カレー 後編
17時半過ぎ。
エプロンを身に着けたエトナは、並々ならぬ決意を秘めて台所に立っていた。
「トーコさんに美味しいって言ってもらえるように……」
使い方を教わったインターネットで、美味しいカレーの作り方も検索した。
ナイフはもといた世界で扱ったことがあるので、それが包丁に変わったところで問題ない。
米を研いで炊飯器のスイッチを押した後、エトナは野菜を手際よく切っていく。
塔子が食べやすいようにじゃがいもや人参は小さめに、玉葱はくし型切りとみじん切りを半々に。あらかじめ解凍しておいた冷凍牛肉は、手で千切る。
具材の準備が整うと鍋を空焚きして油を敷き、まずはみじん切りにした玉葱を炒める。
焦がさないように弱火でじっくりと、あめ色になるまで丁寧に木べらで混ぜてから、他の野菜を投入。
胡椒を少々振りながら炒め、最後に牛肉を入れてから鍋を水で満たして煮込む。
レシピ通りの基本的な──しかし、エトナにとって人生で初めて誰かのために作る食事。
おたまでアクを丁寧に取り、野菜が柔らかくなるまでじっくりコトコトに込んでいって。
「ふふっ……」
そこでふと笑みがこぼれて、エトナはハッとした。
こんなに無意識に笑ってしまうことなんていつ以来だろうか。いや、もしかしたら初めてかもしれない。短い間に自分は随分と変わったのだと、自覚する。
「……塔子さんが、わたしを変えてくれた」
ぽつりと、温かな想いを込めて囁く。
その後火を止めて固形ルゥを割り入れ、かき混ぜる。
よく溶けたのを見計らって再び火を点け、弱火でコトコト煮込んでいく。昨日の食事を思い出すような匂いが漂い、エトナは目を細めた。
しかし、今日のカレーは昨日のものとは作り手も具材も違う。
何より今日のものは辛口だ。
甘口の固形ルウはまだ残っているが、エトナはそれには手を出さなかった。
塔子が好きな味で作りたかったし──彼女が好きな味を、自分も好きになりたかったのだ。
「……美味しくなってくださいね」
祈るように言い、木べらを動かす。
静かに回る換気扇の音と、カレーが煮立つ小気味いい音──穏やかな時間は、今までの何もかもを忘れて、ただ安寧に溶けていくかのように心地よくて。
でもそれは、魔女たる者には赦されない、日の当たる場所で。
突然。
忘れるなと弾劾するかのように、エトナの全身に焼けるような痛みが走った。
「いぎっ、がっ……はっ……!!」
危うく鍋を引っくり返しそうになるのを避けながら、エトナはその場に蹲る。
「あがっ……ぁぁぁぁぁぁ……ひぐっ……」
身体中の神経が引き千切られているかのような激痛に、視界が明滅する。どこが痛いのか、それともどこもかしこもが痛いのか。必死に息を吸っているはずなのにまったく肺に酸素が届いている感覚がなく、胸のあたりを押さえてのたうち回る。
「はっ……あぐっ…………ぁぁ…………ぁ、ぁ……」
これから何が起きるのか悟ったエトナは少しでも開けた場所を目指して這いずり、リビングへ向かった。
視界が歪み、気を抜けば昏倒してしまいそうだったが、歯を食い縛って数メートルを移動する。それと同じくして、千切れるような鋭い痛みが、今度は身体の内側から何かに激しく叩かれているかのような重く鈍い痛みに変わっていく。
それはまるで、エトナの中に閉じ込められた何かが無理やり扉をこじ開けて外に出ようとしているようで──、
「おごっ……やっ……だ、めっ……!」
エトナは咄嗟に着ていたワンピースを捲り上げた。
白い肌と傷痕、そして塔子に買ってもらった楚々とした白いブラが外気に晒される。
次の瞬間にはその薄く慎ましやかなエトナの胸の周りが、徐々に黒く染まっていった。何かが滲み出すようにその黒色はどんどん範囲を広げ、腹部までもを浸蝕していく。
やがてその黒は、エトナの身体から溶け出るようにして放たれる。
「ぁ──────────────────っ」
声にならない絶叫をあげ、エトナの身体が痙攣する。
肉が裂けるような痛みに気絶と覚醒を繰り返すエトナを嘲笑うかのように現れた黒色の粘ついたそれは、次第に何かの形を目指して蠢く。
それは蜥蜴──いや、翼のある竜だった。
大きさは50センチほどで顔や鱗はなく、黒い粘土で竜の輪郭を作っただけのような見た目である。
「……だ、め……」
上手く回らない舌で言い、エトナは朦朧とする意識のまま起き上がった。
アレはまだ、出来損ないだ。
自分の中に刻まれた数多の魔術の切れ端が寄り集まって溢れ出てしまっただけの、自我なき滓溜まり。
今の自分なら、まだ対処できる。
ここ数日で少しずつ魔力は回復していた。もっと別のことに使いたかったのだけれど、しかしそうも言っていられない。
蠢く黒竜をぼやけた視界に収めて一言、紡ぐ。
「朧火咲キテ……大焔ニ……昇レ」
途切れ途切れの詠唱に呼応し、黒竜の周りにぽぽぽっと無数の小さな蒼白い炎が灯った。その炎はフローリングを焦がすことなくリビング一帯を多い尽くすように数を増し、一瞬にして収束を始めて黒竜へ殺到。
一際燃え上がった後、蒼い炎は幻のように消失した。
「はぁ……はぁ……」
額に玉の汗を浮かべ、エトナは肩で息をする。
立ち上がる気力が残っておらず、その場にぐったりと横たわった。そうしてどれだけの間、倒れていただろうか。
ふいに台所のほうからブツブツと異音と焦げた匂いが漂ってきて、エトナはハッとした。
青白い顔のまま、倒れそうになるのをぐっと堪えて立ち上がり、壁や冷蔵庫などを伝いながらカレーの鍋の前まで辿り着いて。
「そんな……」
愕然とした表情で鍋の火を止め、その場に座り込んだ。
カレーが焦げていた。
塔子のために、心を込めて作っていたカレーが黒々と焦げ付いた酷い代物に変わり果てていた。それは奇しくも、先ほど打ち払った黒い竜を想起させ、容赦なくエトナの心を打ち据える。
「あ、あぁ……ぁ……」
今から作り直しても間に合わないし、そもそも材料が足りない。
昨日の、自分の作ったカレーが食べたいと言ってくれた塔子の顔が思い浮かび、胸が張り裂けそうになる。きっと落胆させてしまう。材料を台無しにしたことを責められるかもしれない。せっかく楽しみにしていたのに──と、失望させてしまう。
──使えない子。
以前誰かに言われた言葉が、塔子の声で再生されてエトナは胸を押さえ、蹲った。
「はっ……はっ……くっ……ぁ……」
過呼吸になり、涙が後から後からこぼれ落ちていく。
どうしようどうしようどうしようと意味のない思考が次々に溢れ、おかしくなりそうだった。
そして、その時。
ガチャリと鍵が、そしてドアが開く音がして。
「ただいまー!」
と、普段より少しトーンの高い塔子の声が聞こえた。
いつもなら安心と幸せを届けてくれるはずのその声が、今だけは死神の宣告のように思えた。
立ち上がる気力は、もう、なかった。
◇◇◇◇
逸る気持ちを押さえながら玄関を開ける。
「ただいまー!」
エトナのカレーが食べられると思うと、私の声は弾んでいた。
昨日今日は、帰れば玄関にエトナがいたけれど今日はいない。きっと台所で料理に励んでいるのだろう。そう思いながら廊下を歩く途中で、焦げ臭さに気付く。
明らかな異臭に眉をひそめつつリビングに入り、台所に方に目をやる。
だが、エトナの姿は見えない。
「エトナ? どこにいるの?」
妙だなと思い呼びかけて耳を澄ませば、小さな嗚咽のようなものが聞こえてきた。
それは台所からしていて──台所へ向かった私はようやく、床に蹲るエトナの姿を見つけた。コンロの上には、すっかり焦げ付いたカレーの鍋も見える。
「エトナ……?」
何かがあったことを察した私は、おそるおそる彼女の名を呼ぶ。
そこではじめて、エトナが顔を上げた。
その顔は今まで見たこともないくらいに蒼白で涙まみれで、そして絶望に染まっていて。
「トーコ、さん……」
縋るような、しかし恐れるような声音。
彼女の小さな身体はガタガタと小刻みに震えていて、今のこの状況がただならぬことだと教えてくれる。
「っ……!!」
私は鞄を放り捨てて、思わずエトナを抱きしめていた。
彼女の身体は酷く冷え切っていて、どうしようもなく不安になる。
「……どうしたの?」
内心で動揺しつつ、なるべく落ち着いた声で尋ねる。
するとエトナは、何かを言おうと喘いだ後、
「ごめ……なさ……ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめ…………ぃ、ごめんなさい……」
と繰り返し、私の胸の中で震えた。
──何かがあった、何か酷いことが。
でも、私にはそれが何だったのか分からない。
だから、少しずつ紐解いていくしかない。
「カレー、失敗しちゃったの?」
できるだけ穏やかな声で問いかける。
エトナは小さく頷いてから「ごめんなさい……」と絞り出した。
それに私は、彼女の後頭部をぽんぽんと優しく撫でながら、
「いいよ、失敗くらいいくらだってしていいんだから。それより、ケガとかしてない?」
そう、心から思いやった。
するとエトナは言葉を詰まらせて、一際強く私の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らしたあと、やはり「……ごめんなさい」と声をこぼす。
「謝らなくてもいいってば」
「でも……トーコさんおしごとがんばってたのに……わたし……また、めいわくかけて……やく、たたずで……」
「そんなことないってば。私、昨日あなたがご飯作ってくれるって言ってくれただけですごく嬉しかったんだから。それだけで充分だよ。役立たずだなんて、そんな悲しいこと言わないで」
「でも……」
エトナは変わらず私の胸に収まったままだった。
涙が止まらないらしく、時折り鼻を啜る音がする。
このジャケットは一旦クリーニングかなぁなんて思いつつ、何も言わずにエトナのことを抱きしめて待った。
やがて、エトナが顔を上げる。
涙でぐしゅぐしゅで、目は真っ赤に腫れていた。
彼女はまだ血色を失ったままの唇を震わせ、私に訊く。
「どうして、トーコさんはそんなに優しいんですか……?」
「私が、優しい?」
唐突な質問に少し驚きつつ訊き返すと、エトナは小さく頷いた。
そして、私の答えを渇望するように黙って見つめてくる。
だから私は、私が思ったことをありのままに言った。
「私は優しくなんかないよ」
「そんなこと──」
即座にエトナが否定しようとする。
けれど私は、それを遮って言葉を続けた。
「ううん、ほんとだよ。あなたに、何か優しくしてあげようだなんてこれっぽっちも思ってない。ただ、あなたにしてあげたいことをしてるだけ」
「してあげたいことを……してる、だけ?」
「そう。今だって、泣いてるあなたを見てどうしようもなく抱きしめてあげたくなったから、そうしてるだけ。だからこれは、優しさなんかじゃないよ」
そう言ってエトナの頭を抱き寄せて、頬を寄せる。
「じゃあ……なんなんですか……? トーコさんが優しくないなら、今トーコさんが私を抱きしめてくれるのは……どうして、なんですか?」
耳元で囁かれたその声は切実で。
きっと、有耶無耶に答えてしまえば致命的な何かに陥りそうに思えた。
エトナの心は今、とても消耗して壊れかかっているらしくて。
でも、壊れないように必死に継いで接いでをしているようで。
だから私も一緒に、エトナの心を直してあげたくて──言う。
「あなたのことが、愛おしいからだよ」
その一言に、エトナが息を呑むのが分かった。
頬を寄せ合っているから、表情は分からない。けれど今の彼女が、信じられないというような顔をしているのは手に取るように分かった。
「エトナに笑っていてほしいなぁとか、今頃なにをしてるんだろうなぁとか、抱きしめると細くて温かいんだなぁとか、悲しんだり辛くなったり苦しんだりしてほしくないなぁとか……あなたがここに来てからずっと、そんなことばっかり考えてるんだ。それってたぶん、愛おしいからなんだろうなって。……ほんとはもっと適した言葉があるのかもしれないけど、私はあなたのことがすごく愛おしい。大切にしたいの」
そう言って私は一際強く、彼女の小さな身体を抱きしめた。
愛だなんて言葉を使いはしたが、女同士だし、ましてや年の差だって倍もある。だからこれは恋愛感情だなんて分かりやすいものでもないはずだ。
私自身、これだという言葉が見つからない──だから無理やりに『愛おしい』という言葉に嵌めこんだ。
でも、今はそれでいいはずだ。
いずれぴったりの言葉を見つければいいだけなのだから。
「……わたしも、トーコさんのこと愛おしいです。とっても、とっても……」
震える声で囁き、エトナもぎゅっと抱きしめ返してくれる。
「じゃあ、両想いだね。私たち」
「……はい。両想いです」
私が冗談めかして言うとエトナは静かにそっと、そう言った。
それから少しの間お互いの輪郭を確かめるように抱き合ったあと、私は訊くべきことを訊くことにした。
「なにかたいへんなことがあったんだよね。カレーが失敗しただけじゃないんでしょう?」
「……はい」
エトナが小さく頷く。
私は彼女のさらさらの銀髪を梳いて指に絡めながら、続ける。
「それは、私にどうにかできること?」
「……できません」
「そっか」
「ごめんなさい……」
「謝るようなことじゃないでしょ」
微笑んで、私は腕を緩める。
完全な密着状態から、向き合う形になって──そっと、お互いのおでこを触れ合わせた。
「なにか、私にできることってある?」
お互いの吐息を感じる、少しでもその気になれば鼻先や唇まで重なりそうな距離で問いかける。
それにエトナは、顔を離したり逸らしたりせずに泣き笑いのような表情で、一言。
「……このままのトーコさんで、いてください」
「そっか。ん、分かった」
言って、私はエトナからおでこを離し、もう一度ぎゅうううううっと抱きしめた後、ぱっと彼女を解放して立ち上がった。
「よし、それじゃあエトナが作ってくれたカレーを食べよう!」
「え……えっ?」
唐突な私の物言いに、エトナはぽかんとする。
しかし私は構わず続けた。
「焦げてるけど、まだ充分食べれるでしょ。ご飯は炊いてくれてるみたいだし」
「あ、あの、トーコさん、そんな無理はしないでください……!」
「無理なんかしてないってば。だって、エトナが作ってくれたんだもん。食べたいよ」
「で、でも……絶対、不味いです……」
「食べてみるまで分からないってば。どう? エトナも一緒に食べる? エトナが食べないなら私1人で食べちゃうよ」
冗談めかして笑いかけ、訊く。
するとエトナは言葉を失って俯いてしまい、両手で顔を押さえて震え出して、
「たべ、ます……! 一緒に、食べたいです」
そう言った後、また泣き始めてしまった。
「可愛いなぁ、この泣き虫さんめ」
ぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でた後、私は食器の準備を始めた。
すぐに泣き腫らしたままのエトナも立ち上がって、一緒に準備する。
カレーは、やっぱり苦くてザリザリした。
でも、今まで食べたどんなカレーよりも幸せだった。




