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摂政戦記 0055話 困惑

【筆者からの一言】


誰かさんがドジをしたというお話。

 1941年10月 『日本 東京』


 海軍は困惑していた。

 元々、海軍には開戦する気などない。

 毎年行われてる海軍中枢による図上演習でも仮想敵のアメリカ海軍に勝てた試しがないのだから当たり前の事である。

 開戦すれば敗北する。

 それが海軍上層部の共通認識だったと言っていい。


 しかし、事態は海軍の予想を遥かに超え急速に開戦に向かっている。

 これは容易ならざる事態だった。


 陸軍との政治的な駆け引きから開戦に前向きな発言をして来た事が完全に裏目に出たのである。 

 取り敢えず軌道修正を図るべく、まずは事務レベルにおいて陸軍に話しが伝えられる。


 10月10日、陸海軍部局長会議において海軍側代表は突如として開戦に反対の意向を表明した。

 海軍軍令部の福留繁少将が「南方作戦遂行の自信無し」との見解を示し、あくまでも外交交渉による事態の解決を目指したいと言い出したのである。

 

 仰天したのは陸軍側である。

 これまで海軍が対英米戦に自信を漲らせ、開戦を主張したからこそ陸軍もそれに同調した流れがある。

 アメリカ、イギリス、オランダとの戦いはまず海に始まる。

 制海権をとりそれを維持して初めてフィリピン、蘭印、マレーに上陸作戦ができる。そこからが陸軍の出番である。

 海軍側が自信が無いとなると全ての前提が覆る。

 正に青天の霹靂であった。


 陸海軍部局長会議は揉めに揉めた。

「海軍は陸軍と政府に偽りを述べ騙したのか!」と陸軍側が海軍に不信感を抱き、海軍は海軍で「政治的方向性の流れにおいて、その時においては妥当な主張をしたまでの事」と抗弁をする。


 結局、事が事だけに、あまりにも重大である事から陸海軍部部局長会議では決着がつかず、この問題は当然の事ながら上に報告される事になる。


 報告を受けた杉山陸軍大臣も非常に驚き、及川海軍大臣に確認をとるが、こちらは言葉を濁すばかりで明言を避ける。

 これに当惑した杉山陸軍大臣は近衛首相と相談し、この件について閑院宮摂政の前にて詳らかにする事にしたのである。


 海軍としても、ここを最後の主張の場と考え閑院宮摂政の前に立つ決意をし及川海軍大臣も覚悟を決めた。

 だが、その覚悟は無駄になる。


 閑院宮摂政はこの件について話し合う事をよしとしなかった。

 閑院宮摂政からの使者が、近衛首相と杉山陸軍大臣と及川海軍大臣の三人の許を訪れ、摂政のお言葉を伝える。それは改めての会議は無用。9月10日に承認した「帝国国策遂行要領」に変更は一切無いというものだった。

 特に及川海軍大臣に対しては「仕事を果たせ海軍大臣」とのお言葉が伝えられる。


 これにより、海軍は能動的な開戦回避はできなくなり、外交交渉による開戦回避に臨みをかけるしかなくなったのである。

 

 ただ、海軍も開戦準備は行っている。

 何度も図上演習が行われ山本五十六連合艦隊司令長官はハワイを空から叩く計画を推進していた。


 一方の陸軍も南方作戦の準備で大忙しだった。

 陸海軍は政治的にはどうあれ、上級司令部及び実戦部隊では着々と戦争の準備に入っていたのである。


 

 この時期、日米交渉は低調になっていた。

 これは主にアメリカ側の判断によるものである。


 元々アメリカは日本に対し過大な条件を出す事で追い詰め、後に条件を緩和して譲歩する事で本当にアメリカが求める条件を飲みやすいようにしようとしていた。

 最低限求めるものは日独伊三国同盟からの離脱である。

 ただし、最近はアメリカ政府内部でも満洲における門戸開放、機会均等も認めさせるべきだという意見が大きくなってはいる。

 だが主流派になるまでには至っていない。

 

 アメリカ政府としては譲歩案を出すべき頃合いを見計らっていた。


 しかし、日本では天皇が病気となり公務を離れる事態となる。

 ここで交渉を進めても国家元首が不在の日本政府では、どういう対応になるのか今一つ見通しが立たず、アメリカ政府内でも見解が分かれるに至る。

 天皇の病状は年内には快復するとの情報がもたらされた事からアメリカ政府は、天皇が公務に復帰するのを待って譲歩案を日本に提示する事が決まった。


 そのため日米外交交渉は一時、凍結と言ってもよい状況にあったのである。


 ただし、それらはコーデル・ハル国務長官のブレーン、ジョージ・グリーンを始めとした閑院宮摂政が送り込んでいる政治的工作員達がそういう方向にアメリカの方針を誘導した結果であった。

 天皇の年内病状快復という情報さえもアメリカに流された偽情報であった。


 そして時計の針は進み続け、遂に10月末に至る。

 11月1日に「摂政会議」が開かれた。

 日米外交交渉は全く進んでいなかった。

 これにより「帝国国策遂行要領」において決定されていた通り、外交交渉による解決の時は終わりを告げ、アメリカ、イギリス、三ヵ国に対し宣戦布告を行い戦争により事態を解決する事になったのである。


 ただし、軍の作戦行動上の都合から開戦日は12月8日と決められた。

 まだ、それまでには1ヵ月以上の期間がある事から、開戦に反対する近衛首相が特に願い出て12月1日までは日米外交交渉は続けられる事となる。

 もし日米外交交渉が良き結果を出せれば開戦は中止される事となった。

 

 戦争か否かあと1ヵ月で全ては決まる。


【to be continued】

【筆者からの一言】


味方である海軍と敵であるアメリカ政府の足元を掬う閑院宮摂政というお話でした。

隙があれば閑院宮摂政は味方の足元さえ掬いにかかります。




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