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8 小さな少女の驚くべき健脚

 気付けば、今にも崩れそうな小屋に横たわっていた。

 今から三年ほど前のことだ。


 自分が誰なのか、何故そこにいるのかわからず混乱する俺に向かって、ツァルは言った。


『俺がおまえを助けてやったんだ。代償としておまえの記憶を全ていただいた。悪く思うなよ』


 まるで悪人のような台詞だった。

 しかも頭の中に直接響く声に、俺は軽く恐慌状態に陥っていた。


 自分に何が起こっているのか、さっぱりわからなかったからだ。


 ツァルが糸くずのような姿で俺の眼球内を漂っていること、ツァルには逆らえないことなどを説明されたところで、はいそうですかとすんなり納得できるわけがなかった。


 なんでもかんでも言いなりになるなんてやってられない、と反抗したら、あっさりと記憶を喰われた。


 その時喰われたのは食べたばかりの夕飯の記憶で、献立どころか、食べたのか食べていないのかさえ思い出せなくなった。


 ことここに至ってようやく俺は逆らうことを諦めた。

 それから、俺はずっとツァルの支配下にある。


 農業都市ラドゥーゼに住み着いたときも。

 半年前、ラドゥーゼ滅亡の瞬間を目の当たりにしたときも。


 そしてツァルが精霊の集う都市ヘルル・ド・シュテフスを巡り、精霊をペリュシェスに集めると言い出したときも。


 そうして、今も俺は変わらずツァルと共にいる。 

 

※※※


 この世界に国は存在しないが、五つの精霊の集う都市ヘルル・ド・シュテフスがあった。


 西のリファルディア、東のヴァヴァロナ。

 北には自由都市アラカステルが、大きな水車で知られているエスーハはリファルディアの南にある。

 既に滅びたラドゥーゼはヴァヴァロナの南に位置していた。


 世界にはふたつの王家が存在しており、それぞれリファルディアとヴァヴァロナの都市王として政を執り行っていた。

 そして両家は世界のために常に惜しみない努力を続けていた。


 けれど今、世界は変わりつつあった。




 エスーハを発った俺たちは、リファルディアを目指して北上していた。


「でも、まずは腹ごしらえだよね」


 今後の予定について話し合っていたら、サリアに指摘された。

 間違いない。

 パン粥は美味かったけれど、とっくに消化されているはずだ。


「川があれば、魚でも獲って食うんだけどな」

「確か、ホス川の支流がもう少し北を流れてるんじゃなかったかな」


「ちょうどいい。じゃあ、そこで飯だな」

「獲れるといいね」


 そんな他愛もない会話をしながら歩く。


 夜暗に乗じてエスーハを離れた俺たちは、月明かりを頼りに旧街道を進んでいた。

 まさか街の外まで追ってくるとは思えないけれど、明るくなる前にできるだけ離れておきたかった。


 通常なら夜間に移動するなんて危険は冒さない。

 今夜は、空に雲の少ないことも幸いした。


 一緒に歩いているうちに、サリアは女の子にしては恐ろしいほどの健脚だということがわかった。


 俺と並んで歩きながら少しも疲れたそぶりを見せない。

 さすが世界の南端の村からエスーハまで頻繁に買い出しに行っていただけのことはある。


 期待以上だ。

 むしろ空腹な俺のほうが体力面では不安かもしれない。

 ――非常に情けないことに。


「川だーっ!」


 川面が見えたとき、一目散に走り出したのはもちろん飢え死にそうな俺ではなく、元気が有り余っているサリアだった。


 跳ねるように駆けてゆくサリアの背中を見送りながら、俺はようやく着いたか、とひとつ息を吐いた。


 空はすっかり明るくなり、今にも朝日が顔を出そうとしている。

 途中で道が獣道のように細くなり不安が過ったけれど、なんとか無事川までたどり着くことができてよかった。


 緑の生い茂る森の中を、その川は静かに流れていた。


『あいつ、本当に女か?』


 ツァルが呆れたように言う。


「俺はあいつが男でも別に構わないけどな」


『いや、そりゃあ俺だって役に立ってくれればどっちでもいいけどな。人間の女ってのはもっとこう、か弱い生き物じゃなかったか?』

「か弱い女と一緒に旅をするのなんてご免だ。元気で結構だ」


『いざとなったら、また引きずって運んでもらえるしな』

「できれば引きずらずに運んでもらいたいところだ。靴が傷む」


『贅沢を言うな』

「いざっていう状況にならないように、とりあえず腹ごしらえだな」


 俺が川辺に着くころには、サリアはブーツを脱ぎ捨て、木の枝を片手に川に踏み込んでいた。


 めくり上げたスカートは裾を結んで濡れないようにしてある。

 白いふくらはぎが眩しい。


『やっぱり女なのか?』

「胸があるんだから、何か詰めてるんでなければ女だろ」

「なんの話ー?」


 サリアの性別にまだ拘っているツァルの相手をしていたら、サリアに気づかれたようだ。

 内容まで聞こえていなければいいけど。


「なんでもない。魚、獲れそうか?」

「うん。水が綺麗だから、きっと食べられるよ」

「そりゃあよかった」


 これで、二度もサリアに引きずられるような事態は回避できそうだ。   


 手近なところに落ちていた枝を拾い、強度を確認する。


 ちょうどいい枝を見つけるのが難しい。

 できれば、木を折りたくはない。


 精霊は何にでも宿る。

 今はいなくなってしまったかもしれないけれど、かつてはきっと、なんてことのない木の一本一本に精霊が宿っていたに違いないと、そんなことを考えてしまうから。


 それもこれも、記憶を失くした俺に対して、ツァルが毎日のように精霊の偉大さ、精霊の尊さについて語り聞かせたせいだ。


 なまじ俺自身、精霊を見て感じることができてしまうので、一概に否定や反論ができなかったりする。


「クルスー、ツァルー。見て見て、一匹目ーっ!」


 下を向いて枝を探していた俺は、サリアの声にはっと顔を上げた。

 見ると、魚の刺さった枝を掲げたサリアが得意そうにこちらを見ている。


 魚の腹がてらてらと光っている。

 美味そうだ。


『おまえ、見ているだけでいいんじゃないか?』


 確かに、そんな気がしないでもないな。


「よし、その調子でがんばってくれ。俺は火の準備をしておく」

「了解ーっ!」


 魚をひょいと岸に向かって放り投げ、サリアは再び川の中を睨み始めた。

 陸に上げられた魚がぴちぴちと跳ねている。


『天晴れだな』

「楽ができるっていいもんだな」


 俺は魚を突くための枝探しから焚き火用の枝探しへと変更することにした。

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