摂政戦記 0034話 始まりは東北から
【筆者からの一言】
総長が東北を救っていた、というお話。
1940年初頭 『日本』
「閑見商会」が献納した阻塞気球は設計から原材料に至るまで全て純国産品である。
事の始まりは10年前に遡り、話しは東北に始まる。
当時の東北は世界大恐慌以降、呪われているとしか言い様のないほど酷い有り様だった。
1929年に起こった世界大恐慌のせいで、アメリカの購買力が低下した結果、日本からの生糸の輸出が大打撃を受けた。
東北で養蚕を営む17万戸の農家は大幅な収入減となり生活は苦しくなった。しかも、不況が続いているため収入減が続く。
1930年は米作農家が豊作貧乏に陥った。外国からの輸入米と豊作が合わさり米価が下落したからだ。
1931年は逆に東北は冷害で米がとれず大凶作となった。
1933年は「昭和三陸大地震」が発生し東北太平洋沿岸を大津波が襲い大量の死傷者が出てた。
史実では餓死者が出た。多くの娘が泣く泣く身売りに出された。
この数年を後世、人は「昭和東北大凶作」と呼んだ。
東北の人々は地獄の苦しみを味わったのだ。
だが、今回の歴史では違う。
「閑見商会」があったからだ。陸軍の宮様が動いたからだ。
「閑見商会」は1930年の豊作の時に米を買い占め、翌年の大凶作には東北に米を供出した。
無償でだ。
更に蒟蒻芋の栽培と和紙の生産を依頼し新たな収入の道を提供した。
しかも蒟蒻芋の栽培経験のある者や和紙の製造技術者を他から雇い東北に派遣して、未経験の農家に技術指導を行ったり、その生産に必要な資材をも無償で提供もする。
それだけではない。身売りされそうになっていた娘達を集め「閑見商会」の経営する工場で雇ったのである。
農家は喜んだ。
養蚕に代わる収入源が出来たと。
米作以外にも収入源が出来たと。
そして何よりも飢え死にせずに済むと。子供に腹いっぱいに食べさせる事ができると。
それに娘達にも未来が開けたと。
これまでの慣習ならこんな時は娘を身売りするしかない。売られた娘達の未来は不幸な末路があるだけだ。
だが「閑見商会」が工場で女工として雇ってくれた。
身売りの代金よりも多い金額を契約金という形で払ってくれて、娘達にも給料をくれるという。
盆と正月には帰省も許してくれるという話だ。
宮家が後ろ盾の立派な工場で娘は働ける。
これならきちんと嫁にもいける。
親は皆、泣いて喜んだ。
「昭和三陸大地震」が発生した時は、陸軍と海軍が素早く動き、災害救助にあたってくれた。
陸軍の閑院宮総長が逸早く動き陛下の許可を戴いて「東北の民を救え!!」と陸軍に大号令を発したそうで海軍もそれに同調した。
軍の備蓄食料まで供出してくれた。
「閑見商会」が無償の救援物資を送ってくれて炊き出しまでしてくれた。
高貴な方が、宮様が、東北の民に心をかけて下さる。
救けて下さる。
手を差し伸べて下さる。
それがどれほど有り難く嬉しい事か……
こうして東北の民は閑院宮総長と閑見商会に深く感謝しつつ、蒟蒻芋と和紙を一生懸命造り続ける事になる。
それは阻塞気球生産への第一歩であった。
【to be continued】
【筆者からの一言】
東北の民を救った総長ですが、意外に人の良いところがあるのか、
それとも、ただ単に弱みに付け込んで利用しただけなのか……
きっと利用しただけでしょうね総長ですから。
なお、今回の歴史では蒟蒻芋の大量生産に成功したので史実の大戦末期とは違い日本の食卓から蒟蒻が消える事はありませんでした。