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規則的な音が不意に軋んで聞こえた。
コンマ以下で僅かに狂った秒針が奏でる、精神を掻き乱す不協和音に似た何か。何処からともなく、それでいて永遠と響く堪えようのない不快感が、深い闇の底から意識を静かに浮き上がらせる。
決して眠っていた訳ではない。まるで夢中になっていた作業から、ふと我に返るように、私という存在が唐突にこの場に目覚めてしまう。
──、恐怖。
恐怖だ。意識を取り戻した瞬間、異常なほどの恐怖が私を襲った。
息が詰まり、身体が冷え切る。まるで悪夢で飛び起きた子供の様に、心臓が飛び跳ね、息も整わない。それなのに、身体は全力疾走をした後の様に疲れ切り、恐怖と絶望が心の中を駆け回る。
だが、それが何に対する感情であるかさえ、忘れてしまった夢の様に思い出す事も出来なかった。理由も分からず、言い様も無いほど酷く荒れ果てた精神と身体。私は、それを幾つかの深呼吸で抑え、額から伝い落ちる汗を拭う。
とにかく現状の把握が必要だ。酷く跳ね上がる動悸を宥めながら、私は周囲を見渡した。
すると、まずここが何処かという疑問が頭の中に浮かんだ。
見覚えのない部屋だった。真っ白な壁、鉄で出来た大きな扉。そして、無造作に床に置かれた辞典ほどの大きさの本。
質素を通り過ぎて、簡素な部屋であり、家具に至っては私が眠っていたベットのみ。塵一つ落ちていない部屋の中は、観察すればする程に、人が生活しているモノとは思えなかった。
部屋の構造に見覚えはない。では、この場所が一体何処であるのか。
その疑問は、当然の思考であった。しかし、その問いに対する解答は、どこにも存在しない。それどころか、この疑問に付随するように、『自身が何者であるか』という問いが脳裏を掠め、私は酷く愕然とした。
その疑問に対する答えを持ち合わせていなかったのだ。
私は誰なのか。記憶がない。
いや、それ所か、これまで生きてきた出来事の全てが、私の記憶には存在していない。突然、この場に産まれた様に、眠る前の記憶が欠片も存在していなかった。
心が軋む。必死に思い出そうとする頭は、空回りを続ける。
何も、思い出せない。何も、だ。凍てつくような寒気が背筋を遅い、精神すらも凍らせていく。
震える様に手元に視線を落とす。手首は白く細く、筋肉質と言えないどちらかと言えば虚弱体質の様にみえる腕。顔を触るが、ほっそりとしている事以外は分からない。
駄目だ、何も分からない。名前も、顔も、国籍も、年齢も、親も、兄弟も、友達も、恋人も、趣味も、趣向も、過去も、今も、そして、これからも。
心に巨大な暗く淀んだ穴が開く。まるで自分自身など今まで存在していなかったかのように、恐怖が心を覆っていく。
じっとしている事に耐える事が出来ず、私はベットから立ち上がる。
どうやら私は服を着ている。靴も履いている。靴を履いたまま、ベットに寝ていたのだろうか。何故。分からない。どうして、私はここにいるのだろうか。分からない。
次から次へと疑問が浮かぶが、その答えはどれも私の中では見つからない。何も分からない。
答えを求めるように、視線を部屋へと転がし、絶望する。目に映るのは染み一つない真っ新な白い壁。生活感を全て消した様な、真っ白な空間だけなのだ。
──、誰なんだ、私は?
言葉にすらならない恐怖。こびりつく様な絶望感。それらを振り払うように、私は部屋の外へ飛び出そうと扉に手をかける。
しかし、開かない。鍵がかかっている感触もないのに、取っ手は回るのに、壁に張り付いたように扉が動かない。
扉を叩く。大声を張り上げる。しかし、扉は開かない。声は届かない。
一体、どれだけその行動を繰り返したのか、ズキズキと痛む腕を抑えながら、私は一人扉の前で膝をついた。心の中は多量の感情がごちゃごちゃと混ざり合い、自分の感情が、自分という存在がどういうモノなのか、分からないのだ。
私は泣いているのだろうか。絶望しているのだろうか。縋る事も出来ない。縋るモノも何もない、誰に何を縋ればいいかも分からない世界の中で、私の虚ろな視線は答えを求め、右へ左へと流れていく。
このまま私という存在が、何もなかったかの様に消えるのではないだろうか。
混沌とした感情のまま、立ち上がる事も出来ない。虚ろな視線は、意味もなく部屋の中を動き続けていた。
ふと、私の視線が不意に一冊の本をとらえた。目が覚めた時から、最初から存在していた、一冊の分厚い本だ。この本に、私に関する事が書かれているのだろうか。
思考した瞬間、私は弾かれるように本へと手を伸ばした。紅茶を零した様な茶色く滲んだ表紙。無題の本。何かに祈るように私は、その本を開いた。
『迷宮王への道標』
表題であろうか、最初の項目に書かれていた言葉。そして、その言葉の下に、薄れたインクで続きが書かれていた。
『この手引書を手にした使徒へ。貴方は迷宮王を目指すべき使徒である。まずは、言葉を紡げ。それが全ての始まりである』
訳の分からない文章。だが、私は何かに導かれるように、私の口は私の知らない言葉を紡いだ。
「……それでは、迷宮を始めよう」
カチリと音が聞こえた。螺子を巻いた様に、歯車が噛み合う様に、鉄の扉が開いた音がしたのだ。
それが時の始まりであった。