カレー 中編
前後編で終わるつもりだったんですけど、気づけばこんなことに。
翌日、火曜日。
普段通り10時前に出社し、いつもより少なめの昼食を摂って午後の業務に取り掛かる。
外注のライターさんに依頼して上がってきたシナリオをチェックしつつ、自分の担当分の仕事──とあるスマホゲームで数ヵ月後に追加される新規キャラクター案を纏めていく。
上がってきたシナリオはライターの個性が出たドタバタ感のあるコメディに仕上がっており、表記揺れを修正するだけで問題なく納品できるクオリティだった。
私以外のチームの人間は在宅執筆かオフのため、仕事は静かに進んでいく。昨日に続いて時折り白咲の視線は感じるものの、何か言ってくることはなかった。
──あっという間に、PC画面右端の時間表示が17:48になっていた。
納得いくキャラクター案を3つほど担当者にメールで送信し、同時にオンラインストレージサービスにもアップロードして、私は座ったまま伸びをした。
「よし、帰ろ」
今頃エトナが、私が貸したエプロンを着て台所に立っているのかと思うと不思議な心地だ。包丁でケガをしたり、火傷をしていないかと今さらながらに不安も湧いてくる。
早く帰ろう。
──ああでも、エトナのために駅前の絶品シュークリームだけは買って帰ってあげたいな。
そんなことを考えつつ鞄に資料などを詰め込んでいると、
「……ちょっといいかしら」
声を聞いて振り向けば、微妙に距離を開けた場所に白咲が立っていた。
今日の彼女は黒リボンがワンポイントな純白のブラウスと膝下丈のタイトスカートというコーディネートで、相変わらずよく似合っている。
「どうしたの? 微妙に遠いけど」
「いいでしょ、それは……!! それより、この後時間はあるかしら?」
「なんで?」
「なんでって……」
そこで白咲は言い淀み、表情に若干の羞恥を滲ませてから言葉を繋いだ。
「き、昨日の朝のこと……碓氷のバカが言ったことについて見解の相違があったみたいだから訂正っていうか……そう、あんたんとこの碓氷に文句があるんだけど出社してないから、代わりにあんたに文句言ってやろうって思ったのよ!!」
「……は?」
「だだ、だって、あれじゃああたしがまるであんたのシナリオのファンみたいな言い草だったじゃない!! あんな誤解がまかり通ったまま過ごすなんて、白咲灯鞠一生の恥だわ!! だから、ちょっと『いろはや』の個室予約してるから行きましょう、行くわよね、どうせあんた独り身で帰ってもやることなんて映画鑑賞くらいしかないでしょうし、当然行くわよね!! ああ、心配しなくてもいいわ。奢りだから。この灯鞠様の奢り!! 当然行くわよね!? ね!!!?」
いつの間にか距離を詰め、力強い瞳で見上げてくる白咲。
ちなみに『いろはや』とは、会社から徒歩5分の居酒屋だ。刺身と煮込みと日本酒が絶品で、お値段もリーズナブル。私もお気に入りのお店である。
奢りというのも含めて魅力的なお誘いだし、数日前までの私なら二つ返事でOKしていただろう。
だが、今はそうもいかない。
「ごめんね白咲。どうしても外せない大事なことがあるから、付き合えないの。昨日のことで何かあるなら、ラインでお願い。じゃあ、お先に」
「えっ、ちょっと、ええ!?」
断られたのがよほど予想外だったのか、白咲は小さな口をぽかんと開けて唖然としていた。それを横目に、私は鞄を手にしてオフィスを後にする。
今はどんな刺身の盛り合わせよりも純米大吟醸酒よりも、エトナのカレーを胃袋が欲しているのだ。
◇◇◇
早足にオフィスを出ていく塔子を茫然と見送って数秒、ようやく灯鞠は我に返った。
「な、なんで帰っちゃうのよぉ……」
いろはやで塔子がよく飲むお酒の銘柄まで把握して、万全の用意をして誘ったのにすべてが水泡に帰してしまった。
テノルテに入って4年、ずっと塔子を見てきたが彼女が誰かの誘いを断ることなど仕事が立て込んでいる時以外なかったはずだ。自分のような面倒臭い性格のヤツの誘いだって、「いいよ、行こっか」と軽く応じてくれていたのに。
「……外せない大事なことって、なによそれ」
知らず、声が震えた。
たった1度断られただけなのに、心に大きな穴が開いたかのような錯覚に囚われる。
──あたしは、仲谷塔子が紡ぎ出すシナリオのファンなんかじゃない。
あなたが書いたシナリオに救われて、ここまで無我夢中で走ってきた馬鹿なのに──
「ひまりん、大丈夫かい?」
ぐるぐると螺旋を描いて落ちていく灯鞠の思考を引っ張りあげたのは、落ち着いたハスキーボイスだった。
「……社長?」
「うむ、私だ。その様子だとフラれたみたいだね」
赤縁の眼鏡が似合うスレンダーな女性──テノルテの社長こと三峰雪花が、顎に手を当てて涼やかに笑んでいた。
「ふ、フラれただなんて冗談も大概にっ……!!」
「取り繕う必要はないさ。もう、私とキミしかいない」
「えっ……?」
気づけばオフィスには、灯鞠と雪花以外の姿がなかった。
塔子と話している間に、それぞれ家路についたらしい。
「ふふっ、2人きりだな」
「……そうね。もうすぐあたしが出て行くから1人になるわよ」
ヒール込みで175センチ近くある長身の雪花が赤い舌をちろりと出して艶っぽく笑うが、灯鞠はなんでもないようにあしらった。
社長である彼女は唯一、灯鞠がどういった経緯で塔子に想いを募らせているのかを知っている。採用面接の際にまんまと聞き出されてしまったのだ。
碓氷などは灯鞠が塔子に好意を抱いていることくらいは分かっているようだが、さすがに恋慕に至るまでの過程までは知らない。
「釣れないなぁ、ひまりん。これでも私は社長として可愛い可愛い社員のケアをしに来てあげたんだよ」
「……なら、あたしを塔子と同じチームで仕事させなさいよ」
「いますぐに、というのは難しい相談だね。だが愚痴ならすぐにでも聞いてあげよう。いろはや、予約してるんだろう? まさかドタキャンするわけにもいかないだろうし、私が同伴しようじゃないか。当然、お金は私が出す。普段誰にも言えないようなことも、思う存分吐き出すといいさ」
「…………」
余裕たっぷりに微笑み、灯鞠の返答を待つ雪花。
ライターとして塔子や灯鞠よりも遥かに凄まじい実績を持ちながらここ数年は第一線から退き後進の育成に励んでいる年齢不詳の雇い主を睨みつけること十数秒
灯鞠は、はぁ……とため息を吐き出して。
「ヤケ酒でぶっ潰れたい気分だから、介抱しなさいよ」
「ああ、承ろうじゃないか。任せたまえ」
「じゃあ、決まりね」
不敵な笑みを浮かべ、灯鞠は荷物を纏めるべく自身のデスクへ向かう。
その背中を眺め、雪花は誰にも聞こえない声量でつぶやいた。
「『好き』って、たった二文字なんだがね。……まあ、書くのと言うのは別物か」




