摂政戦記 0100話 経済計画
1941年12月中旬 『日本 東京 皇居』
「よくやってくれた。委員会の皆にも私が労いの言葉を口にしていたと伝えてくれたまえ」
報告書を読んだ閑院宮摂政が満足気に頷き直立不動で立っている目の前の大佐に指示を出す。
「はっ伝えます。では失礼いたします」
大佐は、きびきびとした動作で部屋を辞した。
閑院宮摂政が開戦直前に立ち上げた特別経済諮問委員会より報告書が上がって来た。
戦後における日本の経済構造の変化についての見通しと、日本が推し進めるべき経済政策についての報告書だ。
日本が敗北した場合はアメリカのいいようにされてしまうのだからそんな研究は必要ない。
だが勝った場合は日本がどのような経済政策をとるべきか検討しておかなければならない。
その第一次検討報告書が出来上がったのだ。
内容的には戦後における日本の経済構造は大きく変化するというものだった。
それは当然と言えば、当然である。
前提条件として戦後におけるアメリカとの貿易を外しているからだ。
史実においても今回の歴史においても戦前の日本の貿易構造を語る上で有名なのが「三環節論」と呼ばれる貿易構造論だ。
これは日本の貿易が三つの環節から成り立っていると論じている。
第一環節は日本からアメリカへの絹の輸出とアメリカから日本への綿花の輸出。
第二環節は日本からイギリス及びイギリス植民地への綿製品の輸出とイギリス植民地から日本への資源の輸出。
第三環節は日本から中国への機械製品や雑貨製品の輸出と中国から日本への食糧や原料の輸出。
この三つの環節が日本の主要な貿易構造となる。
ただし、必ずしもこの「三環節論」が正しいという専門家ばかりでなく、問題点を指摘する専門家もいる。
その「三環節論」の問題点は簡単に要約すると次のようになる。
一、欧州諸国との貿易関係が抜け落ちている。
二、イギリス植民地以外の東南アジア諸国との貿易関係が抜け落ちている。
三、歴史的に見れば「三環節論」での貿易の起点はアメリカへの絹の輸出と言えるかもしれないが、貿易上の起点とは言えない。
四、1930年代に日本は重工業化が進んでおり、1930年代後半におけるアメリカからの輸入は綿花よりも石油や鉄に重点が置かれていた。
戦前の貿易構造でよく言われる事が日本はアメリカに絹を輸出し、またアメリカより綿花を輸入しており、それが貿易の大きな割合を占めるという事だ。「三環節論」の第一環節の部分だ。この関係を無くしては日本の国際貿易は成り立たないとする説もある。
確かに一理ある部分もある。
アメリカとの貿易額は国別で見ると日本にとって長期間一位を占める。
ただし、貿易輸出額全体から言えば、必ずしも日本にとって常にアメリカへの輸出額が大半を占めていたというわけではない。
第一次世界大戦終了後から日中戦争開始前までの期間における日本の貿易輸出額を見てみればそれはわかる。
第一次世界大戦が終わった翌年1919年における貿易輸出額に占める対アメリカ輸出の割合は約40%だった。
1922年には対アメリカ輸出は約45%となり最高数値を記録する。
以後も1929年までは40%代だった。
しかし、世界恐慌の発生や満州事変による日米関係の悪化や化学繊維の普及から徐々にアメリカへの輸出の割合は低下の一途を辿る。
日中戦争開始前の1936年における貿易輸出額におけるアメリカの占める割合は約22%であり、最盛期の半分以下という状況だ。
逆に言えば貿易輸出額の約78%がアメリカ以外で稼がれていたという事になる。
ではアメリカ以外のどこで稼がれていたかを地域別に見てみれば約51%がアジアだ。ヨーロッパが約12%。アフリカが7%だ。
ちなみに第一次世界大戦後の1922年だと貿易輸出額に占めるアジアの割合は約41%。アフリカは1%もなく、ヨーロッパは約9%だ。
つまり日本はアメリカへの貿易依存度を低下させ、貿易の多角化を図っていたのだ。
ただし、日本のアジアにおける貿易輸出額の増大は満州という要素も見逃せない。
「満州帝国」の成立。そして満州の開発と発展によって日本から満州への輸出も飛躍的に伸びる。
1934年だと日本の貿易輸出額における満州の占める割合は約5%だが、1938年になると約12%にもなっている。1939年には約15%だ。
その1939年には日本の貿易輸出額における占めるアジアの割合は約65%にもなっている。アメリカは約18%だ。
すなわち戦前から既に「三環節論」の第一の環節はその存在意義を大きく減じていたと言える。
今回の歴史においては、そのアメリカが戦後は分裂し衰退する事になる見込みだ。
その旧アメリカ領への輸出は激減するだろう。
戦前の18%から更に低下する筈だ。
その結果、史実とは戦争の結果は違っても、今回の歴史でも日本の絹産業は同じように衰退していく事が予想される。
絹に代わり輸出の主力となっている綿製品の生産にしても国内生産は落ちる筈だ。
綿製品の原料たる綿花を日本は輸入していた。
元々は日本でも綿花の生産はしていたが、コストが高く質が悪いので輸入するようになった。
その綿花の輸入先はアメリカとインドが占める割合が大きかったのだ。
1935年で言えば日本が輸入した綿花の約47%がアメリカからの物だった。そして約42%がインドからの物だった。
1936年で言えば約44%がインドで、約40%がアメリカだ。
こうした原料の輸入先というものは必ずしも恒久的に同じ国というわけでもない。
1911年頃だと日本に輸入される9割以上の綿花が中国からの物だった。
安価で質の良い原料を求め輸入先を変えるという事はよくある話でしかない。
戦前においてアメリカの綿花の価格が上昇して来た事もあり、日本は南米やアフリカから綿花を輸入する事を模索している。
しかし、太平洋戦争が勃発しその構想は流れる。
しかも戦争だから当然、アメリカとインドからの綿花の輸入は途絶した。
その対策として日本が行ったのは中国からの綿花の輸入を増やす事と、南方で現地住民に綿花を生産させる事だった。
それだけでなく繊維産業に紡績機械の南方への輸出を行わせている。
現地で綿製品を作らせるためだ。
つまり南方で綿花を栽培し、工場も造りそこで綿製品を生産させようというわけだ。
このため繊維産業の社員達が南方に派遣され現地住民の指導にあたっている。
現代日本において、企業が工場を人件費の安い東南アジアに作り日本国内での産業の空洞化が懸念された事があったが、正しく戦時中に日本は国策としてそれを行おうとしていたわけだ。
史実では「蘭印」や「フィリピン」で現地住民による綿花の栽培は行われた。
元は欧米向けのコーヒーやお茶、サトウキビを栽培していた農家に綿花や穀類を作らせようとした。
だが、それが軌道に乗る前に戦局は悪化し敗戦となったため、綿花の栽培は廃れる事となった。
ちなみに現代においてインドネシアの低所得層の村々の収入を上げ、その生活を救うプロジェクトとして、改めてNGO団体等が技術支援を行い綿花栽培をしている地域もある。
今回の歴史では上手くいけば、史実の日本の計画通り「蘭印」や「フィリピン」で綿花の栽培が行われ、更に現地に建設された紡績工場で綿製品が生産されるだろう。
ただ、それにより日本の繊維産業は利益を得るだろうが、その分、日本国内での綿製品の生産は落ちる事が予想されるわけで、正しく産業の空洞化という事になりかねない。
日本国内で絹と綿という二大繊維産業は衰退するだろうし、それはマイナス面だ。
しかし、それ以上に他の工業分野が発展する事が予想されるので、産業構造の変化は起こっても日本経済に致命的な事になる事は無い筈だ。
戦前の日本の輸出は1935年の時点で繊維製品が51%を占めた。
それはかなり落ち込むだろう。旧アメリカの市場を失うのだ。
日本の近代化に大きく貢献したのは繊維産業だ。
最初は絹が後に綿製品が主力となった。
とは言え貿易輸出額に占める繊維製品の割合は日本の工業の発展と共に低下している。
例えば史実において1925年における貿易輸出額の70%を占めていたのは繊維製品だ。機械・金属製品の輸出は5%に過ぎない。
しかし、これが1935年になると繊維製品は51%にまで低下し、機械・金属製品の輸出は15%と3倍に増加している。
これを輸出する繊維製品の内訳で見ると1925年における絹の割合は49%であり、綿製品が27%、その他が24%となる。
しかし、これが1935年になると絹の割合は24%にまで低下し、綿製品が33%、その他が40%となる。
その他というのはパルプから造られるレーヨンや、羊毛だ。
絹の割合が低下したのはアメリカの関係によるところが大きい。
絹の約9割はアメリカに輸出されていた。絹というより正確には生糸だ。
しかし、世界恐慌の発生や満州事変による日米関係の悪化や化学繊維の普及から徐々に絹の輸出に陰りが見え、貿易輸出額に占めるアメリカの割合は低下の一途を辿る。
元々、絹は奢侈品であり市場は限られている。
戦後は日本の繊維産業が衰退するのは避けられない。
だが、これまで南方市場でのシェアを奪えていなかった他の軽工業製品の輸出が大幅に伸びる事が予想される。
特に「蘭印」だ。
「蘭印」は人口が多い。
開戦1年前の1940年における「蘭印インドネシア」の人口は約7千万人にもなる。
これは当時の日本の内地の人口約7300万人に近い数字だ。
ちなみに「英領マレーシア」の人口が約500万人。「米領フィリピン」が約1600万人であり、「蘭印インドネシア」の人口と合わせると、この3地域の合計は9100万人にもなる。
日本の内地、朝鮮、台湾等の「大日本帝国」の領土における人口が約1億500万人であり、満州の人口4300万人を加えると約1億4800万人だった。
これに南方の9100万人が加われば大きな力となったであろうし、日本にとっても「良い市場」になるだろう。
元々「蘭印」への日本の輸出は第一次世界大戦から増加していた。
第一次世界大戦が勃発するとUボートの跳梁などにより「蘭印」とヨーロッパの交易は速やかにはいかなくなった。
当然の事ながらヨーロッパから物が入らなくなった。
そこに好機を見出して進出し色々と物を売り始めたのが日本だ。
第一次世界大戦前における日本の貿易輸出額に占める「蘭印」の割合は1%にもならなかった。
しかし、第一次世界大戦中の1918年には3.5%以上にもなっている。
つまり「蘭印」への輸出が3倍以上になったわけだ。
以後、日本から「蘭印」の輸出は減少する年もあるが基本的には増加傾向にあった。
そして1933年には8%以上となっている。
同じ1933年における日本の貿易輸出額に占めるヨーロッパ全体の割合が約9%であるから、いかに「蘭印」への輸出が増加し重要になってきているかわかろうというものだ。
「蘭印」の側から言えば、輸入の約3割が日本からとなっていた。
高いオランダ製品よりも安い日本製品を望む人々も多かった。
白人に支配される現地インドネシア人の多くは豊かな暮らしをしていないのだから当然だ。
欧米諸国からもたらされる各種高級品をそうそう購入できる筈もない。
高級品を買えるのは一部の白人と癒着した都市部の富裕層や地主階級だけである。
こうした事はマレーやフィリピンも同様だ。
やはり一部の白人と癒着した都市部の富裕層や地主階級だけが富み、多くの人々は豊かな暮らしとは程遠い。
1938年における一人当たりのGDPで見ると、フィリピンやインドネシアの人達は、日本人の半分以下のGDPである事がわかる。
人種差別の激しい時代なのだから白人に支配されている植民地の一般市民の生活がそれほど豊かなわけはない。
だからこそ欧米諸国よりも安い日本製品の需要があった。
「蘭印」への輸入では、物によっては日本製品の占める割合が非常に高い物が幾つもある。
例えば綿製品。「蘭印」に輸入される綿製品の80%が日本製だ。
他にも陶磁器の85%が日本製。ガラス器が87%。琺瑯鉄器が78%。ゴム靴が78%。自転車が70%。石油ランプが86%等々だ。
そこまで割合が高くなくてもビールは61%、金物などは34%、電球は25%を占めていた。
石鹸なども日本は「蘭印」に輸出しており、これは12%だった。
日本は戦前において「蘭印」を軽工業製品のよい輸出先としていたのだ。
ただし、こうした「蘭印インドネシア」への日本製品の輸出増加はここで歯止めをかけられる。
貿易摩擦問題が生じたのだ。
「蘭印インドネシア植民地政府」がオランダ企業保護のため日本製品の輸入に規制をかける。
何せこの時期は世界大恐慌の時代だ。
自国のオランダ企業の製品保護のために日本製品の流入に待ったをかけるのも仕方のない事ではある。
1934年に「蘭印インドネシア植民地政府」と「日本政府」の間で貿易交渉が持たれたが、規制の対象とされた物は56種類にも上る。
それだけ色々な物を日本が「蘭印インドネシア」に輸出していたわけだ。
「蘭印植民地政府」と「日本政府」の間で持たれた貿易交渉は、結局、日本が輸出を減らす事で纏まる。1933年の数値を目安にして20%減という事で決まった。
そのため1935年の日本の貿易輸出額に占める「蘭印インドネシア」の割合は1933年の8%から6%以下に減少を余儀なくされている。
この1935年の貿易輸出額は減りはしたが、それでも日本にとって「蘭印インドネシア」との貿易は黒字だった。「蘭印インドネシア」への輸出額から、「蘭印インドネシア」からの輸入額を差し引いた金額は約6400万円の黒字だ。
6400万円というと現代日本の金銭感覚から言えばそれぐらいの資産を持っている個人は珍しくもないが、当時は日本の国家予算が約22億円という時代だからかなりの金額だ。
1940年にはこの黒字は減少するもののそれでも約4800万円の黒字となっている。
防衛研修所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である「戦史叢書」の第91巻「大本営海軍部・連合艦隊1・開戦まで」に、日米関係が悪化し対日経済制裁に向けて動き出していたアメリカ国務省極東局の報告書についての記述がある。
そこには「(蘭印は日本商品の重要な市場であり、かつ重要原料、特に石油、錫、ゴムの最も重要な供給地である)」と、あるが頷ける分析だ。
フィリピンでもインドネシアと同様に日本の軽工業製品はフィリピン人に馴染み深い物になっている。
南方での軽工業製品の輸出は大幅に伸びる事になるだろう。
更には日本国内の重化学工業の発展も見込める。
史実において日本は日中戦争以降、戦争での必要性から重化学工業の分野で設備投資を大幅に増加させた。
日本における戦前の銑鉄生産能力は約300万トンだった。
これが戦中には最高で約600万トンになった。
空襲などの影響もあり生産能力は低下したが、それでも敗戦時には約560万トンあった。
工作機械生産能力は戦前は2万2千台だった。
これが戦中には最高で約6万台になった。
空襲などの影響もあり生産能力は低下したが、それでも敗戦時には約5万4千台分あった。
他にもあるが、敗戦時にこうした重化学工業の分野における設備が少なからず残存していた事が日本の経済復興に一役買い、戦後に重化学工業が経済の中心になっていく一因にもなったのだ。
今回の歴史においても現在、重化学工業の分野で設備投資が大幅に増加している。
そして重化学工業の分野に欠かせない資源に「蘭印」は恵まれている。
日本は戦前に発展させて来た軽工業の分野だけでなく、重化学工業の分野でも史実同様に発展が見込めるだろう。
更には資源の輸出だ。
石油を始めゴムや鉱物等、重要な資源を他国に輸出できる。
戦前に西欧の企業が「蘭印」の資源を他国に輸出して利益を得ていた事を、今度は日本が代わりにできるようになるだろう。
今回の歴史では日独伊三国同盟の枢軸陣営が第二次世界大戦を勝ち抜くとして、日本が確保した南方地帯のゴムや錫などはドイツやイタリアへのよい輸出品となる筈だ。
枢軸陣営以外の中立陣営にも南方の資源は輸出できるだろうし、戦争が終わったなら連合国陣営の国々にも輸出はできるようになるだろう。
戦争をしたからと言って以後は完全に貿易を行わないという事になるわけでもない。そうした貿易を行わなくなった例もあるが、貿易を再開させる例も多いのだ。
つまり、戦後の経済構造において日本は旧アメリカという市場を失い国内の繊維産業は衰退する。
だが、南方地帯を勢力圏にする事で、これまで欧米からの貿易規制を受け輸出できなかった工業製品を高い関税を払う事なく南方地帯に輸出できる。
これは日本の工業を発展させるだろう。
それに南方地帯の各種資源も日本の物として輸出する事が可能になる。
南方資源の輸出先としてはドイツやイタリア等、新ヨーロッパの枢軸国や中立国がある。
これは日本繊維産業が衰退してもそれを補って余りある状況となる筈だ。
繊維産業で働いていた労働者は他の分野に幾らでも働き口を見つける事ができるだろう。
日本は大きく産業構造を変化させるのだ。
とは言え、それは別に珍しい事でもない。
そもそも平和な時代でさえ花形産業と呼ばれる主要な産業は変化する。
史実における戦後日本の花形産業も変遷している。
石炭・鉄鋼産業から家電産業を経て自動車産業へ。
その後は金融産業が来て、更に後にはIT産業が花形産業となる。
戦後70年しか経っていないのに、日本国内でもこのように変化している。
世界的に見て、昔はアメリカがその工業力から「世界の工場」と呼ばれた。しかし、その呼び名も日本に奪われる。だが日本もその呼び名を奪われて今や「世界の工場」と呼ばれるのは中国だ。
経済は生き物であり、刻々と変化し続けるものだ。
恒久的にいつまでも同じ経済構造、同じ貿易構造を続ける事が何も正しいという事ではないし、国を繁栄させるというわけでもない。
国際情勢や各国の経済動向により輸出先や輸入先を変え、輸出品や輸入品を変える必要があるのが国際貿易というものだ。
そして、時には自国の主要産業をも変える事が経済を発展させる手段でもある。
「行雲流水」という言葉がある。
流れる雲の如く、流れる水の如く世の中は移ろいやすいという意味だが、経済もまた然り。
国の経済もそのようなものである。
閑院宮摂政が立ち上げた特別経済諮問委員会の専門家達は当然の事ながら史実における戦中や戦後における経済データを知る由もない。
しかし、その報告書の内容の大筋は、閑院宮摂政の考えと殆ど同じであった。
既に日本においては旧アメリカ領を抜きにした戦後の日本の貿易構造と新たな経済政策の計画が着々と進みその姿を見せ始めた。
閑院宮摂政はその構想に満足していた。
【to be continued】




