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摂政戦記 0054話 剛腕

 1941年9月 『日本 東京』


 御前会議では、政府の意思が前もって統一されている場合、慣例上、陛下はそれに同意されるだけであり自ら決断を下す事は無い事になっている。


 9月3日に開かれる筈だった御前会議では、政府より「帝国国策遂行要領」が陛下に提出される予定だった。

 これはアメリカ、イギリス、オランダの不当な経済圧迫と理不尽な要求に対し、外交的手段により10月末日までに解決を見なかった場合には、三ヵ国に対し宣戦布告を行い戦争により事態を解決するというものである。



 摂政に就任した閑院宮載仁親王は「御前会議」に代わり「摂政会議」なるものを新設し事態にあたる。


 法制上このような会議は規定されていない。

 一応、政府の五相会議により諮られ公式なものとして認められはしたが、法的には非常にグレーな物である。

 だが、誰も反対はしない。

 内々に摂政の側から根回しがされており、その理由も戦争が敗北した場合、全ての責任を摂政が負うためであるとの説明を受けたからである。


 9月10日に開かれた摂政会議において「帝国国策遂行要領」は承認される。

 

 それだけではなかった。

 閑院宮摂政の強い要望という名の命令により大本営の設置が決定された。

 

 史実では「日華事変」が長期化の様相を見せた為に1937年11月に大本営が設置され、そのまま太平洋戦争に突入している。

 今回の歴史では「日華事変」は短期に終了した為、大本営は設置されていなかった。


 更に閑院宮摂政は大本営政府連絡会議をも要望という名の命令により設置させる。これは政府と軍部の意思疎通を速やかにする為である。

 それに加えて戦時下での統制経済の統括機関「企画院」の新設をも要望という名の命令により決定した。


 全ては「摂政会議」における摂政の権限が規定されておらず曖昧な事を利用しての専横である。


 政府閣僚達はこれによりはっきりと認識した。

 摂政殿下は表向きはともかく、その真意は既に外交による解決を期待しておらず、戦争による解決をお望みなのだと。


 閣僚の中には閑院宮摂政の真意を問う者もいた。

 それに対し「万が一に備えて」「念のために」などと閑院宮摂政が言う事は一切無かった。

 たった一言。

「もはや戦争は避けられん」と閑院宮摂政は語るだけであった。

 

 閑院宮摂政は外交的には何ら積極的に解決策をめぐらす事はなく、その努力をする事も無く、戦争準備にだけ注意を払っていたのである。



 この事態に苦悩したのが近衛首相である。

 彼には閑院宮摂政の法を掻い潜るようなやり方は承服しかねたし、とてもアメリカとの戦争を乗り切る自信も無かった。

 それ故に閑院宮摂政に辞任を申し出る。

 

 しかし、閑院宮摂政は辞任を許さなかった。

 近衛首相の政治手腕を惜しんだからではない。

 まだ、アメリカには外交的解決の努力をしていると見せ掛けたかったからである。


 近衛首相にとってはいい面の皮である。

 だが、陸軍という暴力機関を掌握し、過去には自らの意に背く者を容赦なく粛清している閑院宮摂政に逆らう事ができよう筈もなかった。


 こうして対外的には、ご病気によりご静養中の陛下の代理人たる閑院宮摂政の下で近衛内閣は、アメリカ、イギリス、オランダとの関係改善を進めるべく外交努力をしているという姿勢を見せる事になった。


 しかし、その裏では着々と戦争の準備が進んでいたのである。


【to be continued】

 

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