摂政戦記 0101話 注意喚起
1941年12月中旬 『日本 東京 大本営』
閑院宮摂政より大本営に対し、現在進行中の南方作戦において軍票の取り扱いについての注意喚起が為された。
軍票とは軍が占領地域等において物資の買い付けや現地住民を徴用した労働の代償に支払う臨時紙幣であり、後に正式な通貨と交換されるものだ。
史実においては、日本軍も南方地帯でこの軍票を大量に使用した。
それが南方地帯でのインフレを招いた一因とも言われている。
どこの国でも大抵は戦争となればインフレになる。
史実において第二次世界大戦で戦勝国だったアメリカもイギリスもインフレになった。
軍隊に兵士をとられ労働人口が減るし、軍需品の生産優先により民需品の生産が圧迫され物不足に陥るのでインフレになりやすいのだ。
史実において日本も日本の占領した南方地帯も太平洋戦争後半には酷いインフレに見舞われた。
特に南方地帯は「ハイパーインフレ」となった。
文献により数字が違ったりするので困るが、取り敢えず経済関連の書籍「大東亜共栄圏経済史研究」には1941年12月の開戦時における物価指数を100とした場合の以後の数値が載っている。
それによると、1944年12月の時点で東京が126。上海が5700。フィリピンの首都マニラが1万4285。シンガポールが1万766。ボルネオ島のクチンが827。バダビア(現代でのインドネシアの首都ジャカルタの旧名)が1279。スマトラ島のメダンが1698となっている。
終戦時にはこの数値はもっと悪化する。
何故「ハイパーインフレ」になったかと言えば、その要因は大きく分けて四つある。
一、アメリカ軍に海上交通路を攻撃された事で物流が阻害され物不足に陥った。
二、南方地帯の日本軍が物資の大量購入を行い物不足を悪化させた。
三、日本軍が南方地帯で貨幣代わりの「軍票」を財源の裏付けも無しに大量に使用した。
四、日本軍が連合軍との戦闘で負けて行き、それが南方の人々の知る所となり日本軍の発行した「軍票」への信用度が大幅に低下した。
今回の歴史では恐らくここまで酷い「ハイパーインフレ」は起きないのではないかと予想される。
何故なら、まずアメリカ海軍とアメリカ本土の主要港が日本の攻撃により壊滅的打撃を受け、史実に比べアメリカ海軍の海上交通路を遮断する能力が大幅に低下しているからだ。
次に日本軍による南方での物資購入はあるだろうが、史実のような大戦後半での現地で大量の資材と物資を買い付ける可能性は今の所は低い。戦局は日本に有利に動いているからだ。
「軍票」についても同様で物資や資材の買い付けが史実より抑えられるなら、当然「軍票」の使用も抑えられるだろう。更に「軍票」については恐らく、財源の裏付けも為されるだろう。
そして最後に「軍票」の信用度が史実程には落ちないだろうからだ。
結局、「ハイパーインフレ」が起きる一因は通貨や国債の信用が失われる事だ。つまり国の信用そのものが落ちる事が原因だとも言える。
史実では日本軍がどこかの戦場で連合軍に負けたという情報が入るたびに「軍票」の信用度は低下し南方のインフレが進んだという事実がある。
しかし、今回の戦争では局地的には負ける事はあっても日本は優勢であり、ここから日本が敗勢に追い込まれる可能性は低い。特に「ウラン爆弾(原子爆弾)」を保有しているのは未だに日本だけなのだ。
そういう面からの「軍票」の信用度は史実より下がらず、その分インフレの進行についても抑えられるだろう。
それ故にこうした面からのインフレについては閑院宮摂政もそれ程心配していない。
現代においては大戦後期の南方のハイパーインフレについて、日本の経済政策、占領政策が失敗していた証拠だとか、種々の文献や貿易データを元に日本の大東亜共栄圏構想は失敗だという見方をする者もいるが、それは結果論に過ぎない。
日本が南方との海上交通路を防衛できずに敗北したからこその経済の悪化であり、インフレを始めとする悪い数値である。
日本が海上交通路を防衛でき、また戦争に勝利すれば、当然、経済状況においても史実とは違う数字が出てくる事になるだろう。
敗北した史実と勝利する今回の歴史では経済状況も結果が違って当然だ。
何故なら史実では日本が得られなかった南方の市場を独占でき、また南方の資源をも手にする事になるからだ。それに加えて満洲という市場もある。
戦争に勝てば史実とは異なる未来の経済状況が訪れるだろう。
そうした見通しの中で摂政が注意を求めたのは、日本の軍票の偽札が使用される可能性についてである。
「大東亜共栄圏経済史研究」のような経済関連の専門書には載っていないが、実は史実においてアメリカ軍は日本の軍票を偽造し南方地帯で大量使用したという話がある。
史実において日本も偽ドル、偽法幣、偽ルピー等、多種の偽札を使用した事で知られるが、アメリカも同様な経済破壊工作を行っていたのだ。
このアメリカの使用した「偽軍票」により南方地帯でのインフレは著しく悪化したという説がある。
故に閑院宮摂政は今回の歴史においても「偽軍票」が使用される可能性について懸念し大本営に注意喚起したのである。
現在のところ国内で戦闘が発生しているアメリカには偽札作戦を行うような余裕は無いと思われる。
しかし、オーストラリアやニュージーランドは無傷である。
こうした偽札の製造には兵士に適齢の者が大量に必要というわけではない。
技術を持った者なら中高年層でも充分に役に立つ。
日本に対する経済攪乱作戦の一環として、こうした連合国を構成する国々が偽札を使用する事は充分あり得る。
史実ではオーストラリアもニュージーランドも偽札を製造はしていないが、今回の歴史ではどうなるかはわからない。
既に歴史は史実より大きく変化したのだ。
ならば、オーストラリアもニュージーランドも史実には無かった動きをしてもおかしくはない。
特に両国とも人口は少なく工業力も限られている。そして日本の侵攻に脅かされていると感じている。
ならば搦め手で、謀略を使い日本に打撃を与えて来る事は充分にあり得る。
そう閑院宮摂政は判断していたのである。
【to be continued】




