赤穂騒乱編 其の弐
赤穂城の大広間には多くの藩士が集まっており、皆一様に困惑の表情を浮かべていた。
総登城の太鼓は滅多に鳴らされることはなく、よほどの事がなければ無用のものだ。
事実古参の藩士でも総登城の太鼓が鳴らされたのを聞いたのは初めてのことであった。
「あの、奥野殿」
大目付、間瀬久太夫は奥野将監に声をかけた。
「奥野殿なら何か聞いているのでは?」
将監は組頭。そして内蔵助の漠逆の友である。此度の召集に関して何か知っていてもおかしくはないだろうと思っての事だ。
「いや、私も何も聞いておらん。私が大広間に来たときには既に内蔵助があのようにな……」
将監の眼の先には内蔵助が上座で静かに座っており、うかつに声をかけれない空気だった。
「ご城代が家臣の我らよりも先に広間で待つなど、どういう事でしょう?」
「うむ、よほどの大事があったのか」
嫌な予感しかしない。
やがて人の入りが無くなり、大広間が静まると内蔵助はそれまで閉じていた目を開けた。
「皆、集まったか?」
現状で登城できる者は全員この場に居る事をそれぞれが既に目を走らせて確認している。
一同は頷いた。
「このような朝から一同に集まってもらったのは他でもない。早朝、江戸から変事失態を告げる早駕籠が届いた」
変事失態という言葉に一同は動揺した。
「ここに江戸の片岡源五右衛門からの書状がある。今から中身を伝えるが、動揺せぬよう心するように」
内蔵助は書状を開き、一言一句違えずに赤穂藩士一同に読んで聞かせた。
三月十四日に松の廊下にて浅野長矩が吉良上野介に対し刃傷に及んだ事を聞き、藩士達は激しく動揺した。
殿中で刃傷ともなればお家断絶、城地没収は確実だ。
そうなれば職無しとなる。これからどうすれば良いのか……
「一同、うろたえなさるな!」
その動揺を内蔵助は一喝した。
「動揺するのも無理はない。その気持ち、この内蔵助も理解できる。だが今は動揺する前にすることがある」
「と言うと……?」
将監が訊ねた。
「此度の件、城下の者もすぐに知ることだろう。そうなった時、藩札の交換に領民達が押し寄せるに違いない。まずはその対応に当たるのじゃ」
藩札とは藩が発行する紙幣であり、銀や物品と交換でき、その価値を藩が保証するので他藩に持っていっても価値の変わりにくいものとして経済の主流となっている。
また正貨に代わるものなので、藩に正貨を蓄え財政難対策としても発行されることが多い。
藩が発行しているということは、藩が改易された際には紙くずに変わってしまう。
その前に領民は正貨に替える為に押し寄せてくるので、内蔵助はその対応をしろと言っているのだ。
「お家の大事を前に藩札の交換をせよと?」
「そうじゃ。藩札交換せず、踏み倒したとあらば浅野家の名に泥を塗ることになる」
なるほど、と藩士達は納得した。
「札座奉行、刷った藩札は全部で何貫か?」
札座奉行、岡島八十右衛門は矢頭右衛門七の父である勘定方、矢頭長助に目配せし頷いた。
「はっ! およそ九百貫です」
長助は包み隠さずに告げた。
「替り銀は?」
「七百貫です!」
「二百貫足らぬか……」
「ご城代!」
八十右衛門は即座に口を出した。
「我が藩の藩札は領内のみならず、四国や家島の者も所持しています。不足は二百貫どころでは済まぬかと」
内蔵助は一瞬渋い顔をした。
「浅野本家と浅野土佐守、この両家に藩で所持する藩札を全て銀に替えて貰えるよう頼むのじゃ!」
浅野家は織田信長、豊臣秀吉に仕え関ヶ原の折に徳川方についた浅野長政の子孫である。
その本家は広島にあり、赤穂浅野家は長矩の曾祖父の代に本家から分かれている。
浅野土佐守も本家から分かれた家であり、広島藩の支藩三次藩主にして長矩の正室阿久里の実家でもある。
「藩の金不足ゆえ藩札の両替は六分替え、即刻その旨の立て札を用意せよ!」
「ろ、六分替えですか?」
「それに立て札まで……」
六分替えとなると、相手に四分も損をさせてしまう。
「致し方あるまい。だが断固として六分替えで押し通すのじゃ」
「しかしそれが元で騒ぎになるやもしれません」
その際に真っ先に標的となるのは長助ら勘定方である。
「そのための立て札じゃ。誠意を持って納得してもらうより他ない。また勘定方以外の者は勘定方の手伝い、及び藩で所持する他藩の藩札を銀に替えて貰えるよう奔走せよ!」
「はっ!」
藩士一同は了承の返事をするとそれぞれ動き出した。
普段の昼行灯ぶりが嘘のように内蔵助が指示を飛ばす姿に若い藩士は驚きながらも従うが、古参の藩士達は特にそのことに対して反応を見せなかった。
「大野殿、将監、わしは一度屋敷に戻り第二の早駕籠を待つ。それまで家中のことは任せた」
「うむ」
「わかった」
末席家老大野九郎兵衛と将監が承諾すると、内蔵助は席を後にした。
本丸を下り、二の丸を抜けると大石家の屋敷はすぐだ。
「父上!」
屋敷の前には松之丞が不安げな顔で立っていた。
「あ、あの藩士の皆様のご様子は……」
「うむ、さすがに動揺しておった。早水と萱野はどうじゃ?」
「はい、長屋の方で休まれてます。新三に任せておりますので大丈夫でしょう」
「そうか。わしは今から第二の早駕籠が来るまで居間に籠るゆえ、お前は番をしてくれ」
「番ですか?」
「そうじゃ。誰が来ようとも、決して屋敷にあげてはならんぞ」
「それは、どういう……」
こんな状況だというのに筆頭家老が閉じ籠るとはどういう事なのか松之丞には理解できなかった。
「お家のこと、この先のこと、それを一人で考えねばならん。それが家老の務めよ」
そう言いながら内蔵助は松之丞の肩をぽんと叩き、屋敷に入っていった。
内蔵助が屋敷に籠って半日が経とうとしていた。
城下では早くも蜂の巣をつついたかのような騒ぎとなっており、藩札交換の為に両替所は領民や商人が押し寄せて大騒ぎとなっていた。
そして亥の上刻(午後9時頃)、原惣右衛門と大石瀬左衛門(内蔵助の遠縁)を乗せた早駕籠が大石邸に到着した。
五十過ぎた原惣右衛門が早駕籠に乗って来たのを見て新三は「無茶するな~」と驚き半分呆れ半分で介抱した。
二人が届けた書状は即座に松之丞が内蔵助の手へと渡された。
内蔵助は書状を開き、それに目を通す。
「浅野内匠頭、吉良上野介へ意趣これある由とて折柄と申し、殿中憚らず理不尽に切り付け候の段、不届き至極。これにより……」
内蔵助は目を見開き、そして奥歯を噛み締めた。
「ち、父上?」
「これにより内匠頭、切腹仰せ付けられ候」
「なっ!?」
切腹、それは内蔵助の想定していた中で最悪の結末だった。
内蔵助は一人、家老としてこれより先に行わなければならない事を覚悟するのであった。
九百貫の藩札は現代価格に当てはめると約25億円になります。
ちなみに赤穂浅野家の藩札はこの時に大半が回収処分されたので、現存するものはわずかであり、現代では高額で取引されています。
九百貫分もあったら国家予算に届くかも。
六分の価値から紙くず、今はお宝。これも歴史の皮肉かもしれません。