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取っ手を回せば、鈍い音を立てて、鉄の扉があっさりと口を開けた。
奥に続くのは、部屋と同じ様に真っ白な壁に囲われ、同じ様に鉄の扉が幾つか備え付けられているだけの廊下。部屋よりも若干肌寒く、扉の数は私が眠っていた部屋のモノを合わせて八つも存在している。
過度の緊張に私の喉が鳴る音が、どことなく他人事の様に聞こえてきた。
半ば予想はしていたが、扉の奥が外に繋がっている訳ではなかったようだ。当然の事ながら、この廊下も私には見覚えがない。また、私に関する手掛りを示す品もどこにもないのだ。
蚤の様に跳ねる心臓を落ち着かせながら、廊下の様子を伺う。
人の姿はない。それどころか、ここの場所も白い壁が辺りを包む、シミの一つも色付かず生活感のない廊下であった。人間がいた痕跡がないというだけで、言葉にしようもない恐怖が心を染め上げていく。
唯一の手掛りとなりえる紅茶色の本の存在を確認する様に、しっかりと胸に抱えながら、ゆっくりと廊下へと足を踏み出す。
靴底からは、意外にも固い踏み応えを感じる。
踏み出した後に様子を見渡すが、何かが起きた様子はない。肌寒い廊下の中で頬から伝い落ちる冷や汗を拭いながら、金属で固められた様な感触を確かめる。
問題はない。まだ激しく鼓動を打つ心臓を、宥めながら私は更に歩みを進めた。
すぐに、鉄の扉が目の前にくる。先程と見た目は全く変わらない鉄の扉であった。
扉を前に躊躇する心を叱咤しながら、ゆっくりと取っ手に手を伸ばす。鉄の冷たい感触が伝わってくる。ここまで何も問題はない。大きく息を吸い、意を決して私は取っ手を回した。
……、開かない。扉その物を壁に打ち付けたように押しても、引いても開く気配はなかった。
小さく舌打ちをしながら私は、取っ手を手放すと次の鉄の扉まで進む。
取っ手に手をかけ、扉を開こうとするが、ここも開く気配がない。次の扉も、その次の扉も、取っ手は回っても、溶接でもしたかの様に決して開く事はなかった。
開かない扉に若干苛立ちながら、私は最後の扉の前へとやってきていた。
もはや一切躊躇する事なく、私は乱暴に取っ手に手をかけ、回す。
途端に、強い風が吹き付ける。反射的に目を閉じた。
湿った暗室の様な、黒く濁った臭いが鼻頭にぶつけられる。鈍い音を立て、鉄の扉は何の躊躇もなく大口を開いたのだ。
何度目にもなる緊張感を押さえつけ、私は閉じた目を開き、そして更に見開いた。
そこにあったのは、山肌をくり貫いた様な大きな洞窟。そして、何よりも目を奪うのが、巨大な虹色の玉だ。人間一人がすっぽりと入ってしまいそうな程巨大な宝玉。価値すら想像出来ない、宝石よりも美しいな巨大な玉が、祀られる様に鎮座されていたのだ。
思わず、息を飲む。
まだ近づいてもいないのに感じる強烈な存在感。生命その物を何千個も詰め込んだような圧倒的な威圧感に、収まった筈の冷や汗が滝のように流れ落ちる。
恐怖であろうか。それとも畏怖であろうか。
何とも言えない感情が私の中に溢れかえり、私という存在に対する疑問すら忘れ、私はただ茫然と目の前の虹色の玉に目を奪われていた。
それからどれ程が経っただろうか。我に返ったのは、私が抱えていた紅茶色の本がほんの僅かに、まるで存在を主張する様に、発光している事に気が付いたからだ。
驚くよりも先に、輝く本に導かれるように、私は開く。
『そこにあるのは、迷宮の魂。貴方の希望であり、使徒の願いを叶える魂』
これが、迷宮の魂。意味は分からないが、その言葉を心の中で反芻してしまう。そんな私に、更に言葉は続いていた。
『さあ、まずは手足を造れ。魂に手を伸ばし、唱えるよ。貴方は迷宮を造りし王』
分からない。分からないまま、私は促されるように虹色の玉の前へと足を踏み出していた。ゆっくりと虹の玉の方へと手を伸ばし、囁くように呟いた。
「……わ、我は認められし王」
いつの間にか、口から私の知らない言葉が漏れ出ていた。
「──、我は迷宮を造りし王、──、」
玉に触れそうになった瞬間、手に異常な程の温もりを感じる。言葉が紡がれる度に、その温もりが、熱さへと変わっていく。
「──、時間を司る迷宮の支配者なり──、」
唐突に、掌に焼き尽くさんばかりの熱が生まれる。殻を破り弾ける様に、眩い輝きが玉から溢れ出たのだ。
その光景は、この世のものとは思えない程に美しい。眩しさすら忘れる程の輝きに、目を奪わる。目を瞑る事すら出来ない強烈で神々しい光。
それは、まるで精神を持つように一つに集まり、身体を持つように一つに固められていく。気が付けば、僅か数秒で、一抱え程にもなる巨大な光の玉が、そこには存在していた。
そして、その光は弾ける様に一つの命を生み出した。
宝石の様に美しい身体。
人形の様に滑らかな髪。
そして、人間の様な柔らかな笑顔。美しく飾られたドレス姿に包まれた彼女は、地面に足を付くと私に向かって笑顔で頭を垂れた。
「──、ご主人様。お目にかかれて嬉しく存じます。私は迷宮の魂より生まれし固有迷宮人。
『時計仕掛けの宝石姫』で御座います」
一枚の絵の様に美しく、優美な動きで頭をたれる彼女。そんな彼女にかける言葉など、今の私には何も持ち合わせてはいなかったのだった。