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初めて耳鼻科に行った時の話。

作者: ハチワレ

高校時代というのはなんだかんだと言ったところでとても掛け替えのない時間だったのだと思う。そうでないことも含めて、そんなこともあったなあとしみじみ思い返したり、かと思えば突然の暴露に赤面したまま爆死したくなるような恥部的思い出も多いのだが。

「友達?はっ、そんなもの作ってみろ、人間強度が下がるではないか?」

などとほざいていたあの頃の私を金属バットでフルスイングしてやりたい気分である。私は幾つもの醜態を積み重ねた上に立っているのだ。一刻も早くボール紙で作った聖剣エクスカリバーと共に土に帰ってくれることを日々祈っている。

そんなヤバい奴によく友達然と話しかけてくれたものだと思う。彼女こそ本物の勇者なのだろう。

そんな藤沢絵麻から唐突に手紙が来ていた。

因みに柴野とは大学の同級生であり、懇親会という名の地獄の飲み会の席で全く酒に酔わない私を他所に若者たちが目の前で浮かれに浮かれ、有頂天に達し、ボロ雑巾と化していく様を見せつけられた上に金までとられるという地獄を経験し、その体験を唯一記憶として共有している間柄であるというだけで親睦を深めたのである。あの時その場にいた誰もが記憶を消失しており、笑笑に多大なる迷惑をかけその謝罪を私と柴野が引き受ける形になったという返しても返しきれない恩をさもなかった事のようにえ~そうだっけぇ?おぼえてないやぁ~と言う奴らに私はひそかに天罰を願った。

どうか神よ、彼らの靴の中に適度に鋭利な小石が入りますように。蚊に刺されまくりますように。買ったばかりのTシャツに醤油をぶちまけてしまいますように。


久々に見た級友の名前からふと時節柄、彼女との夏の思い出が脳裏に蘇った。そう、あれはセミの鳴き声が豪雨のように降り注ぐ7月の終わりのことだ。好きなだけ惰眠を貪ることに専念していた私の眠りを妨げたのはメールの着信音だった。私が中学生の頃の連絡手段はまだメールであった。

「ななちゃん、やっほー!一緒に耳鼻科行かない?」

カラオケに行くようなテンションで言われた。因みに私の名前は中尾直緒である。中尾なのだがナナオだと思われていたので、そのままあだ名のようになったのだった。

私はん?と思った。あの時ほど焦ったことは無い。カラオケでトイレから戻った時に店員に無断入店だと思われた時以来である。

なんだろう?もしかして「あのさ?ずっと黙ってたけど、ナナちゃんなんか臭いよ?蓄膿じゃない?」とでも告白されるのだろうかと散々寝汗で消費したはずの水分が背中で汗となり滝のように流れるのを感じながら私はアマチュアの泥棒よろしく家中の引き出しをひっくり返し、保険証を探した。見つからなかった。蓄膿で臭くなるのは自分の鼻だったと気づいたのは今さっきである。

「いや、一人で病院ってなんか怖いじゃん?」

私はこの時ほど拍子抜けしたことは無い。汗だくで寝癖で方々に跳ねた髪を振り乱してやってきた私に、藤沢は少し照れながらそんなことを宣ったのであった。

かくして、私の耳鼻科初体験レポートの開幕である。

因みにこの耳鼻科は数年前に廃業したらしく、今は歯科医院になっている。

名前はナウ歯科である。

私はなにも悪くないとここではっきり宣言させていただきたい。

すりガラスの自動ドアは被害者もしくは振り込め詐欺の加害者が向こうでふんぞり返って「いやあ、騙される方が悪いんだよ?じゃなきゃこんな商売成り立たないっしょ?」などとほざいていそうな匿名性を帯びていたが、真ん中から左右に分かれると呆気なく私達を受け入れてくれた。私はなんの異常もないのだが、ここに来る人は何らかの異常、もしくは違和感を訴えている人ばかりなのだ。病院とは言うものの、適度な暖色の床とパステルカラーの革張りのソファで、まさに大型ショッピングモールのキッズスペースのようであった。まさにという程の例えが思いつかなかったことは私の想像力の欠落によるものとご容赦いただきたい。老若男女比率で言えば老老若男男男女女といった風であり、そうはいっても中には小学校低学年くらいの子供もいるので日本の人口の縮図のようである。まっすぐ前を向いて背筋をピンと伸ばし、本を読んでいる。しかし、私が待合室で藤沢と談笑している間1ページも進まなかったことから彼はぐりとぐらのパンケーキのつくり方でも想像しているのであろう。将来は日本からアメリカに逆輸入される“ホットケーキ”でも開発してもらいたい。などと日本の将来に思いをはせていると、ふと受付の右側、テディベアの顔面を模した木製プレートと共に診察室と書かれたドアから長身の老人が出て来た。電信柱のようなお爺さんは右耳を抑えていたが、その手からガーゼの端が覗いているのを目撃し、私はああ、ああいう外科的治療もあるのかなどと適当な感慨を抱いていたのだが、ふと横を見ると女子高生と小学生の少年が揃って顔面蒼白になっていた。何だきみたち姉弟だったのかと思いたくなるほどのシンクロ率であった。

「あっ、用事あったんだぁ~、わっすれってたあ~」

そう言って立ち上がろうとする藤沢の手をミヒャエル・エンデのモモに目を落としたまま掴んで強引にパステルカラーのソファの上に座らせる。待て、ここから面白くなるのだ。

「藤沢さーん、診察室へどうぞー」

看護師さんの声に藤沢はビクッとなった。私はじゃあ健闘を祈るとだけ告げてカシオペイアの万能性に感嘆していると、今度は私の手首を掴んで言う。

「ついてきて!」

「子供かっ」

「それでも付き添いなの?付き添いとしての本分を果たさなくていいの?」

私は耳鼻科に付き添うために生まれて来たわけではない。というか、さっきなんとなくスルーしたが、耳鼻科で外科的治療など行われているとすれば、施術されている当人よりはたで見ている方が怖いではないか!ていうかあの電柱のようなご老人はどんな治療を行ったのか。受付で話している限りでは、「では、また明日も来てくださいね」と受付の女性に言われている。術後の経過を見るなどという暇は与えられていないのか?!

しかし、ここでグダグダしていると私、ではなく藤沢の後に診察を控えている人々に迷惑が掛かる。現に白い目の注目を一身に集めていることに気づき、仕方なく私はモモを本棚に戻して診察室へと向かった。診察室は思いの外広かった。待合室をリビングとするならば、ダイニングキッチンといった間取りの割り振りだなと感じた。歯医者のような診察台はなく丸椅子であることにすこしホッとした。見たところ寝台は無いが、二方向に作られたブラインドにより緩和された陽光を取り込む窓に向かって並べられた機械と医師の前にある指定席と同じ丸椅子がずらりと並んでいる一角が気になった。研究室にある電子顕微鏡を思わせるが、スコープ部分は見当たらない。なんだ?あれは。

「では、こちらへどうぞぅ」

医師としか思えない白衣に沖縄の浅瀬を思わせる色合いの手術着を着た男性が言った。独特の口調に思わず悪態をつきそうになった。

「今日はどしましたぁ?」

「あ、あの、右耳がちょっと聞こえずらいっていうかぁ」

お前もマネしなくていい!ていうか、そんな症状は聞いていないぞ?!と静かに当惑している私を他所に医師と藤沢の会話は続く。看護師の女性は私など見えていない様子で傍に控えている。ふと金属製のトレイに乗せられた器具に目が行った。手術用の管子のようなハサミなどが整然と並んでいる。ま、まさか、本当にここで外科的治療が?!

「プールで泳いだ後からずっとなんですけどぉ、水が入ったままになってたんですかね~」

「あぁ~、そのままにしちゃった感じですかぁ、中耳炎かもしれないんで、検査してみましょうねぇ」

「はぁい」

私は何だか腹が立ってきた。なんだこいつら。電車の車掌ごっこか?看護師の女性は医師に指示されるまでもなく「では、こちらへ」と藤沢を迅速かつ丁寧な対応で誘導する。お前は普通に喋るんかい!部屋の少し奥にある機械の前に座らされ、見た目もプラスティック製のマウスに激似の耳で測る体温計のような物を渡されている。その先からコードが伸び、据え置きの機械へ繋がっている。私はついていくこともないかとただその場に立っていたのだが、ふとパソコン画面を見ていた医師が画面を見たまま言った。

「ところで、あなたは?」

口調が違う。真面目なトーンの声になっている。間延びした声ではない。

「え?ああ、私は付き添いで」

「そうですか」

そういうと、医師はデスクの引き出しから大きな瓶を取り出し、手を突っ込んで何かを取り出した。明るい診察室で医師は全く私を見ようとしない。不意打ちは実に心臓によくない。気を抜くと尻尾を出してしまうかも知れなかったため、戦々恐々としていたが、医師はゆっくりと瓶から引き抜いた右手を差し出した。

「のど飴、どうぞ」

阿部寛のような声で言う。心なしか彫も深くなっている気がする。

「あ、どうも……」

受け取っては見たものの、それはどう見ても黄金糖であった。のど飴ではない。

「看護師には内緒ですよ?」

「あ、そうですか……」

私は内心で絶叫した。怖い!怖すぎるっ!ギャーである。

「おいしいですよ?」

でしょうね!黄金糖だもんね!

「まあ、私は食べないんですけどね?」

ギャーッ!

「食べ過ぎて虫歯になってしまったんですけど、医者のいうことって、なんか聞きたくないじゃないですか?ほら、医者ってなんかみんな偉そうじゃないですか、患者を見下してるっていうか?ああいう態度ってなんか腹立っちゃって」

「ああ、そうですか……」

ギャーっ!メッチャ喋って来るぅ!ぎゃああああああああああああ!

私は心の中で何度も藤沢の名前を呼んだ。この時ほど彼女を必要としたことは後にも先にも無いかもしれない。そんな恐怖の会話は看護師と共に戻って来た藤沢によって終了した。ホッとした。本当に。

「先程の気圧の検査ですがぁ、少しだけ右耳の鼓膜が張ってますねぇ~、かる~い中耳炎になりかけてるかなぁ~くらいですねぇ」

「あぁ~、そうなんですかぁ~」

戻った!?何事もなかったように戻しやがった。飴の瓶は看護師の女性が戻って来るタイミングで引き出しの中に叩き落としていた。音で言うとガン!バンッ!ゴロゴロ……といった感じである。

それ以降、医師が私に話しかけてくることは無かった。

私は耳鼻咽喉に関する違和感を覚えた際は総合病院を受診することを固く心に決めた。

「では、少し鼻を見せてくださいねぇ」

「はあい」

そういうと医師はハサミを取り出し、藤沢の鼻の孔に近づける。私は目を背けたくなったが、微かに開くだけだった。少し覗いて「オッケーでーす」という医師の間の抜けた声とともにそのハサミのような器具はその役目を果たした。しかし混沌の時間はここからであった。

「では、学校って言ってくださいねぇ」

「はあい」

ん?と思っている内に医師はいつの間にか茶色いマヨネーズの容器のようなものを持っていた。それを藤沢の鼻の孔に押し当てる。

「じゃあ、どうぞぅ」

「がっこ」

ブシュッ!

ええっ!?私は驚愕と困惑と恐怖のないまぜになったよく分からない感情に目を丸くしたまましばらく背筋を伸ばして固まっていた。

「ではもう一度」

「がっこ」

ブシュッ!

「もう一度」

「がっこ」

ブシュッ!

そうして藤沢は一度も「がっこう」と言い切ることの出来ないまま、謎の儀式は終了した。

「はい、では咽喉に消毒して今日は終わりですねぇ、暫く通って経過を見ましょうねぇ」

「いやですぅ」

私は藤沢の頭を叩いた。痛くなく、かついい音のする絶妙なさじ加減である。今日の仕事は終わったと思った。

「分かりましたぁ」

その後、咽喉にブレスケア的なスプレーをかけられるのかと思ったらかなり太い脱脂綿を巻いた棒を口の中に突っ込まれ涙目でむせ返っている藤沢にえっ!と驚愕している内に診察は終わった。つまりはもう何が何だか分からなかった。というか、中耳炎の筈なのに収支鼻に執着した治療であったような気がする。藤沢とは違う疲労感を存分に蓄えた私は一刻も早くこの異次元空間から現代に戻ろうと診察室の出口へ向かおうとしたが、「では、こちらへ」と藤沢が連れられて行く。目で追うと最初に見た長机に並べられた機械の前に座らされている。藤沢はもう言われるがままである。患者の鏡のような奴である。みんなこうであると医師も大層楽だろうに。

機械は診察室に入った時には見えなかったが、極太のチューブが据え付けてあり、その先端は二股に分かれていた。

「このキャップをつけて、鼻に刺し込んで暫く蒸気が出るのでタイマーのメモリの所まで動かして、タイマーが切れたら終わりです。待合室でお待ちください」

「分かりましたぁ」

藤沢は遠くを見たままコクリと頷く。私は藤沢の側に立つと何とも言えない感情を宿した無表情を向けられた。

「まあ、座りなよ」

「あ、うん……」

私は隣の丸椅子に座ると、藤沢は蛇腹のチューブの先端にあるピースサインのような器具を鼻に入れてボケーっとしているという妙な時間が流れる。

「そ、その、どんな感じだ?」

どんな匂いがするのか、というか、そんなにダイレクトに蒸気など吸い込んで咽込んだりしないのか?と思うものの、藤沢は無表情であった。

「匂いは、なんか分からないけど……ナナちゃんもやる?」

口から蒸気を吐き出しながら電撃ネットワーク的な様相になっている藤沢からの誘いを、私は全力で辞退した。ふと何気なく医師の方を見ると先ほどのぐりとぐらの研究をしていた少年が背筋を伸ばしたまま緊張した面持ちで座っている。その様は少年兵の検診を彷彿とさせた。

不意にブザーがなり、思わず机の下に避難しかけた私を少しだけ大人になった藤沢に「何やってんの?行くよ?」と冷めた声で言い放たれ、私は赤面しながら診察室を後にした。


その経験が彼女を強くしたのかどうかは分からないが、それ以来彼女は一人で通院どころか海外へ進出し、今では青年海外協力隊の隊員としてアフリカの子供達の為に井戸を掘ったりしているらしい。

手紙にはこうあった。

「やっほー!ナナちゃん元気ですか?私は現地で大流行中の細菌に感染して40度近い熱が出ましたが、元気です。今は地元の子供たちに算数を教えてもらっています。では、よいお年を」

算数はお前が教えてやれ!というか生死の境をさ迷ってたのか!あと年末の挨拶が速すぎるわっ!

ひとしきりツッコミを終えた後、私は葉書を買いに郵便局へ行くという非日常的なことをした。

私は自身が元気である旨と、頑張れと日本に戻って来たらどこかで会おうという程度の内容を記した葉書を投函し、その足で馴染みの古本屋に行って中里介山と大佛次郎を一括りにした七冊100円の謎のハッピーセットを購入し、すぐさまネットのオークションサイトに出品した。

せどりで適当に生活費を稼ぎ、大学時代に意味もなく溜めたバイト代を切り崩して生活費を捻出する日々だが、私も彼女のようになる日が来るのだろうかとなどと思いつつ、私の半径10メートル以内の今日が何事もなく終わるのをただ畳の床に寝そべり、天井の照明を眺めながら過ごしたのだった。

因みに、私が中耳炎になり、仕方なく近所の耳鼻科に戦々恐々としながら顔を出したときは、学校と言い切る前に空気を送る療法や、術後に蒸気で鼻の粘膜を労わると言ったことは何一つなかった。あれは医師の豹変ぶりに脳が付いていけなかったために現れた幻だったのかもしれない。

ただ、あの時に貰った飴はその後出診察室を出て来た少年にあげてしまったので思い出すことも叶わないのであった。

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