摂政戦記 0092話 激闘
【筆者からの一言】
アメリカ製戦車VSアメリカ製戦車。
今回はそんなお話。
1941年12月中旬 『アメリカ ケンタッキー州ハーディン郡 フォート・ノックス』
フォート・ノックス南ゲートでは戦火が吹き荒れていた。
銃弾が激しく飛び交い、砲弾が至る所で炸裂する。
爆風と硝煙が絶える暇が全くない。
熾烈な銃撃と砲撃の応酬が繰り返されていた。
「怯むな! 前進!」
パットン少将の命令が飛んだ。
自らも戦車に乗り込んで前線近くに進出し、天蓋から上半身を出して部隊を指揮しているアメリカ陸軍第2機甲師団の師団長だ。
そのパットン少将の命令に従い第66機甲連隊のM3軽戦車の一隊が敵の砲火をものともせずキャタピラを軋ませ砲撃を行いながら強引に突撃を開始する。
だが、先頭を突撃していたM3軽戦車に砲弾が甲高い音を奏でて命中し砲塔が吹き飛んだ。戦車は停止し破壊された箇所からもうもうと黒煙を噴き上げている。
しかし、戦車隊の突撃は止まらない。
後続する戦車が次々と突進していく。
M3軽戦車が37ミリ砲を撃ちながら前進していく。
歩兵もそれに続いた。
浴びせられる砲弾、被弾して擱座する戦車。倒れる兵士。
被害はどんどん増していく。
道路上は破壊され煙と炎を上げている戦車の残骸と傷つき倒れる兵士でいっぱいだ。
だが、パットン将軍は攻撃の手を緩めない。
「進め!進め! 戦車前進! 破壊された戦車を脇に押しどけろ!」
その命令に従い、1両のM3軽戦車はエンジン全開で戦車の残骸を押しのけ始めた。
しかし、そんなM3軽戦車にまた砲弾が直撃し爆発する。
フォート・ノックスでの戦闘は刻一刻と激しさを増していく……
事は日米開戦初日に遡る。
フォート・ノックスは「桜華乙班薄桜隊」の毒ガス攻撃により制圧された。
だが、日曜であったため週末休暇などにより外出していたアメリカ軍兵士も大勢いた。
その中にはフォート・ノックスから40キロ北東にあるケンタッキー州最大の都市ルイビルで遊び帰って来た者もいた。
ルイビルを朝早くに出た者は遭遇しなかったが、ルイビルは数時間後に「桜華乙班白桜隊」の攻撃に晒されている。ルイビルでの攻撃に遭遇した兵士達は命からがら逃げだし基地に戻りつつあった。
そうした兵士達が続々と帰営してくると、アメリカ兵に偽装した「桜華乙班薄桜隊」の狗達により基地のゲートで抵抗する間もなく銃を突き付けられ虜囚となるか射殺された。
だが、中には基地に入る前に異変に気付き虜囚や射殺される前に逃げおおせた者達も少なからず出る。
逃げおおせたアメリカ兵達はフォート・ノックスに近い町ウエスト・ポイントに逃げ込んだ。
その北東方向に30数キロ進むとルイビルがある。
ウエスト・ポイントと言うと陸軍士官学校がある事で有名だが、それはニューヨーク州のウエスト・ポイントでありケンタッキー州のウエスト・ポイントは単なる同名の町である。
アメリカは広く町も多くある。その為、同名の町がある事も珍しくない。
ウエスト・ポイントに逃げ込んだ兵士達は事態を陸軍省に伝えようとしたが苦労する。
電話がなかなか繋がらなかったのだ。
既に全米が日本軍の攻撃により大打撃を受けており、電話を持つ人々は家族や親戚、友人の安否を確かめるために電話をかけまくっており、それに加えて日本の工作員が各所で電話線を破壊した事もあり、全米各地で電話回線がパンク状態だったのである。
それでもなんとか陸軍省に電話が繋がったが、そこからがまた大変だった。
正規の手続きを経たルートではなく、通常の電話回線でいきなり兵士からフォート・ノックスが何者かに占拠されたという通報があっても陸軍省では半信半疑にならざるを得なかったのである。
そもそもフォート・ノックスは大部隊の駐屯基地なのだ。陸軍省の人間にしてみれば、そうやすやすと陥落するとは思えなかったのだ。
それでも、どうやら情報が真実らしいと判断されると陸軍省は震撼した。
金塊・銀塊の保管所のある重要なフォート・ノックスが何者かに占拠されている!
陸軍省は直ぐに東部防衛軍司令部に連絡をとる。
同じケンタッキー州にあるフォート・キャンベルより部隊を派遣させる為だ。
しかし、その東部防衛軍司令部にしても大混乱の最中であり部隊に命令を送るのには時間がかかってしまう。
更にフォート・キャンベルでも命令を遂行するのに時間がかかってしまう。
既に中西部と南部の大都市では日本軍の攻撃が始まっており、フォート・キャンベルに駐屯していた部隊でも戦闘準備ができた部隊から順次、近隣の大都市に出動していたからだ。
その為、命令が届いた時点ではフォート・キャンベルから速やかに多くの兵力をフォート・ノックスに送る事は出来ない状況だったのである。
それでも命令は命令だ。
兵士を掻き集めて、それも軍属のコックや事務官まで動員し臨時編成大隊を編成してサベージ少佐を指揮官としてフォート・ノックスに急派した。
一方、フォート・ノックスを占拠している「桜華乙班薄桜隊」は防衛態勢を固めていた。
それも戦車を利用してである。
フォート・ノックスは陸軍機甲部隊本部、陸軍機甲部隊学校、陸軍医学研究所、第6機甲騎兵連隊、そして第1機甲師団と第5機甲師団、その他の部隊が駐屯していた。
ただし第5機甲師団は約2ヵ月前の10月1日付けで編成されたばかりの部隊であり、それ故に兵士や車両、装備もまだ全てが揃ってはいなかった。
だが、アメリカにおける機甲部隊の本拠地なだけに戦車の数がアメリカで一番多くある基地なのは間違いない。
その戦車を利用しない手はない。
基地には600両以上の戦車があった。1800人の「桜華乙班薄桜隊」では使い切れないぐらいの数だ。
フォート・ノックスは広いがゲートは北、西、南の三カ所しかない。
それ以外の基地外周は敷地内である事を示す柵の他に雑木林で覆われており車両の通行には不向きとなっている。
ゲート以外の地域は薄いながらも大急ぎで地雷原がつくられ、少数の警戒部隊が側面を守る配置についた。
各ゲートは約1個大隊相当の兵力が陣地を構築し守備にあたる。
もし、ゲート付近に構築された陣地を後世で戦術に詳しい者が見たら驚いただろう。
その陣地の構築方法と兵器の配備の仕方は冷戦時代におけるソ連の機械化狙撃兵部隊のものに酷似していた。いやそのものであると言ってよかった。
防御地帯は三線から成っている。
第一線に4個小隊を並列配置。その後方第二線に第一線に小隊を抽出した二個中隊主力を並列配置。第三線に予備中隊と大隊本部が置かれている。
冷戦時代のソ連陸軍における典型的な自動車化狙撃大隊の守備陣形である。
ただし、通常は対戦車兵器として対戦車ミサイルが配置されるところをM3中戦車が配備されている。
いや、通常の対戦車火器の代わりは全てM3中戦車に置き換えられていると言った方が正しい。
この陣地構築方法は閑院宮摂政が特に指示して「桜華乙班薄桜隊」に満洲で訓練させていたものである。
各予備中隊にはM3軽戦車が配備され手薄な側面から敵が攻めてきた場合は火消し部隊として迎撃にあたる計画だった。
「桜華乙班薄桜隊」としては、まずアメリカ軍がフォート・ノックスを奪還する為に攻めるなら緒戦としては西ゲートに来るものと予想していた。
フォート・ノックスに一番近いアメリカ陸軍の基地はフォート・キャンベルであり、その位置はフォート・ノックス南西にあったからである。
つまり地理的位置と主要道路の関係から西ゲートが戦場になると判断していた。
その予測はあたる。
フォート・キャンベルより急派されたサベージ少佐率いる部隊は、フォート・ノックス西ゲートを攻撃したのである。
サベージ少佐は部隊を二手に分けた。主力部隊が北ゲート正面より接近し1個中隊が側面より回り込む作戦である。
ただ主力部隊を率いたサベージ少佐は敵を侮っていた。
フォート・ノックスを占拠しているのは恐らく状況からして日本軍と推測された。
現在、全米で日本軍の攻撃が行われている。
しかし、細かい被害状況などは情報が錯綜して未だわかっていない。
世間に流布している情報の中には常識から考えて眉唾物も数多くあった。中にはニューヨークやロサンゼルスが壊滅したという信じられない話しもあったのである。
それが真実ではあったが、この時代における軍人の常識から言えば荒唐無稽に過ぎた。
長年準備されてきた日本軍によるアメリカ国内での奇襲作戦。
それはアメリカにとり致命的なまでの被害を与えており、全体像を知っていればとても日本軍を侮る事などできなかっただろう。
だがサベージ少佐はそれを知らない。それ故にこの時代では白人特有の普通な傲慢さで有色人種の日本軍を見下し甘く見ていた。
フォート・ノックスの占拠も何か卑劣な手段を用いて行ったのであり、ゲート付近は制圧されたが、内部ではまだ味方のアメリカ兵が抵抗しているのではないかとも考えていた。
有色人種の日本軍如きアメリカ軍が正面攻撃を掛ければ鎧袖一触と判断していたのである。
サベージ少佐はその判断が甘かった事を知る。
砲兵も戦車の援護も無い歩兵部隊が単独で強固に守られた陣地を攻めればどうなるか……
その見本となるような戦いとなったのである。
西ゲート基地内付近には、この時代にはあり得ない筈の冷戦時代のソ連軍式の堅固な陣地が築かれていた。
使用されているのはアメリカ軍の兵器だったが。
M3中戦車がトーチカとなっていた。キャタピラが隠れる程度に地面が掘り下げられ車体が配置される。
75ミリ砲、37ミリ砲の砲身が前方を睨んでいる。
車体中央から右側にかけては土嚢が積まれ防御力をアップさせていた。
各陣地は相互に援護し合えるよう構成されている。
そこにサベージ少佐率いる歩兵部隊が真正面から攻撃を仕掛けたのである。
結果は火を見るよりも明らかだった。
75ミリ砲、37ミリ砲、機関銃の猛射を受け、たちまち前進はストップし被害が増していく。
サベージ少佐の部隊はゲート内に侵入する事もままならず釘付けとなる。
側面に回った中隊は基地敷地内に侵入し幸運にも地雷を踏む事もなく前進を続けたが、警戒部隊に発見される。
予備隊のM3軽戦車部隊が急派され正面から激突した。
いやM3部隊が一方的に蹂躙した。
M3軽戦車の37ミリ砲と車載機関銃、そして随伴歩兵の攻撃に、アメリカ軍の中隊は有効な対戦車兵器を持っていなかった事から対抗しきれなかった。
史実ではアメリカ軍は第二次世界大戦において歩兵の携帯用対戦車兵器として「バズーカ」を開発する。
だが、それは1942年の事であり実戦に投入されたのもアフリカ戦線の終盤、戦いの舞台がチュニジアになった1942年11月の事である。
つまり、1941年12月の現在、アメリカ軍にバズーカは無かった。
それ故にアメリカ軍の中隊は潰走する。
西ゲート正面を攻撃していたサベージ少佐の主力も熾烈な砲撃に耐え切れず撤退した。
サベージ少佐から奪還失敗の報告を受けた東部防衛軍司令部では歩兵部隊だけではフォート・ノックス奪還は無理だと判断し機甲部隊の投入が必要だと判断する。
1941年12月の時点においてアメリカ陸軍には5個の機甲師団があった。
第1機甲師団、通称(公式ニックネーム)「オールド・アイアン・サイズ」は1940年7月15日にフォート・ノックスで創設される。
通称の意味は俗語で「勇猛果敢な者達」という意味である。
第2機甲師団、通称(公式ニックネーム)「へル・オン・ホイールズ」は1940年7月15日にジョージア州のフォート・ベニングで創設される。
通称については、地獄の穴から出て来る悪魔の一人が足が車輪になっていて、その俗称がヘル・オン・ホイールであり、また、過去にアメリカ軍が使用していた装甲馬車も非公式にヘル・オン・ホイールと呼ばれていた事があり、それを継承したものである。
第3機甲師団、通称(公式ニックネーム)「スピアヘッド」は1941年4月15日にルイジアナ州のキャンプ・ビューリーガードで創設される。
通称の意味は「槍先」や「先鋒」という意味である。
創設時、第2機甲師団より基幹となる人員と装備を受領している。
第4機甲師団、通称(公式ニックネーム)「フォー・アーマード」は1941年4月15日にニューヨーク州のキャンプ・パインで創設される
通称の意味は、そのまま単純に「4機甲」という意味と、口語での「武装しろ」という意味の二つを掛け合わせたものである。
創設時、第1機甲師団より基幹となる人員と装備を受領している。
第5機甲師団、通称(公式ニックネーム)「ビクトリー」は1941年10月1日にフォート・ノックスで創設される。
通称の意味は、「5」のローマ数字は「V」であり、それを「ビクトリー(勝利)」として付けたのである。
創設時、第1機甲師団より基幹となる人員と装備を受領している。
つまりこの時点においてアメリカ陸軍には機甲師団が5個あったが、一番古い第1機甲師団、第2機甲師団でも部隊が創設されてから約1年半ほどの歴史しかなく、しかも新たな機甲師団を創設するために人員や装備を引き抜かれている状況だったのである。
他の機甲師団は創設されてから1年と経っていなかった。
しかも第1機甲師団と第5機甲師団はフォート・ノックスに駐屯していた為、その装備は敵の手中にあった。
フォート・ノックスに機甲師団を派遣するにしてもアメリカ陸軍の選択は限られていた。
残る機甲師団は3個。
そのうち最もフォート・ノックスに近いのがジョージア州のフォート・ベニングに駐屯している第2機甲師団だった。
これはアメリカ陸軍にとり幸いだった。残る3個師団のうち最も戦闘力があると判断されるのが、この師団だったからである。
東部防衛軍司令部は陸軍省と交渉し第2機甲師団を指揮下に置き、師団長のジョージ・パットン少将にフォート・ノックス奪還を命じたのである。
ジョージ・パットン少将。
史実では猛将として知られる将軍である。
その第二次世界大戦におけるアメリカ軍を率いての猛将ぶりと活躍から映画も制作されている。
アメリカ陸軍正式採用の戦車に名前が付けられもした。M46パットン戦車、M47パットン戦車、M48パットン戦車、M60パットン戦車はパットン・シリーズとも呼ばれている。
ただし、問題行動の多い人物でもあった。
パットン将軍が第二次世界大戦のシシリー島攻略戦で、「戦場ショック」(現代で言うところのPTSD・心的外傷後ストレス障害)の兵士を臆病者として殴り新聞沙汰になった事件は有名だ。
だが、若い頃からある種の問題児でもあった。
陸軍士官学校時代は「密告屋」であり級友達の些細なミスや行動を教官に告げ口し、級友達からは嫌われて警戒されている。その為、真に友人と呼べる者は士官学校にはいなかった。
その陸軍士官学校での成績はどうかと言うと103人中の46番で平凡である。
級友の足を引っ張る暇があったら勉強に励めと言いたくなる成績だ。
級友の足を引っ張るのに忙しくて勉強する時間が無かったのかもしれない。
士官学校卒業時のアルバムで級友から寄せられていた言葉は「告げ口屋」「無情な完全主義者」など、記念の卒業アルバムとは思えないぐらい悪い言葉を贈られている。
自分自身の事は棚に上げて他人の事ばかり批判しているのだから嫌われもする。現代日本にもよくいるタイプではある。
こうした性格だからパットンはその後の配属先でも上司、同僚、部下との関係がうまくいかず度々衝突し、尉官、佐官時代は転任する事を何度かしている。
また、戦車に名前が付けられたジョージ・パットン将軍ではあるが、必ずしも戦車について先見の明があったとは言えないのも事実である。
ジョージ・パットン将軍の軍歴は騎兵将校として始まる。
第一次世界大戦でパットン大尉もフランスに派遣されたが派遣軍司令部付の将校だった。
そこでもやはり揉め事を起こし前線勤務を志願するが、塹壕戦の戦いに騎兵部隊の活躍の場はなく、歩兵大隊か新編成される戦車部隊の二択が与えられる。
それで選んだのが戦車部隊である。
戦車部隊の隊長となり実戦に参加するが、大した戦果をあげる事もないどころか酷い指揮で全く戦果を上げられず負傷して戦争は終わる。
その後、パットンは再び騎兵部隊に戻るのである。
第一次世界大戦から10年経った1929年7月に、戦車が有効か馬が有効かについてのパットン少佐の意見が「ワシント〇・ポスト」に掲載される。
その主張は戦車は馬よりも地形の制約を受け、調達費、維持費等も馬よりも遥かにかかり、馬を軍事利用する方が効果的だと主張するものだった。
パットンは戦車部隊にいた時は、戦車運用の論文を幾つか書いているが、それはあくまで戦車部隊にいたからであり、離れれば戦車をそれほど評価はしていなかったのが実際のところだった。
第二次世界大戦の勃発と共にドイツの機甲部隊による電撃戦でポーランドやフランスが敗北するとアメリカ陸軍内でも戦車の存在が見直され機甲師団が編成される事になる。
そこで第一次世界大戦で戦車部隊を率いた経験のあるパットン大佐が第2機甲師団第2機甲旅団の旅団長に抜擢される。パットン大佐はそれまで第3騎兵連隊の連隊長をしていた。
その後、機甲部隊の拡張による影響から昇進し第2機甲師団の師団長となるのである。
なお、将軍になるまでのパットンの昇進にはコネが随分と絡んでいる。
パットンの家庭の背景を見ると父親が実業家であり富豪だった。母親の実家も大地主で大規模農園を経営している。
パットンの父親が息子を士官学校に入れる為に各界の人々に推薦状を書いて貰った時も、その相手は州知事、最高裁判事、銀行頭取、鉄道会社社長等、多岐にわたり、またその数も多かった。
それだけ人脈は広かったのである。
パットンが結婚した奥さんの実家も富豪だった。奥さんとの結婚式では新聞に「欠席したのは大統領だけ」と書かれているくらい盛大なものである。
自分の実家、奥さんの実家の影響力と人脈は広く大きく、パットンは陸軍士官学校卒業したての少尉の身でありながら当時の陸軍長官や陸軍参謀総長とも私的な交際があったぐらいである。
だから、任地で同僚との不和があった場合、転任する事はあっても陸軍を追い出される事も無かった。
もし、パットンと奥さんの実家がごく普通の庶民であったならば、パットンは尉官の時代に軍を不名誉除隊となるか自主的な除隊をすすめられていたかもしれない。
そんなパットン将軍に今回の歴史では史実とは違い師団長としてフォート・ノックスの早期奪還命令が下される。
第2機甲師団が駐屯するジョージア州フォート・ベニングからケンタッキー州のフォート・ノックスまでの距離は約500キロ。
パットン将軍は師団に直ぐに出動を命じた。
第2機甲師団は第2機甲旅団を中心とし、その第2機甲旅団は軽戦車主体の第66機甲連隊と第68機甲連隊、中戦車を主力とする第67機甲連隊、砲兵の第14機甲砲兵連隊から編成されている。
第2機甲師団には他に第41機甲歩兵連隊、第2機甲偵察大隊、第78機甲砲兵大隊があり、他に通信中隊、工兵、兵器、補給、衛生の各大隊が配属されている。
それらの部隊が動き出した。
愚図愚図する事を嫌うパットン将軍は性急だった。
500キロの道程を急ぎに急がせる。
しかし戦車はそれほど早くは走れない。
それでも数日の後、フォート・ノックスの南ゲートに到着したのである。
しかし、全部隊ではなかった。
戦車や車両の中には故障で脱落した物もあったし、未だ向かっている途上の車両もあった。
M3軽戦車とM3中戦車では当然、軽戦車の方が速い。
M3中戦車からなる第67機甲連隊はまだ到着していなかった。
それでもパットン将軍は敵に猶予を与えてはならないと、部隊が揃っていない事に構わずに攻撃命令を下す。
だが、その戦術が問題だった。戦車部隊を前面に押し立てた単なる正面攻撃である。
そもそも史実でも今回の歴史でも第二次世界大戦前のアメリカ戦車部隊の戦術は戦車部隊単独による戦闘しか想定していない。
それも主に第一次世界大戦のような塹壕戦での戦いで戦車を活用する戦術しかアメリカ陸軍は考えていなかった。
主に戦車部隊が訓練していた内容は、鉄条網が張られた塹壕線に対し、横一列に並んだ戦車が砲と機関銃を撃ちつつ突進し塹壕を乗り越え、戦線突破後に戦車の一部乗員が短機関銃を持って下車、敵兵を捕虜として陣地を確保するという戦術である。
それ故に第二次世界大戦の勃発でドイツ軍機甲部隊の見せた電撃戦によるポーランドやフランスの敗北はアメリカ陸軍にも衝撃をもたらした。
直ちにアメリカ陸軍でも機甲師団が編成された。
しかし、それは機甲部隊という形を作ったに過ぎず、戦車と歩兵と砲兵が協力し互いの弱点を補い長所を生かす戦術を採用したとまでは言えなかった。
ポーランド戦やフランス戦を実際に見たアメリカの観戦武官からの報告にしても戦車の大量投入による攻撃こそが勝利に繋がったという見解に終始しており細部までは見定めていなかった。
イギリス軍からの情報にしても、この時はイギリス軍も未だ戦車部隊運用のノウハウを完全に会得していたとは言い難く、不完全なものだった。
それ故にアメリカの機甲戦術はまだまだ未熟だったのである。
それはパットン将軍自身にしても変わらない。戦車を用いた先進的な戦術を考案、駆使するというような事は無い。
ましてや敵が対戦車戦闘を想定した強固な陣地を築き防御する事など想定外だった。
その為、第2機甲師団を率いてフォート・ノックス奪還に乗り出したパットン将軍は痛烈な洗礼を受ける事になる。
フォート・ノックス南ゲートはまさにアメリカ戦車の墓場となった。
扇形に形成されている対戦車陣地に一直線に戦車隊が突っ込んだのだ。
射的の的と言ってもよいぐらいの展開である。
次々とアメリカ軍のM3軽戦車は撃破され、歩兵はその周りで撃ち倒されていく。
「ちくしょう!」
上等兵のロジャーは地面に這いつくばりながら毒づいた。
味方は盛んに撃っているが、それ以上に敵の銃撃と砲撃の方が激しい。
頭の上を機関銃らしい一連斜が唸りを上げて通過していった。
「救護班! 救護班来てくれ!」
誰かが助けを求めているがとても頭を上げていられない。
敵の銃撃がそれだけ激しい。
味方の火器発射音も減っているように感じる。
そこら中で負傷者が呻き血を流している。
仲間も大勢死んでしまった。
戦いが始まる前、「思いっきり弾をくらわしてやる」と景気のいい事を言っていたコルツは2メートル前で死体となっている。
ミッキー、ダーレン、オコンネル、みんな戦死してしまった。
その時、耳をつんざく爆発音が近く起こり、パラパラと砂が降りかかる。
「くそっ!」
今は悪態をつく事しかできなかった。
「レッド各車へ。こちらレッドワン、各個に応戦せよ。終わり」
レッド中隊を指揮するウォルター大尉は、命令を出しながらも酷い事になったと暗澹たる気持ちにとらわれた。
完全に敵の罠に嵌っている。
それなのに上の奴らはまだ前に進めと言って来る。
そんな無茶な!
そう思った時だった。隣を走っていたM3軽戦車、レッド2が直撃を受け見えない拳にでも殴られたようにガクッと止まった。そして次の瞬間には爆発し炎と煙を噴き上げる。
乗員は誰も逃げ出さない。
畜生! 全員やられたか!
その時、ウォルター大尉を凄い衝撃が襲った。
被弾したらしい。
だが、ウォルター大尉がそれを確認する事はなかった。彼の意識は永遠の闇に落ちたからだ。
第2機甲師団は酷い状況に陥っていた。
攻撃は完全に失敗していた。
だが、パットン将軍はまだ諦めない。
「攻撃せよ! 前進!」
未だ勝利を信じ、前へと進もうとする。
第一次世界大戦の時、戦車部隊を率いて失敗した時と何ら変わっていない。
だが、そのツケを払う時はすぐそこまで来ていた。
機関銃の一連射がパットン将軍を直撃する。
胸から上、顔面にかけて機関銃の弾が数発当たり将軍の上半身を吹き飛ばした。
即死だった。
大量の血を周囲に撒き散らしながら下半身は車内にズルリと落下した。
第2機甲師団は指揮官を失い混乱する。
だが、「桜華乙班薄桜隊」の砲撃と銃撃は止む事は無い。
流血が終わる気配はまだ見えない。
フォート・ノックスの死闘はまだ止まない……
【to be continued】
【筆者からの一言】
そんなわけでパットン将軍が早くも戦死です。
本日、朝6時からモーニング定食始めました。
あっ違った。
新連載始めます。
摂政戦記の別ルート話です。よろしかったら読んでみてください。




