摂政戦記 0033話 困惑の陸軍
【筆者からの一言】
「総長戦記」では登場予定の無い兵器のお話。
1940年初頭 『日本 東京 陸軍省&陸軍参謀本部』
大日本帝国陸軍上層部は1人の人間を除いて誰もが困惑していた。
陸軍省と陸軍参謀本部のどちらの組織も困惑していた。
原因は閑院宮総長にある。
閑院宮総長のご実家、閑院宮家が出資して創設された商社「閑見商会」から陸軍に献納があった。
閑院宮総長から特に指示を受けての献納だと言う。
献納とは現代日本風に言えば寄付金であり、その寄付金を渡された軍が、自分達が必用とする飛行機等の兵器を買い付けるのが一般的だった。
だが、しかし、「閑見商会」から陸軍への献納は物納だった。
閑院宮総長が何かしら動いているのは陸軍省と陸軍参謀本部も承知していた。
盛んに副官を国内出張に出したり、軍需品本廠の者を使っていたのも承知している。
だが、閑院宮総長自身は陸軍参謀本部から全く動かず、日々、職務に励んでいたので大した事はなかろうと誰もが判断していた。
だが、しかし……蓋を開けてみれば唖然呆然だ。
献納されたのは防衛用兵器だった。
新設計の阻塞気球だ。
阻塞気球は防空気球とも呼ばれ重要都市や重要拠点等の上空に昇騰させておき敵機の侵入を阻むという役割りを持つ。
史実においては第一次世界大戦ではかなりの効果が認められた防衛兵器だ。
ただし第二次世界大戦においては高高度で爆撃してくる爆撃機には効果が無かった。それでも小型機に対してはそれなりの効果があり連合国も枢軸国のどちらもが使用している。
日本での阻塞気球の歴史は1928年にドイツのWLFG社とイタリアのアポリォ社製の阻塞気球を購入し研究を開始した事から始まる。その6年後には国産の九三式防空気球が完成し正式採用されている。
防空気球を運用する防空気球隊は史実ではアメリカとの開戦の年1941年には4隊編成されている。
新型の阻塞気球を献納という話自体はそれほど悪いものではなかった。
日本では阻塞気球の配備は始まったばかりであり、数は全く足りていない。
献納してくれると言うのなら願ってもない話しではある。
しかし、献納される予定の数が問題だった。
その数なんと1万基!!
あまりの数の多さに聞いた者は皆、唖然とした。
しかも更に増産しているという。
できたばかりの防空気球隊にはそんな数を運用できるだけの人数はいない。全くいない。全然いない。
だいたい気球の維持費はどうするのだ!
管理はどうするのだ! 人員配置は! 人件費だって安くはないのだ!
と、陸軍省と陸軍参謀本部の者達は頭を抱えたのも無理はなかった。
たが、幸いにもそれには解決の目途がついた。
閑院宮総長と陸軍大臣との間で話し合いがもたれ、と、言うより総長から大臣へのお達しがあり、防空気球に関わる人員、人件費、維持費については、全て「閑見商会」が出す事で話が纏まったのである。
防空気球隊に関わる「閑見商会」の人員は、商会の正社員として給料を貰いながら陸軍には出向の形で働く事になった。軍では軍属待遇である。
陸軍省と陸軍参謀本部の者達としては、できれば他の兵器を献納して欲しかったが、閑院宮総長が妙にこの阻塞気球に拘りを見せており、誰も意見できる者はいなかった。
下手に意見具申して総長の不興を買ってはたまらない。閑職に回されたり、僻地に飛ばされるぐらいならともかく、粛清されてはたまらない。故に皆、口を噤んだのだ。
そして阻塞気球は増産され、その数は日々増え続けていく。
それを陸軍上層部は誰も停められなかった。
【to be continued】
【筆者からの一言】
既に読者さんもお気づきと思いますが、阻塞気球とは仮の姿!
その正体は!?
それは明日から徐々に明かされるという事で一つよろしくなのです。