摂政戦記 0053話 殿下に戻る日
1941年9月 『日本 東京 皇居』
陛下御不例にして重篤。
侍医の診察では御回復にはかなりの日数がかかり、年内の御公務復帰は無理との診断が下されると、皇族会議が開かれる事が決定した。
摂政を立てるためである。
明治22年(1889年)に定められた皇室典範には陛下が病にて御公務を担えない場合、摂政を立てると定められている。
大正天皇の場合も晩年は病にて御公務を果たす事ができず、当時、皇太子であった今上陛下が摂政となって陛下の代わりに御公務にあたっている。
摂政は皇族会議にて決定される。
皇族会議の参加者は成人男子の皇族に枢密院議長、宮内大臣、内大臣、司法大臣、大審院長からなる。
今回の皇族成人男子の参加者は各宮家から一人ずつとなっていた。
ただし諸種事情により参加していない宮家もある。
皇族の参加者は9人。最も年長者が閑院宮総長だった。
高松宮宣仁親王(1905年生まれ)
三笠宮崇仁親王(1915年生まれ)
東久邇宮稔彦王(1887年生まれ)
朝香宮鳩彦王(1887年生まれ)
梨本宮守正王(1874年生まれ)
久邇宮朝融王(1901年生まれ)
賀陽宮恒憲王(1900年生まれ)
竹田宮恒徳王(1909年生まれ)
閑院宮載仁親王(1865年生まれ)
欠席の宮家は五家。
伏見宮家の伏見宮博恭王は病気につき欠席。その長男は3年前に病没している。亡き長男は男子を儲けておりその子は健在であるが、まだ未成年の為に皇族会議への参加資格は未だない。
故に伏見宮家は欠席。
北白川宮家も当主が昨年事故死しているため欠席。亡くなる前に男子を儲けているが、その子はまだ未成年な為に皇族会議への参加資格は未だない。
故に北白川宮家は欠席。
山階宮家の山階宮武彦王も病気により欠席。この方は関東大震災で妻と子を失った衝撃で心を病まれ、以後、再婚する事も世に出る事もなかった。
故に山階宮家は欠席。
秩父宮家の秩父宮雍仁親王は結核を患い療養中。結婚はしているが、まだ子はいない。
故に秩父宮家は欠席。
東伏見宮家は当主が1922年に亡くなっており、子もいなかったが、妻だった親王妃が健在である事から宮家としてはまだ存続している。
故に成人男子がいない為に東伏見宮家は欠席。
皇族以外の参加者は5人。
原嘉道枢密院議長
松平恒雄宮内大臣
木戸幸一内大臣
柳川平助司法大臣
長島毅大審院長
こうして14人の列席者の皇族会議により摂政が決定される。
しかし、その皇族会議により選出された摂政は異例づくしの人物だった。
皇室典範には摂政になるべき順番が定められている。
まず摂政は成人に達した皇太子、又は皇太孫が任じられる事になっている。
皇太子、又は皇太孫がいないか、未成年の場合は親王もしくは王が皇位継承順に基づき任じられる事になっている。
お倒れになった陛下にはまだ皇太子がいない。
男子のお子様はいらっしゃるが、まだ立太子の礼をおこなっておらず、何よりまだ7歳で未成年である。
そうなると、皇位継承順から陛下の弟君が摂政となる事になる。
だが、不幸な事に現在、一番目の弟君、秩父宮雍仁親王は前述したように結核を患い療養中である。
二番目の弟君、高松宮宣仁親王は海軍軍人でありご健在。
三番目の弟君、三笠宮崇仁親王は陸軍軍人でありご健在。
本来なら高松宮宣仁親王が摂政に任じられるのが筋であり法である。
しかし、ここで異論が出た。
何分にも高松宮宣仁親王は海軍の中佐に過ぎない。皇族としても若く政治に経験豊富とも言い難い。
今は日本の危急非常の時である。
陸軍も海軍も対米開戦で意思を固めている。
まだ若い高松宮宣仁親王にこの難局にある日本を指導していけるのか、という疑念の声が上がったのである。
ここで高松宮宣仁親王に代わる候補として名前が出てきたのが閑院宮総長である。
皇位継承順位こそ高松宮宣仁親王や三笠宮崇仁親王には及ばないものの日露戦争で実戦を経験し、日華事変では陸軍参謀総長として日本を勝利に導き、軍人としての経歴は申し分ない。
何よりも元帥である。
そして現在も陸軍を支配している。
この戦争必至の難局には、皇族の重鎮であり、軍事における経験が豊富で、現在においても陸軍の支配者たる閑院宮載仁親王を摂政に任じた方が良いのではないかという意見が出たのである。
この会議に参加している皇族の中で最も年齢が上なのも閑院宮載仁親王である。
そして高松宮宣仁親王や三笠宮崇仁親王も含め、会議の参加者全員がこの意見に賛成した。
反対者は0
波瀾な展開である筈だが、全く波風が立っていない。
それもその筈、既に閑院宮総長の根回しが済んでいたからである。
この根回しで閑院宮総長が大義名分としたのが陛下の、また皇室の楯になるという主張である。
アメリカとの戦いで勝算は低い。
陸軍省特別経済研究班と総力戦研究所が提出して来た調査報告書には連合国の勝利という結果が見えている。
それでも日本は死中に活を求め戦はなくてはならない。
それで勝てばいい。
しかし、負けた場合はどうなるか。
戦争を起こした責任者としてトップにいる者は裁かれるやもしれない。
ならば、老いた我が身が責任をとるべき立場となり、皆へ罪が及ぶのを防ごう。
何としてでも陛下をお守りしよう。
老いたる閑院宮最後のご奉公である。
そう説得したのである。
説得された側には陛下の楯になる言葉に胸を打たれ涙を流す者もいた。
老いた身の最後の御奉公という言葉に皆は深く感じ入り、全てを閑院宮総長に託す事を決め摂政に押したのである。
ただし、閑院宮総長を摂政に任じると皇室典範を破る事になる。
法は遵守しなくてはならない。
でなければ法治国家としての意義が無くなる。
ここで建て前としての理由付けが行われた。
高松宮宣仁親王や三笠宮崇仁親王など閑院宮総長よりも皇位継承順位の高い皇族は病気療養中という理由が付されたのである。完全に仮病であり、建て前であった。
こうして強引に法を掻い潜り閑院宮総長は摂政に任じられたのである。
9月10日の事であった。
また、この日をもって摂政、閑院宮載仁親王は陸軍参謀総長を辞任している。
閑院宮載仁親王は将官になって以来、これまで「閣下」と部下に呼ばせて来た。
本来なら皇族は「殿下」と呼ばれる。
しかし、皇族の立場よりも軍人としての立場を重んじる事から、他の将官と同じく「閣下」と呼ばせて来た。
爾来40年、閑院宮載仁親王はついに「閣下」と呼ばれて来た立場を捨て「殿下」と呼ばれる立場に戻る事になった。
そして、この日から摂政、閑院宮載仁親王が日本を牛耳る事になる。
摂政、閑院宮載仁親王の姿は、政府の者にも軍部の者にも民達にも頼もしく見えた。
だが、日本国民の殆どが知らない。
陛下に毒を盛った黒幕が閑院宮載仁親王である事を。
戦争への流れを敢えて止めようとはしていない事を。
果たして日本の行く道に未来はあるのか? 何が待ち受けているのか?
それを知る者は、まだ誰もいない……
【to be continued】




