中山新三といふ男
中山新三というふ男
播州赤穂藩は五万三千石、その家臣は三百人をこえる。
一晩城で勤務に当たる宿直者のみとはいえ、その食事の用意となればさながら戦場のようである。
その戦場で戦うのが台所役の仕事だ。
「第二陣炊き上がりました」「一粒も逃すな、片っ端からひつに叩き込んでやれ!」「畜生、補給はまだか。もう薪が無いぞ」「斬って捌いてククク……」「左鍋出汁薄いぞなにやってんの」「死にたい奴から前に出ろこの魚野郎ども」「仕上がったのは順次運べ」「どけどけどけメシが通るぞ」「ぎゃああああ、腕が、俺の腕がつったああああ!」「火火火、熱いぜ熱くて死ぬぜ」
刀ではなく包丁を振るい、槍ではなく串を刺し、篝火ではなく竈の火を管理する。
そんな戦場で戦う台所役の一人に中山新三という男がいた。
「ん~、塩を一つまみかな」
味見をしていた鍋に大鍋に指先でつまんだ塩をパラリと落とし、再び味見。
「こんなもんかな。注ぎまーす」
お椀に注いだ吸い物を運んでくれと声をかけると、側にいた同僚が盆を手に寄ってきた。
「やあ新三君、どんな塩梅だい?」
「悪くないと思いますよ。今日は他の料理の味が強いので邪魔しないように整えてみました」
どうぞとばかりに新三は味見用の小皿を差し出す。
「どれ……うん、美味しい。いつもながら見事だね」
「いやいや普通ですよ」
「そんな事はないよ。新三君の味付けには皆頼りにしているんだよ。いずれは台所役を取り仕切るようになるんじゃないかな」
「いやいやこの若造をおだてないでくださいよ」
新三はまだ十七歳の若輩者であった。
それが鍋を一つ任されているというのは台所役としては異例の出世といえる。
「僕より三村さんの方が出世するでしょう。三村さん何でもできるじゃないですか」
そう言われ、三村次郎左衛門はそれこそありえないと笑う。
「私はただの器用貧乏だよ。出世したいとは思っているけど、万年木っ端役人さ」
「三村さんは謙虚すぎるんですよ。もう少し出世欲を前に出しても罰は当たりませんって」
そう言われて三村は呆れた。
お前がそれを言うか、と。
「本当なら台所役より上にいるはずなのに……」
勿体無い勿体無いと呟きながら三村はお椀の満載された盆を持って去って行った。
新三が台所役に就いたのは十四の時だ。
父親が病で急死した為に、元服と同時に家督も継ぎそのまま役職を世襲したのだ。
だがこの時に複数の家が新三を養子にと欲した。
母親も早くに亡くしており、親族とも疎遠であったので新三は天涯孤独の身となり、それを不憫に思っての事だった。
しかし新三はその全てを断った。
自分は台所役よりはるかに身分の高い家の養子になるような優秀な人間ではない、などと言って。
これは常識外れにもほどがある。
通常の武士というものはより家格の高い家となんとしてでも繋がりを持とうとするし、それが出世する一番確実な手段であり、当たり前なのだ。
ましてや養子にと望んだ家の中に筆頭家老を務める大石家まであったとあれば、これはもう正気の沙汰ではない。
阿呆である。
まさしく阿呆の所業である。
台所役というのは決して高い身分ではない。むしろ下から数えたほうが早い下級武士だ。
藩主である浅野家を除けば最上位の大石家からの誘いを蹴ってまで選ぶような仕事ではない。
むしろ選ぶことで相手側に恥をかかせる事になり、斬られても文句が言えないだろう。
新三が今も生きているのは、まだ元服したばかりで世の中のことをよくわかっていないガキだからと見逃してもらったからだろう。
それゆえに赤穂では「あの阿呆」と言えば新三を指すようになった。
そのことに対して当人はというと、
「おーい阿呆、今日はもう上がっていいぞ」
「はーいお疲れ様でした」
何とも思っていないのか阿呆呼ばわりされても普通に返事をしている。
実は大物なのかもしれないと思われもするが、そう思った者は大抵やっぱりただの阿呆だと思い直す。
新三は同僚一人一人に挨拶し、まかないの握り飯を貰って戦場を後にした。
この後は地獄の残り物争奪戦があるのだが、それに参加すると冗談ではなく命が危ないので退散する。
新三のような下級武士に出される食事は通常握り飯だけだ。時々漬物が付く事があるが、基本的には握り飯だけである。
しかしそこは食事を取り仕切る台所役。
余り物を処理の名目で、かなり良いものを食っていたりする。
それこそ庶民には一生縁が無いどころか、存在すら知らないようなものだって彼らは「痛んでいるような気がしないこともないような気がするから出すわけにはいかない」と処分の名目で煮て焼いて食うというのは秘密である。
そういうわけて、台所役の間では調理が終わり食う時になると、血で血を洗う争奪戦が勃発するのだ。
徳川の世となり百年、天下太平世は事も無しの筈がこの時ばかりは戦国時代へ逆戻りする。
そんな争いの渦中へ飛び込む蛮勇を新三は持ち合わせていないので、あらかじめ袖の中に食材を隠している。
これも乱世を生き抜く知恵だ。
「お、あれは」
新三は城内をテコテコ歩く小柄な少年を発見すると、こっそり背後から忍び寄り腰から抱え上げた。
「え~も~し~ち~!」
「ひぃぃぃ、お許しを!」
何も悪い事をしていない少年は突然の事に思わず許しを乞うが、新三はお構い無しに右に左にとブンブン振り回す。
「あいかわらす小さいな右衛門七、ちゃんと食べてるのか?」
「ぎゃああああ!」
「あははは、右衛門七は軽いな!」
「あーーれーーー」
一通り玩んで満足すると、新三は玩具にしていた少年、矢頭右衛門七をべしゃりと投げ捨てた。
「うう、酷いや新兄ぃ、酷いや」
矢頭右衛門七、勘定方に就いている矢頭長助の息子であり、その手伝いとしてよく働く孝行息子だ。
いまだ部屋住みであり、藩から棒禄は貰っていないが元服もしている。
体格に恵まれず、実年齢より若く見られがちだが新三と同じ十七歳である。
「新兄ぃに傷物にされた……」
よよよ、と泣く右衛門七は着物がすっかり崩れており、まるで事後の様に見えなくもなかった。
「人聞きの悪い事言うなよ。ほら、これやるから泣き止め」
そう言うと新三は袖の中からめざしを取り出した。
「出た!」
めざしを見ると右衛門七はピタリと泣き止んでめざしを口で受け取った。
「うう、こうしてめざし一匹で買われて自分は新兄ぃに身体を好きにされるんだ。めざし美味しいよぅ」
「もう一匹いる?」
「いただきます!」
ひったくるように右衛門七は二匹目のめざしを口の中へ消した。
「それにしても新兄ぃはいつもめざし持ってるよな」
「たまたまだよ。めざしを持っている時に右衛門七に会う事が多いだけさ」
「いよ! めざしの新三」
「やめろよ」
めざしの新三、それは赤穂の一部では恐怖の代名詞として使われる新三の通り名である。
阿呆と並ぶ新三を指すこの名の由来は赤穂始まって以来の大事件だったのだが、これに関しては大石、大野の両家老と主君浅野長矩(内匠頭)によって、あまりにも珍事件過ぎるということで一切の記録から抹消されている。
新三もあの時は『ついカッとなってやった。今は反省している』ので、あまり触れられたくはない。
その大事件を起こした事で右衛門七に、あんな事やっちまうなんてスゲー、と兄貴分として慕われるようになったのだ。
「それはそうと右衛門七、今日はご城代をどこかで見たかい?」
「見てないけど、ご城代の事なら自分より新兄ぃのほうが知ってるでしょう」
「いや登城されてるのは知ってるんだけど、その後は誰も知らないみたいなんだ」
「部屋でずっと仕事してるんじゃないかな?」
「ご城代だぞ?」
「あーー」
ご城代というのは、現在江戸にいる主君浅野内匠頭に留守を任された城代家老である大石内蔵助の事である。
この大石内蔵助という男の世間の評判は「昼行灯」の一言に尽きる。
昼の行灯、つまり用の無い物、役立たずだ。
政務などほぼ丸投げ、仕事中に抜け出して城下に遊びに行くなど日常茶飯事。花を愛で絵を書き食っちゃ寝の昼行灯ピーヒャラピーヒャラである。
「まあ知らないならいいや。まつに言われて探してるだけだし」
「松之丞殿に?」
「うん。仕事の前にやって来て居なくなったから探せって」
松之丞というのは、大石内蔵助の子である大石松之丞(後の大石主税)のことだ。
元服前の十四歳と若輩ながら論語を講じる才子であり、家督を継いだ暁には家老として存分にその才覚を発揮すると目されている。
「あいつ何かあると絶対に僕の所に来るんだよな。便利な小間使いか何かだと思ってるんだよ」
「うわぁ、自分の事を何様だと思ってるんだろうこの人」
次期筆頭家老をあいつ呼ばわりするのも問題だが、用を申し付けられることに対して不満を口にする事も問題である。
とはいえ新三は大石家に養子にと望まれたこともあり、松之丞とも幼少からの付き合いがあるので、年下の幼馴染み程度にしか思っていない。
「僕はまつの部下になった覚えはないし、そもそも元服前の奴になんで命令されないといけないんだか。頼まれたら別に断りはしないさ。なのに偉そうに命令しやがって。偉そうにしたかったら稽古で一本でも僕から取ってからにしろよ」
「ほう?」
突然背後から聞こえた声に新三は額から汗を流した。右衛門七は青い顔でプルプル震えている。
恐る恐る振り返ると、そこには予想通り大石松之丞の姿があった。
「これはこれは松之丞殿、このような場所で会うとは奇遇ですな、はっはっは」
「うん奇遇だ。お前が私のことをどう思っているのかよーーくわかったぞ。はっはっは」
「そうですか。僕がどれほど松之丞殿を敬愛しているのか理解していただき嬉しく思います」
「ああ、私の事をお前ほど軽んじてくれる奴は他にいないぞ。褒美を取らせよう」
「うん、いらない」
嫌な予感しかしないので、態度を取り作らないでバッサリ切った。
「そう申すな。この赤穂の地で育まれた土地の物だぞ。それも今が旬の」
「え、もしかしてサワラ?」
「私の拳骨だ!」
松之丞が言い終わる時には新三は脱兎の如く駆け出していた。
「待てーーー!」
「待てと言われて待つ奴がいるか!」
必死で追いかける松之丞だが、新三との距離はどんどん離されていく。
成長期に差し掛かったばかりの松之丞では成長期真っ盛りの新三の足には到底追いつけそうにない。
しかしある程度距離が空くと、それ以上は離れなくなる。
新三がからかうように速度を落として松之丞に後を追わせているのだ。
そして松之丞が疲れ果てるまでこの鬼ごっこは続く。
右衛門七にとっては見慣れたというより、見飽きた光景だった。
「……平和だなあ」
なんともなしに呟いた言葉であったが、今日この日江戸ではその平和を壊し赤穂の運命を分ける事件が起きていようとは、この時はまだ誰も知らなかった。
時に元禄十四年(1701年) 三月十四日の事であった。
なんで赤穂の人が播州弁じゃないのかって?
会話が全部播州弁やったらむっちゃ読みにくいねん。
あと誰がしゃべっとんのかわからへんよぉなってまうわ。
次回は江戸の話です。お楽しみに。