摂政戦記 0102話 複雑
1941年12月中旬 『アメリカ ワシントンDC 商務省』
「まずい。これはまずい……」
ジェシー・ホールマン・ジョーンズ商務長官は頭を抱えていた。
彼を悩ませている問題は交通法の問題であり大型輸送車両、つまりはトラックやタンクローリーの問題である。
今や石油は国民生活に欠かせない。
特に今は冬だ。
石油から精製されるガソリンや灯油が無ければ国民生活は深刻な局面を迎える。
冬の寒さに凍り付き、郊外に住んでいる人達の中には街に食糧を買いに行けなくなる者も出て来るだろう。
企業にとっても生産する自社製品の材料に石油製品を使っている会社は数多ある。
近代国家にもはや石油は不可欠なのだ。
だが日本の攻撃によりアメリカ本土の主要な港は壊滅してしまった。
それと共に石油の流通ルートも崩壊した。
アメリカで最も人口の多い東部地域では南部で生産される石油を海路で入手している。
メキシコ湾岸の港からタンカーで東海岸の港に運んでいるのだ。
そのメキシコ湾岸の港も東海岸の港も壊滅している。
ただ港が壊滅しただけでなく破壊の余波で港内に大型船が沈んでしまった為、港の復旧にはその引き揚げ作業から始めなければならない。
しかし、引き揚げるにしても、それに使う設備や機材の多くは港にあった為、それも軒並み失われている。
同盟国から支援を受けねば船の引き揚げさえままならないのが現状だ。
港の復旧にはかなりの時間がかかる事になるだろう。
当然、石油の輸送は陸上ルートを使う事になる。
しかし、日本軍の破壊工作で鉄道が各所で寸断されてしまった。
その修復にも相当な時間がかかる。
そうなると残る手段は車両による輸送しかない。
また、日本軍は現在、アメリカ本土奥深くの中西部のかなりの地点で人質をとり籠城する態勢にあるし、西海岸の一部地域を占領している。
その対応の為に人員や物資を車両により送り込まなければならない。
だが、そこに問題がある。
その問題こそがジョーンズ商務長官の頭を悩ませている。
それは州法だ。
アメリカは州によって法律が違う事が珍しくない。
大型車両における法律も州によってかなり違う。
この時代、テキサス州とルイジアナ州ではトラックの積載重量は3トン以下と定められていた。
ケンタッキー州では8トン。
他の州もバラバラで16トンと定めている州もあり全く統一されていない。
こうした規制は現代日本にもある。
公共の道路や橋にダメージを与えないように大型トラックの場合は車と荷物を合わせた車両総重量が最大で25トン以下にするよう法律で定められている。
アメリカではこうした州法の違いがある為に、別の州にトラックで荷物を運ぶ場合、面倒になる事もある。
積載重量が少ない州から多い州に行く場合は問題無い。そのまま走ればいい。
しかし、積載重量が多い州から少ない州に行く場合は州境で重量制限に引っかかる分の荷物を降ろすか、他のトラックに積み替える等しないと法律違反となり警察に捕まる事になる。
実に面倒な事になっている。
この問題については、史実でも以前よりアメリカに複数あるトラック協会や自動車メーカー等が、トラックが州境を速やかに通行できるように、トラックの大きさと重量の統一の法律を定めるよう連邦政府や各州政府に働きかけていた。
しかし、連邦政府はこの種の規制を放置し各州政府に任せたままにしており、各州政府も積極的に動こうとはしなかったのである。
結局、そのツケが戦争で回って来る事になる。
史実においてアメリカが第二次世界大戦に参戦するとドイツとも戦う事になる。
ドイツはアメリカ東海岸沖でUボートによる通商破壊作戦「ドラムビート」を行った。
この通商破壊作戦により多くのタンカーを沈められたアメリカは深刻な石油不足に見舞われるのである。
そこで南部から北部に石油パイプラインの建設を開始したが、当然、時間はかかる。
その為、大型車両、つまりはタンクローリーを使用した陸路輸送が行われる事になる。
だが、そこで問題となったのが、この州法によるトラックの積載重量規制の違いだった。
そこで規制を統一しようという試みがようやく行われる。
戦時対策として公共道路庁が定めた統一基準案が全州に適用される事になった。
しかし、それを定めるまでには、何と5ヵ月という貴重な時間が費やされたのである。
各関係省庁、上下両院議員、州政府との調整等、官僚主義と民主主義の弊害がここに出ていた。
アメリカは独裁国では無い。大統領の権限は大きいものがあるが、それでも何でも好きなようにできるわけではない。
あらゆる事が直ぐに右から左へというように簡単に動くわけではないのだ。
特に州の権利を侵害する場合はそれなりの手続きがいるし時間もかかる。
その欠点が露呈していた。
史実において新たな基準がアメリカ全州に適用されるようになったのは開戦から半年も経った1942年5月の事である。四輪トラックで最大8.2トン。それ以上の大型車両は最大18トンと定められた。
ただし、この基準は厳格には守られなかった。
運送会社としては、費用対効果の面から車両にはできるだけ物資を多く積み運びたがったからである。
そのため積載重量オーバーで走るトラックやタンクローリーが続出する。
こうした違反車両は見逃される場合も多かった。
何せ戦争中である。
戦時輸送局の依頼により戦争に必要な物資を運んでいる場合が殆どだからだ。
多少の違反には目を瞑ろうという州も多かった。
だが、しかし、中には遵法精神を貴ぶ者もいる。
コロラド州では積載重量オーバーを厳格に取り締まった。他にも幾つかの州が取り締まりを手加減しなかった。
その結果、運送会社は多額の罰金の支払いをしなければならなくなる。
複数の運送会社は州議会議員や連邦の上下両院議員に働きかけ、暫くの間、罰金の猶予をと陳情している。
戦争に協力しているのだから多少のお目こぼしをという訳だ。
戦時輸送局も運送会社側に立った。
コロラド州知事に対しては、こうした厳しい取り締まりがこの地区周辺でのトラック輸送のネックとなり速やかな移送の障害となっているので、戦争という非常事態の間だけでいいので、取り締まりを緩和して欲しいと苦情を申し入れている。
しかし、この問題が直ぐに解決する事はなかった。
結局、戦時輸送局長がコロラド州知事と直接対談して知事が折れる事になるが、戦時中に限り取り締まりを緩和するという行政命令を知事が出すのは何と1943年9月になっての事である。一年以上もこの問題は燻ぶり続けたのだ。
コロラド州がそうした決断をした結果、他の州も厳しい取り締まりをする事はなくなる。
それにしても法律を作っておきながら、それを守らないというのだから遵法精神とは? と問いたくなる話ではあるし、戦争中という非常事態の時ぐらい州政府も多少の不都合には目を瞑り連邦政府に積極的に協力できないものだろうか? と、どちらにも考え得るケースの話しではある。
こうした積載重量の問題は戦争中に起きた数々のアメリカの国内問題の一つに過ぎない。
他にも色々な問題が噴出している。
戦争中ではあってもこうした問題が起こり、必ずしもアメリカ国民全てが連邦政府に全面的に協力する場合ばかりではないというのが、アメリカという国だった。
史実では日本軍の真珠湾攻撃によりアメリカ人はは誰しもが「リメンバー・パールハーバー」と叫び、アメリカは一つに纏まったかのような印象を受けるが、アメリカの国内状況を深く調べれば、意外とそうではない事がわかる。
ジェシー・ホールマン・ジョーンズ商務長官は早急に積載重量の全国統一基準を定め全州に周知させなければならず、その困難さを考えただけで眩暈がしてくる思いだった。
州政府が、上下両院の議員が、関係各省庁が、きっとあれこれ言い出してくるに違いない。
だが、既に国内で戦闘が始まっている以上、時間はかけられない。待った無しである。
急いでやらなければならない。
ジョーンズ商務長官は、秘書に運輸部門を担当する商務次官を呼び出すよう指示を出した。
アメリカの場合、現代なら運輸省があり道路や自動車関係について担当しているが、この時代はまだ商務省が管轄していた時代だった。
ジョーンズ商務長官の筆舌に尽くし難い苦労がこれより始まる……
【to be continued】




