った。彼女は椅子のローラーをカラカラ鳴らしながら私の傍まで寄ってくる。
「っていうか先輩、最近帰るの早いっすよね。いっつも遅くまで残ってシナリオチェックとか他の人のフォローしてるイメージだったんすけど
「そうだっけ? まあ、たまたまだよ」
無邪気に八重歯を覗かせて言ってくる此葉に、私は軽く笑って返す。
視界の端で白咲がこちらを一瞬見て──見ていることがバレたと気付いて慌てて顔を伏せていた。なにしてるんだろ、あの子。
「……まさか、男っすか?」
此葉の目が怪しく光る。
視界の端では白咲がガバッと顔を上げ、慌てて伏せていた。
私は呆れながら手を振って否定する。
「いや、それはないって。単純に早く帰ってゆっくりしようかなってだけだよ。どこか行く予定とかも全然ないし」
「なーんだ、そうなんすね。でももし恋人ができたら、自分にも教えてくださいっすよ?祝福したり応援したりするっすから」
「はいはい。じゃあ、あなたも好きな人とかできたら私に言いなさいね」
「あ、それならすぐ言えるっすよ」
「え?」
思わず、鞄に入れようとしたノートを取り落として此葉の顔を見る。
色気より食い気、花より団子の後輩がまさか──と愕然としていると、此葉は目を細めてにんまり笑った。
「自分が好きなのは、このテノルテの人たちっす。先輩も白咲さんも社長も、みーんな好きっす。もう、だいだいだーい好きって感じっすね」
そう言って、「たはー! 言っちゃったっす!」と椅子をくるくる回しながら照れる此葉。
私は拍子抜けして脱力した後、自然と笑みをこぼす。
「なんていうか、此葉には今のままの此葉でいてほしいな」
「??? 自分は今も昔もこれからも、こんな感じだと思うっすよ」
きょとんと首を傾げる此葉。
うん、それでいい。そのままでいてほしい。
「それじゃあ、またね」
荷物を纏め終えた私は、別れを告げてオフィスを出ようとする。
だが、此葉の話はまだ終わりではなかった。
「あ、先輩先輩。明日明後日って休みっすか?」
「うん、休みだけど」
先週は仕事の進行上出社していたが、今週は土日休みだ。
「なら、そろそろまた先輩の家に泊まりに行っていいっすか?」
「あー……」
私は返答に窮した。
エトナがいるから、私の一存で了承するわけにはいかない。
かといって、早々に断るわけにもいかなかった。
というのも、此葉は毎月1,2回休日のタイミングを合わせて私の家に泊まるのが恒例となっていたのだ。
泊まって何をするのかと言えば、様々だ。
ゲームをしたり彼女が持っているプロジェクターで映画鑑賞をしたり、意外と料理上手な此葉の手料理を堪能したりシナリオ談義をしたりで、泊まること自体が目的になっている節すらある。
今まで此葉のお泊り希望を断ったことはないだけに、ここで断れば勘繰られる可能性はおおいに考えられた。
「もしかして、都合悪かったっすか……?」
私の歯切れの悪さに何か感じたらしい。
此葉がしょんぼりした声音で訊いてくる。
猫っぽい雰囲気があるクセに、まるで飼い主に構ってもらえないミニチュアダックスフントみたいだった。
「悪くはないんだ。ただ、ちょっとまだ予定が不透明でさ。今日中に改めて連絡するから、待ってもらっていいかな」
私はひとまずそう言った。
一人暮らしだった頃なら、二つ返事でお泊りOKと言っていただろうが、今の私はエトナと暮らしている。同居人の意思を聞かないことには、物事は進められない。
「そういうことなら了解っす! あ、でも無理はしなくていいっすからね。自分はあくまで、もしお暇ならお邪魔したいなっーてくらいなんで。断られたらさびしいなーとか、人肌恋しいなーとか、自分いらない子なのかなーとか思ったりしないっすから! もう、全然!」
此葉は力強く言って、「じゃあ、連絡待ってっるっすからね! お疲れさまっす!!」と告げると自分のデスクに戻り「今日中に全部かんっぺきに仕上げてやるっすからねえええ!!」と気合充分でキーボードを鳴らし始めた。
どうやら、溜まっている仕事を終わらせて明日明後日を憂いのない休みにしたいらしい。その頑張りが報われるか否かが私にかかっていると思うと、だいぶ重荷だ。
「それじゃあ、お先です」
オフィスに残っている他の面々に言って、私は出入り口へ歩を進める。
途中で白咲の視線を感じたので軽く手を振ってみたが、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。いつもならもっとグイグイくる彼女がここまで控え目だとなんだか調子が狂うなと思いつつ、エレベーターに乗った。
ふと、ラインのメッセージ受信音が鳴る。
確認すると、差出人は白咲だった。
『おつかれさま』
変換すらされていない平仮名6文字が表示される。
ますます普段の彼女らしくないなと思いつつも、返信した。
『お疲れ様。白咲も、あまり無理しないでちゃんと休んでね』
すぐに既読がついた。
だが結局私が家に着くまで、それ以上メッセージは来なかった。
◇◇◇◇◇
塔子がオフィスを出てから10分ほど後。
白咲灯鞠は、手の中のスマホの画面を眺めてニヤニヤニヤニヤしていた。
画面には、
『お疲れ様。白咲も、あまり無理しないでちゃんと休んでね』
という、塔子からのメッセージ。
それをもう何度目かも分からないくらい心の中でつぶやき、笑みを深める。
「なにしてんすか、白咲さん」
「どわっひゃい痛っっっ!?」
突然背後から声を掛けられ、灯鞠は飛び上がった。
その拍子にデスクの裏面に膝をぶつけてしまい、突っ伏して震える。
「えぇ……」
あまりに派手なリアクションをしてしまったせいか、声を掛けてきた此葉は若干引いていた。
「なんかごめんなさいっす。まさか白咲さんが職場でエッチなサイトを見てるだなんて思ってもみなかったんで……」
「……勘違い甚だしいんだけど、殴っていいかしら」
ドスを利かせた声で言うと、此葉は慌てて「じょ、冗談すよぉ。本当は塔子先輩からのメッセージを見て普段ではありえないくらいにとろけた笑顔をしてただなんてこと、自分は全く知らないっすから」と口にした。
よし、殴ろう。
ややアッパー気味に放ったこぶしは、見事に此葉の鳩尾を捉えた。
此葉は「ぐふっ」と呻き、その場に蹲る。
灯鞠はヒールを脱ぎ、黒ストッキングに包まれた右足を蹲っている此葉の頭に乗せた。
「で、何かしら。チームが違うあんたがわざわざこのあたしに声をかけたってことは、それなりに大事な用事なんでしょうね」
ぽむぽむげしげしと此葉の頭を弄ぶ。
此葉は「これが噂の『我々の業界ではご褒美です』ってやつっすかね……たまんねぇっす」とつぶやいた後、ひょいっと灯鞠の足から逃れて立ち上がり、
「社長が呼んでるっすよ。『灯鞠が私のラインを既読無視してるんだ。もう無理、社長辞める』って、自分とこに泣き言ラインが飛んできたっす」
「あっ……」
塔子にラインを送る直前に、別室にいる社長の雪花からラインが来ていたことを灯鞠は今になって思い出した。そういえば既読した覚えもある。
「やっばっ……!!」
灯鞠は慌てて立ち上がり、別室へ向かった。
残された此葉は、能天気な笑みを浮かべて「いってら~っす」と手を振った。




