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吉良上野介といふ男

元禄十四年(1701年) 三月十四日


「この間の遺恨覚えたるか!」


カッと煌めいた白刃が老人の額を割る。


「ひぃぃぃ!?」


「あ、浅野殿何を!?」


「吉良上野介覚悟!」


背を向け逃げようとする老人の背中に浅野長矩は興奮の為に型も何も無いめちゃくちゃな太刀筋で脇差しを振るい、合計四度斬りつけた。


「浅野殿、殿中でござる!」


振り回される凶刃を避け、ようやく梶川頼照は浅野長矩を羽交い締めにする事に成功した。


「お放しくだされ!」


「殿中にござる!」


「武士の情けにござる。お放しくだされ!」


「誰か、誰か来てくれ! 浅野内匠頭が刃傷におよばれた、誰か! 」


「お放しくだされ、お放しくだされ!」




元禄十四年、この年の勅使饗応役に任命されたのは赤穂藩主浅野長矩であり、その指南役は高家筆頭である吉良上野介であった。


勅使饗応役というのは、毎年朝廷から来るの使者を出迎えておもてなしする役目であり、またの名を御馳走役とも言われている。


浅野長矩は今回で二度目の饗応役であるが、これは院使(上皇の使者)饗応役に任じられた伊達村豊がまだ若輩であり、その補佐という意味合いが強い。


「と言うのは建前だ」


側用人である柳沢吉保は内密の話があると吉良上野介を呼び、人払いをした部屋で語っている。

側用人とは将軍と老中、大老との間をとりなす折衝役の事であり、将軍への意見報告は全て側用人を通して将軍へと上げられる。そのため、実質的には幕府の最上位の役職とも言える。


「はぁ、建前ですか」


吉良上野介は何故自分が柳沢に呼ばれたのかわからなかった。


「うむ、現在幕府は軍備の為の塩が不足している」


砂の混じっていない上質な塩は高級品であり、備蓄しておけばいざという時に金に換えやすく保存も簡単なので軍備としては必須品である。


「そこで赤穂だ」


赤穂の塩は近隣諸国に高い評価を受けており、品質も味も一級品と評判だ。


「赤穂の高い製塩技術を丸々手に入れれば必要な量の塩を揃える事ができる。そのためには何をすれば良いか、わかるか?」


「ま、まさか柳沢殿……」


「浅野家には赤穂から退場してもらう」


暗にではなくはっきりと柳沢吉保は口にした。

赤穂浅野家を潰すと。


「赤穂藩は改易し、新たに私の息のかかった者を藩主に据え塩田開発を行わせる予定だ」


「お、お待ちくだされ柳沢殿」


吉良は周囲に目をやり、誰か近くに居ないか探るがここは人払いのされた一室であり、虫一匹の気配すら感じない。


「柳沢殿はご自分が何を言われているのかお分かりか?」


「無論だ」


「浅野殿は五万三千石の大名ですぞ、それを何の理由も無く領地を取り上げるなどいかに側用人であろうとも…」


「側用人であろうともそのような権利は無い、その通りだ」


柳沢は吉良の言葉を続けてあっさりと肯定した。


「だが浅野が失態を犯せばその罪により藩主から下ろし、領地没収することができる」


「つ、罪ですとな?」


吉良は恐ろしい予感がしていた。それは柳沢の口から赤穂藩を改易させると聞いた時から、いやこの部屋に呼ばれた時から感じていたものだった。


「例えば勅使に礼を失する、とか」


「な!?」


柳沢吉保という男の恐ろしさは知っていたつもりだった。側用人という立場までのし上がるのにどれぼどの事をやってきたのか黒い噂は絶えない。

だが、これほどまでとは思っていなかった。

勅使饗応役に浅野内匠頭を据え、そしてその役目を失敗させる気なのだ。

それは朝廷すら利用しようとする天に弓引くも同然の行為だ。


「で、ですがそれでは饗応指南役である私も責任が」


この時吉良にあったのは保身である。

吉良上野介は六十の高齢者であり、家督を子に譲り隠居を考えていた。

そんな自分一人が失敗するだけなら良いが、大役を受けておいて失敗となれば吉良家全体に被害が及ぶ。そうなれば家臣に謝っても謝りきれないし、領民にも迷惑がかかる。

そしてなにより息子の義周に害がいく事だけは避けなくてはならない。


「吉良上野介殿」


柳沢はそれまでの居丈高から一変し、座布団をどけると畳の上に直に正座した。


「貴殿には申し訳ないが泥を被っていただきたい。このとおりだ」


まるで畳にこすり付けるように柳沢は頭を下げた。


「そ、そんな柳沢殿、頭を上げてくだされ!」


天下の側用人柳沢吉保に土下座などさせたと誰かに知られたらと考えると、吉良は残り少ない寿命がさらに縮む思いだった。


「この件に関しては誓って吉良家へ被害の及ぶ事はないよう取り計らう」


「し、しかし」


「この通りだ。お頼み申す!」


吉良の心は揺れていた。

柳沢とて武士。土下座までして約束を違えることはないだろう。吉良家に被害が及ばぬようにしてくれるはずだ。

だがそうなると浅野家はどうなる?

自分一人が泥を被るのならまだいい。

だが赤穂藩は藩主が挿げ替えられるのだ。家臣や領民に多大な混乱が生じるのは必至。

それを無視して良いのか?


「天下百年、次の百年の為にどうか!」


天下百年。

その言葉に吉良の心は動いた。


「柳沢殿、頭を上げてくだされ」


吉良は柳沢の肩に手を置き身体を起こさせた。

細い肩だった。この肩にどれほどのものが乗っているのか。


「隠居前のこの老骨が天下百年の為に幕府へ最後の奉公ができるのです。それをどうして断りましょうか?」


「では……」


「こんな老いぼれで良ければ存分に使ってくだされ」


「かたじけない!」


柳沢は肩にある吉良の手を握った。

その手は熱かった。



話が決まると吉良の動きは早かった。

勅使を迎える準備をしていた浅野内匠頭を見つけれはあれこれと文句を言い、あれが駄目これが駄目と浅野のやることなすこと全てが気に食わんと言わんばかりにネチネチと言いがかりを付けた。


そのかいあってか、浅野家はかなり混乱しており何が正しいのか判断付かなくなっていた。

浅野長矩が饗応役を任じられたのは二回目。

前回の時も指南役は吉良上野介であり、基本的に浅野は吉良の言う事に逆らう事ができない。

前回の時の書付もあるのだが、足利家に連なる名門吉良家は幕府の儀式や典礼を司る高家筆頭。

勅使饗応に関しては右に出るものはいない。

その吉良家の当主である上野介が違うと言えば誰も疑わない。

このことを利用して吉良は浅野を陥れようとあれこれ偽りを指示した。


だが浅野はそれをことごとく回避した。

精進料理を用意しろと言えば、精進料理と鳥・魚料理の両方を用意してどちらにも対応できるようにし、宿泊所の畳替えは不要と伝えたら前夜に気付き大急ぎで一晩の内に二百畳もの畳を替え、服は裃と伝えれば大紋烏帽子も用意して直前で着替える。


見事と言うより他ない。

本来ならば手放しで褒めちぎっているところだが、その優秀さが今は憎らしい。

このままでは何事も無く勅使饗応のお役目を終えてしまう。

いっそのこと浅野を怒らせて喧嘩騒ぎでも起こさせようかと、さんざん田舎侍と馬鹿にしてみたりしたが、いまいち効果は出なかった。


だがこのまま無事に饗応の儀が済めば柳沢が怒る。

そうなれば吉良家は終わりだ。

どのような手を使ってでも柳沢は吉良家を潰しにくるだろう。

すでに柳沢には何度も早く浅野に問題を起こさせろと催促を受けている。

憂鬱な気分のまま日にちだけが過ぎ、気付けば饗応の儀も最終日。


これはもう無理だろう。


吉良は全て終わったら浅野に謝り、柳沢にもなんとか許してもらえるよう頭を下げるつもりでいた。

せめて領民にだけは被害が及ばないようにしなくては。

そう思い廊下を梶川頼照と歩いていた。


(おや、あそこに居るのは)


廊下の端に見えたのはなにやら思いつめた顔をした浅野長矩であった。

一瞬だけ目が合い声をかけようかと思ったが、ここは本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院をつなぐ大廊下、通称松之廊下である。

浅野長矩の官位は従五位下であり、この松之廊下には足を踏み入れる事ができない。

勅使饗応役に任じられているので、必要とあらば立ち入る事ができなくはないのだが今はそういった場面ではない。

まあ特に用も無いので吉良は梶川と松の枝振りがどうだと生産性の無い世間話に戻り、浅野の脇を通り廊下を抜けようとした。

その時だった。


「この間の遺恨覚えたるか!」


カッと煌めいた白刃が吉良の額を割る。


「ひぃぃぃ!?」


「あ、浅野殿何を!?」


「吉良上野介覚悟!」


背を向け逃げようとする吉良の背中に浅野長矩は興奮の為に型も何も無いめちゃくちゃな太刀筋で脇差しを振るい、合計四度斬りつけた。


「浅野殿、殿中でござる!」


振り回される凶刃を避け、ようやく梶川頼照は浅野長矩を羽交い締めにする事に成功した。


「お放しくだされ!」


「殿中にござる!」


「武士の情けにござる。お放しくだされ!」


「誰か、誰か来てくれ! 浅野内匠頭が刃傷におよばれた、誰か! 」


「お放しくだされ、お放しくだされ!」



浅野内匠頭が松之廊下にて吉良上野介に対し刃傷。

これが世に言う松之廊下事件である。


――――時に元禄十四年(1701年)三月十四日の事であった。

今回は難産でした。

次は一週間以内に書くゾ!

たぶん

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