終章
「すくすく育ってるね」
樹の芽の様子を観察していた俺は、背後から投げかけられた声に振り向いた。
そこには水の入った桶を抱えたサリアが立っている。
「おかえり、サリア」
サリアはこの間からルークに帰省していたので、会うのは久しぶりだ。
「ただいま、クルス」
サリアが水桶を置いて、俺に抱きつく。両手を広げてそれを受け止めた。
小さくて軽くて柔らかいサリアの感触が愛しい。
「ルークはどうだった?」
「お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれたよ。一応、あの日エスーハで買う予定だったものを持って帰ったら、買い出しに何ヶ月かかるんだって笑われちゃったけど。でも、これから樹を育てて過ごすんだって言ったら、諸手を上げて送り出してくれたよ」
「よかったな」
「今度、クルスも一緒に連れて来いだって」
「え、俺?」
「そう。挨拶するだけでいいから」
「挨拶って……」
ひくりと微かに頬がひきつるのがわかった。
元リファルディア軍の将軍に挨拶?
いや、でもここは避けては通れないところだろう。
男だったら、やっぱりけじめはつけるべきだ。
「ね?」
「ああ、もちろん」
俺は覚悟を決めて頷いた。
「よかった。帰りにリファルディアに寄ったんだけれど、都市王も王女も、快復に向かってるってアスィが教えてくれたの。これで一安心だよ」
ふたりの守護者と世界中の精霊たちの力で世界を浄化したからだろう。
空気がきれいになり、濁った水は透明になり、アラカステル周辺に見られた雲もどこかに吹き飛んだ。
環境が良くなれば、自然と病も快復へと向かう。
「そういえば、目の色はやっぱり元に戻らないままなんだね」
サリアが俺の目を見上げながら言う。
「ああ、でもまあ、見え方に問題はないからな。むしろツァルがいなくなった分、視界がすっきりして快適だし。いつか本当にシュテフォーラが取りにくるかもしれないし」
「ん。わたし、前の藍色の瞳も好きだったけど、今の赤と青緑色の瞳も好きだな」
「そ、そうか? だったらよかった」
精霊の塔での一件以来、俺の瞳の色は変わってしまった。
ツァルがいたほうが赤、ヴァルヴェリアスのほうが青緑。
精霊が外に出る際の奔流が瞳に衝撃を与え、その色に染めてしまったんだろうとツァルが言っていた。
俺にしてみれば、見た目の問題よりも視界をうろつく糸くずがなくなったことのほうがよほど重要だ。
サリアはちょこんと屈みこむと、まだ小さい芽をじっと見つめている。
「うん。よしよし、元気だね」
「水をやりすぎないように気を付けろよ」
「もう、ちゃんとわかってるよ」
頬を膨らませてみせるサリアは、やっぱり十六歳には見えない。
もうすぐ十七歳になるというのに。
ペリュシェスの中心に、シュテフォーラから授けられた種を埋めたのは三ヶ月前。
場所は精霊の塔につながる神殿前の中庭なので、大きくなれば回廊のどこからもその姿を確認できるようになる。
みんなで見守りながら育てられるというのが、なかなかいいと思う。
今、ペリュシェスは復興が進んでいて、精霊たちの棲み良い環境が日々整えられている。
緑が増えたし、水を神殿のほうまで引くことにも成功した。
人が生活するのに必要な食材を作るための畑も作った。
神殿も、少しずつ修復を始めている。
『そろそろ戻る時間だぞ』
回廊を人の姿をしたツァルが歩いてくる。
「えー、もう?」
『サリアはここに置いていっても別に構わないが?』
「意地悪ね。水をやったらすぐに帰るよ。だからあと少しだけ待って」
『ま、俺はいいけどな。怒られるのはクルスなわけだし』
「あっ……。ごめん、クルス。急ぐね」
「いや、別に。怒られるっていっても、そんなにきつく叱られたりはしないし」
『そりゃあ王様だもんな』
「王様じゃなくて都市長代理だよ」
とりあえず都市が落ち着くまでは、ヴァヴァロナの都市長代理を俺がすることになった。
ザルグムにはもちろん任せておけないし、後任選びには慎重を期する必要がある。
でも、今更王制に戻すつもりはなかった。
王家という肩書きがなくなっても、俺の役目は変わらない。
都市が落ち着いて、新しい市長が決まれば、俺はここペリュシェスに引っ越そうと思っている。
ここで、サリアと一緒にこの樹を見守りながら過ごすんだ。
今となっては、この樹を守ることが世界を守ることでもある。
ヴァルヴェリアスは守護者の塔にはあまり立ち寄らなくなって――というか、もともといつもあそこにいたわけではなく、誰かの訪問があるときだけ来ていたらしい。
普段は世界中を見回っているか、リフシャティーヌのところにいるのだとか。
つまり、守護者のふたりはそういう関係だということだ。
まあ、それはそれでいいんじゃないかと思う。
守護者としての責任をしっかり全うしてくれさえすれば。
守護者の塔の代わりに精霊の塔を使うことは、ヴァルヴェリアスも了承済みだ。
「あれ、まだいたの? さっきツァルが……ああ、なんだ、ここにいたんだね」
反対側の回廊からマーサンがポーチェと並んで現れた。
『水やりに忙しいらしくてな』
『大事な樹ですから』
ポーチェが柔らかい微笑を浮かべてサリアと樹の芽を見ている。
「あとは任せるからな。しっかり守ってくれよ」
「誰に向かって言ってるんだい。僕のおかげで、ここまで育ったようなものだよ」
マーサンはメ・ルトロの活動場所をペリュシェスに移した。
武器は携帯せず、精霊との強制契約を規制し、名実共に精霊と自然を愛する集団として活動を始めている。
構成員は減ったようだけれど、これで充分だとマーサンは言う。
畑を作ったり水を引いたりという作業はメ・ルトロが先導して行ってくれるので随分と助かっている。
「感謝している」
「え?」
マーサンが口をぽかんと開けて俺を凝視する。
俺が礼を言うのは驚くほどのことなのか?
「なんだよ」
「ああ……いや、別に僕は感謝してほしくてやっているわけじゃないからね。そこのところ勘違いはしないでほしいな」
マーサンが視線を泳がせながら言うので、苦笑する。
「終わったよー。あ、これお願いしてもいい?」
立ち上がったサリアがマーサンに駆け寄り、水桶を差し出す
「え、ああ、もちろんいいとも」
素直に受け取るマーサンに礼を言い、サリアが俺のもとに戻ってきた。
「お待たせ」
「よし、じゃあ行こう」
『やれやれ。俺は便利な移動手段じゃないんだけどな』
ぶつぶつ言いながら赤い鳥の姿に戻ったツァルの背に俺とサリアが乗る。
『お気をつけて』
「じゃあ、またね」
マーサンとポーチェに見送られてペリュシェスを飛び立った。
ツァルに運んでもらえば、ぺシュシェスからヴァヴァロナまではあっという間だ。
蒸気機関車のように煙を吐くわけでもないし、桁違いに速いので、かなり世話になっている。
「大変だね、クルス」
「まだ、地震がなくなったわけじゃないからな」
シュテフォーラから託された樹の種は芽を出したばかりで、世界中に根を張るほどには育っていない。
世界を支えられるほど大きく強く育てるのは、俺たちの責任だ。
「わたしにできることならなんでも言ってね!」
サリアが拳を握り締めて、俺に笑顔を向ける。
「ああ。じゃあ、今いいか?」
「なに?」
「これを受け取ってもらいたいんだ」
俺は懐から緑色の耳飾りを取り出した。
リファルディアにサリアを置き去りにしたあと、ポルスでサリアのことを想いながら買った耳飾りだ。
渡す機会がないまま今日まできてしまった。
「うわあ、綺麗! すごく綺麗! ありがとうクルス!」
サリアの喜ぶ姿を見て、ほっとする。
気に入ってもらえたようだ。
「よかった。ところでサリア、あの……これからも、俺とずっと一緒にいてほしいんだ」
「いいよ」
即答だった。
あまりの速さに、俺は少し戸惑う。
俺の意図するところがきちんと伝わらなかったんだろうか。
「つまりあれだ。今じゃなくてもいいんだ。色々と落ち着いたらその……俺と結婚してほしい……んだけど」
「いいよ」
「……あ、そうか。って、え!? いいのか? 本当に?」
あっさりと返事をされてしまって、思わず訊き返す。
「もちろん。クルスは意外と面倒くさがりで、剣術は下手だし、体力もないからね。わたしがずっと傍にいてあげる」
「あ――……」
それが理由だとしたら、俺って随分情けなくないか?
そう思ったけれど、事実だけになんとも言えない。
「えーと、じゃあ、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
互いに頭を下げあっていると、クックッとツァルが笑いを堪えている声が聞こえた。
「ツァル!」
『幸せにな。おまえらの子どもを見るのが楽しみだ』
「こっ、子どもっ!?」
サリアの頬が赤く染まる。
俺も顔から火が出そうだ。
『いいだろ。きっと世界を支える樹と一緒に、すくすくと育つだろうさ』
ツァルがぐんと高度を上げた。
冷たい風が火照った頬に心地よい。
今は、子どものことなんてまだ考えられない。
でも――。
眼下には俺たちの、精霊と人間の世界が広がっている。
死病の流行は終息し、気候は以前に戻りつつある。
あの日、世界崩壊を救った大精霊シュテフォーラ、守護者ヴァルヴェリアスとリフシャティーヌの姿を目にした人も多く、それを機に人間は再度、精霊を受け入れ始めている。
感謝と畏敬の念と共に。
世界の未来は今、ここに開かれた。
どうか今度こそ、この世界が永遠に在り続けられますように。
これから生まれてくる世界中の精霊たち、そして子どもたちが、ずっとずっと幸せに過ごせるような世界を。
俺は――俺たちは心からそれを願う。
了




