カレー 前編
白咲が一日中ちらちらと視線を送ってくること以外は特に何事もなく業務が進み、18時過ぎには退社できた。最寄り駅近くのスーパーで夕飯の材料を買い、19時前にマンションに辿り着く。
「ただいま」
「おかえりなさい、トーコさん!」
ドアを開けると、玄関には既にエトナがいた。
グレーのサマーニットワンピースにハーフパンツ姿の彼女は、安堵と嬉しさが入り混じった表情をしている。なんとなく昔実家で飼っていた黒い雑種犬のことを思い出した。私が学校に行く度に寂しそうに鳴き、帰宅するたびに嬉しそうに吠える賑やかな犬だった。
「ごめんね、昨日の今日で長い時間お留守番させちゃって」
「謝る必要なんてそんな……トーコさんにはトーコさんの生活があるって、ちゃんと分かっていますので」
ほんのりと笑みを浮かべ、なんでもないように振舞うエトナ。
だが、そこに隠し切れない遠慮が滲んでいるのを私は見逃さない。
まだ少ししか一緒に過ごしていないけれど、彼女が隠し事をする時に笑うクセがあるのは分かっていた。
だから私は、荷物を置いて挨拶の延長線上のような感覚でエトナを抱き寄せる。
「あ、あの、トーコさん!?」
「ふふっ、エトナ分補給ぅ。うりうり」
ちょうどいい高さにあるエトナの頭頂部に鼻先を埋め、ふんわりとした銀髪の感触とほのかなシャンプーの香りに目を細める。
それから抱き上げて目線を同じ高さにした後、お互いのほっぺをくっつけた。
「わわっ……わっ……」
どうやら照れているらしい。
触れ合うエトナのほっぺが、急激に熱くなるのが分かった。
遠慮しなくていいんだよ、寂しいって言っていいんだよと言ってあげるのは簡単だ。
でも、それでエトナの作り笑いや遠慮し過ぎる性格がすぐ直ったりするとは思えない。
彼女の生涯の中で形成された性格が、言葉1つで劇的に変化するなんていうのは無理な話で。だから、まずは私がどんどん距離を詰めてスキンシップするべきで。
そうすることで、いつかエトナが心のままに動けるようになってくれたら最高だ。
そんなことを考えながら、私は一際ぎゅぅぅっとエトナを抱きしめて床に下ろした。
「はぁ、癒された」
つやつやした顔で私は晴れやかに言った。
このスキンシップはエトナのためであるのと同時に、私のためでもある。
win-winというやつだ。たぶん。
一方のエトナは、赤らんだほっぺに両手を当てて「うぅ……」と絞り出した後、
「い、いきなりは卑怯です……」
と囁いて、目を逸らした。
そのいじらしさに、もう一度抱きしめてやろうかしらという衝動が湧いてくる。
だが、いい加減夕飯を作らねばならない時間帯なので諦め、荷物に手を伸ばす。
すると先んじてエトナが、私の鞄とスーパーの袋を持ち上げた。
「も、持っていきます……!」
「──そっか、ありがと」
一瞬断って荷物を取り戻そうかとも思ったが、それだと私もエトナのことを言えないなと思い直し、素直に厚意に甘える。
細い両腕で荷物を持ってやや覚束ない足取りで歩くエトナの小さな背中を眺めながら、私は小さく微笑んだ。
◇◇◇◇◇
「今日の夕飯はカレーにしようと思うんだけど、大丈夫?」
「カレー……ですか?」
買ってきたものを冷蔵・冷凍スペースにそれぞれ詰め込みながら尋ねると、エトナは可愛らしく首を傾げた。どうやら、カレーはご存知ないらしい。
「香辛料をふんだんに使った煮込み料理……? 実物を見てみないと、上手くイメージできないですね……」
異地適応を使っているらしい。
エトナが眉間を寄せ、小難しそうな顔をしながらつぶやいた。
「じゃあ、シチューは分かる?」
「それなら一度だけ食べたことがあります……!! とっても、美味しかったです」
「そっか。なら、材料あんま変わらないしシチューにしよっか。私がカレー好きだからなんも考えずにカレールウ買ってきちゃったけど、知ってる料理のほうが食べやすいだろうし」
そう言って私は、冷蔵庫の横にある戸棚を探す。
たしか、買い置きしたままだったシチューの素があったはずなんだけど──と探していると、横からエトナがおずおずと尋ねてくる。
「……トーコさん、カレーがお好きなんですか?」
「うん。作りやすいからって何度も作ってるうちに、いつの間にかって感じだけど。お、あったあった」
ふくよかな女性のイラストが載ったクリームシチューのパッケージを手にした私が振り返ると、エトナがどこか期待に満ちた瞳で私を見上げていた。
「あ、あの、カレー食べてみたいです! も、もちろんトーコさんが作ってくれるシチューも食べてみたいですけど、でも、その……トーコさんが好きなもの、わたしも食べてみたくて……!」
「ほんと?」
「よ、よければ是非……!!」
「じゃあ、やっぱりカレーにしよっか」
食べてみたいと言ってくれたのが嬉しくて、私はニッと笑う。
「そういえば、エトナって辛いのは好き? 苦手?」
「辛いのは……苦手、です」
「そっか。了解」
言って私は、買い物袋から甘口カレーのルウを取り出した。
念のためにと辛口・甘口両方買ってきた自分を褒めてやりたい。
◇◇◇
「これが、カレー……? わぁ……!」
20時過ぎ。
ようやく出来上がった料理を眺め、エトナが感嘆をこぼした。
テーブルの上には、カレーと惣菜コーナーで買ってきたサラダ、そしてお好みでカレーに入れるためのスライスしたゆで卵や福神漬けが並んでいる。
ちなみにカレーは、シーフードだ。昨日がガッツリと肉だったため、今日はエビやホタテ、イカなどをふんだんに盛り込んでいる。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」
「そんなことないです。お昼ごはんもたくさんありましたし、おやつだって用意してもらえてて……それに、トーコさんはお仕事がんばった後に、こんなに美味しそうなお夕飯まで作ってくれて、とっても素敵です」
「エトナ……」
屈託のない笑みで言われ、じんと胸が温かくなる。
「それじゃあ、食べよっか」
「はい……!」
2人していただきますと声を揃え、スプーンを握る。
私はルウが絡んだエビとホタテをご飯と一緒に掬い、口に運ぶ。スパイスが効いた甘口のルウと海鮮の旨味に、時短で炊いた白米の甘みが絡まって──我ながら、美味い。
普段辛口ばかり食べていたけれど、甘口もいいなと思いながら飲み込む。
さてさてエトナの反応は──と、目を向けると。
彼女は口にスプーンを咥えたまま、とろんとした表情で私のほうを見ていた。
その顔だけで、お気に召したことが分かる。
「美味しい?」
尋ねると、エトナは無言でぶんぶん頷いた。
昨日もそうだったが、彼女は美味しいご飯を食べると言語を失うタイプらしい。見ていて面白い。
「そっちにあるゆで卵とか福神漬け……えっとカレーに合う漬物なんだけど、それも一緒に食べると美味しいよ」
言いながら実際に食べて見せて「うん、美味しっ」とつぶやくと、エトナも真似してゆで卵をカレーに載っけて食べ、ふにゃっと笑ってくれた。
二日連続で自炊するなんて最近の私史上稀もいいところだったけれど(カレーを作り置きして1週間連続カレー生活をしていたりするのはノーカウント)、こんな笑顔が見られるならいいかと、心から思えた。
◇◇◇
食後。
食器洗いを申し出てくれたエトナに甘えてリビングでパソコンを開き、明日以降の仕事のスケジュールを確認していると、洗い物を終えたエトナが戻ってきた。
作業中の私を気遣ってか静かに少し離れた場所に座った彼女は、何かタイミングでも計るかのように何度かこっそり、私に視線を寄越していた。
「どうかした?」
「い、いえ、なんでもないです……!!」
パソコンから顔を上げて尋ねると、エトナは慌てて首を振った。
だがすぐに、
「……やっぱり、なんでもなくないので、いいでしょうか……?」
と、おそるおそる言った。
「うん、なんでも言って。ちょうど終わったところだから」
本当はまだいくつか確認事項があったのだがいくらでも後回しにできるためパソコンを閉じる。
するとエトナは、ホッとしたように表情を緩めた後、言った。
「実はその……もしトーコさんさえよければですけど……明日のお夕飯、わたしに任せていただければって……」
「え、ほんと? エトナ料理できるの?」
「い、いえ、できるかは分からないんですけど……でも、その……トーコさん、お仕事の後でお料理までするのたいへんそうだなって思って……だから……なにか、作ってあげられたらなって……」
エトナは上目遣いで私の反応を確かめるように伺ってくる。
正直、仕事の後で夕飯を作るのは中々に難易度が高いとは思っていたのだけれど、まさか彼女が料理したいと言ってくれるとは思わなかった。
今日だって普段私が目安にしている時間通りに帰れたものの、夕飯が出来上がったのは20時過ぎ。
もし今日以上に退社が遅れれば、出来合いの惣菜オンリーのどこか味気ない夕飯になってしまうのは目に見えている。……いや、別にスーパーのお惣菜はクオリティ高くてエトナが来るまでは本当にお世話になっていたんだけど、その……気持ちの面で折り合いがつかないというか、ね?
なので、エトナの手料理が食べられるというのは私にとって福音のようだった。
「それじゃあ、お願いしてもいいかな」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。私、あなたの料理食べてみたい」
心からそう言うと、エトナは胸に両手を当てて「はい……!」と嬉しそうに言ってくれた。
「ところで、何作るかは決めてるの?」
流れで尋ねると、エトナは気恥ずかしそうにしながら。
「……もしよければ、お返しも込めてトーコさんの好きなカレーをお作りしたくて……洗い物をしてた時にルウがまだ残っているのが見えたので。……あ、でも二日連続でカレーになってしまいますし、やっぱり別のもののほうがいいでしょうか?」
「ううん、カレーでいいよ。いや違うな。カレーがいい。エトナが作ってくれたカレーがどうしても食べたい」
私が念を押すように言うと、エトナは笑顔を浮かべる。
「じゃあ、明日も今日と同じくらいに帰ってくるようにするから夕飯お願い。あとで台所の使い方とか教えてあげるから」
「はい……! よろしくお願いします」
私たちは笑い合った後、肩を並べて座り直して今日1日エトナが家でなにをしていたのか──観ていた映画とか、読んだ本のことなんかを話して、ゆったりとした時間を過ごしたりした。
明日のカレーが、楽しみだ。




