松之丞山科物語 其二
私こと大石松之丞は女として生を受けた。
母上は私を産んですぐに亡くなった為に、父上の子は私一人だけである。
女の身では家督は継げない。
父上が後妻を迎え弟が生まれるか、養子を取らなくては浅野家筆頭家老の大石家は父上の代で終わってしまう。
しかし父上は母上お一人を愛しており、後妻を迎える気はなかった。
そして筆頭家老としての面子から養子を迎えて、他家に借りを作る事を良しとしなかった。
そこで父上は私を男ということにして、男として育てたのだ。
当事者である私が言うのもどうかと思うが、馬鹿馬鹿しい話だ。
この事を知っているのは極々限られた者だけなのだが、この目の前の中山新三と書いて阿呆と読む男は知ってしまっている。
あれは父上が備中松山へ行く前日だったから、七年前になるか。
朝の稽古を終え屋敷で汗を流し着替えていたら、勝手に屋敷に上がり込んできた新三が返事も待たずに襖を開けたのだ。
まださらしも巻いていなかったので、完全に見られてしまった。
一瞬何も考えられなくなったが、どうやって狼に死体を食わせるか考えていたところで父上がやってきて、この件は口外無用で保留となった。
備中へ行く準備で赤穂藩全体が慌ただしく、この件にかける余裕が父上には無かったのだろう。
そして翌日より一年ほど備中にほとんど付きっきりで管理をする事になり、有耶無耶になってしまったので今も保留が続いている。
新三は口外無用を守り、誰にも言っていない様子だ。
それだけではなく、私が女だと知ってもそれまでと態度を変えなかったのはありがたく思う。
だがその秘密をこいつは口にした。
「お前は申してはならんことを!」
「うん、今はそれ置いといて。大事な話してるから」
私の秘密以上に大事な話などあるものか。
だから新三は阿呆なのだ。
「いいか? まつ、君は女だ。それが秘密であろうと、事実として君は女なんだ」
「……男だ」
「話進まないから無視するね」
こやつ!
「だからさ女として男に自分の褌やさらしを洗われるということに恥ずかしいという気持ちを抱くべきなんだ。家事ができない事を恥じろという意味じゃないぞ。もっとこう、男女のあれだぞ」
最後のは念のために付け加えたのだろう。
いくら私でも新三の言わんとすることくらい理解している。
まったく、この男は本物の阿呆だな。
「何を申すかと思えば、そんなことか」
「いや、そんなことって」
「私とて見ず知らずの相手ならば洗濯などさせん。だが新三ならば構わん」
幼い頃からずっと一緒にいた相手だ。今さら新三に洗濯されたところで何とも思わない。
「いや僕が構うんだけど……」
「なぜだ?」
「なぜって……」
新三は頭を抱え唸りだした。
おかしな奴だ。
「拷問か? これって新手の拷問なのか?」
なにやらブツブツ呟いているが、そんなことよりウナギを早く食わせてほしい。
「なにを悩んでいるのか知らんが、私達は場合によっては兄弟になっていたのだぞ。そのような相手に何を恥ずかしがる事があると? 別に新三になら裸を見られたところでなんとも思わん」
「いっそ男らしいな! どうしてこうなった!?」
私達が兄弟とならなかったのは新三が阿呆だったからだ。
筆頭家老の養子となるのを断る阿呆など天下に新三だけだろう。
私は密かに新三と兄弟となれる事を嬉しく思っていたのだが、あの時こいつが断ってさえいなければ……
もっとも新三の事を兄上とは一生呼ばなかっただろうが。
しかし新三が大石家の養子となっていたら家督はどうなっていたのだろう?
「そんなことよりも…」
「話変えるなよ。今凄く大事な話してるんだから」
「仮にお前が養子にきていたとしたら、家督はどちらが継ぐ事になっていたのだろうな?」
「聞いて! 僕の話をお願いだから聞いて!」
いつもは私が新三に振り回されているのだが、たまにこうして逆転するとなかなか気分がいいな。
「まったく。家督だったら正当性のあるまつが継ぐのが筋だろう」
律儀に答えてくれるとは思わなかったな。
まあいい。このまま面倒な話の事は忘れさせよう。
「まつではなく松之丞だ。正当性で言えば、養子を取った以上は女の私を男としておく必要が無くなるから、新三が継ぐほうが正しいのではないか?」
「ずっと男で通していたものを今さら女でしたは通らないさ。ご城代だけでなく、殿まで悪く言われる。だから女だということは伏せられたままだっただろう」
たしかに筆頭家老が娘を息子と偽っていたと知られれば主君は間抜けの謗りを免れないだろう。
「大石家の家督はどっちにしろまつが継ぐ事になっていたさ。だいたい僕に家老なんて勤まるわけがない。そんな教育だって受けてないし」
それはどうだろうな。
新三は自覚ないようだが、父上はなにかにつけて新三にあれこれ教えていた。
ボケているようで新三は存外頭が回るし、腹黒いところがある。
家老としての教えを受ける素養くらいは出来上がっている筈だ。
だがしかし、
「まあお前のような阿呆に家老は無理だな」
「うるさいよ」
怠け者の父上に続いて阿呆の新三となれば過労で倒れる者が出るだろう。
「まあ自分でも家老は無理だと思うけどね。僕の器量だと組頭がせいぜいだね」
「ぶっ!?」
思わず吹き出してしまった。
どれだけ自信過剰なのだ。
組頭となると奥野殿と同格だという事だ。
「自惚れるな台所役!」
「台所役を馬鹿にするなよ。その気になれば城内を制圧することだってできる要職なんだぞ」
なにを申しているのだこいつは?
たかだか台所役が城内を制圧などできるわけがない。
ああ、そうか。
大丈夫なように見えていたが、新三も赤穂藩が改易された事で動揺しているのか。
それなのに私に心配をかけまいと普段通りに振る舞ってくれていたのか。
「新三、疲れも溜まっているだろう。少し休んだらどうだ?」
「何か凄い勘違いされてるってのはわかったよ」
私が不甲斐ないばっかりに苦労を掛けさせてしまったのだな。
本当にすまない。
「よし、わかった。洗濯くらい自分でやろう」
「もうまつが何を考えてるのか僕にはわからなくなったよ」
「気にするな新三。お前も少しくらい楽をしても良いのだ」
まったく私としたことが自分の事で手一杯で、最も近くにいる者の事すら気遣う事ができなくなっていたとは。
このような事ではお家再興どころか一人前の武士になる事すら遠いな。
もっと頑張ろう。
まずは洗濯のやりかたを新三に教えてもらう事からだ。
「ところで新三」
「今度は何だ?」
「ウナギを食うことに抵抗があったみたいだが、もしかして苦手なのか?」
「ああ、その事か。別に苦手じゃないよ。むしろ好きだし」
「調理に手間が掛かるのか?」
「いやぶつ切りにして串に刺して焼くだけだよ。蒲の穂に見た目が似てるから蒲焼きって呼ばれるんだけどな」
なるほど蒲焼きか。確かに長い体を切って串に刺したら蒲の穂のように見えるだろう。なかなか面白い。
「抵抗があったのはウナギは庶民の食べるものだからさ、大石家の跡取りの口に入れるのがね……」
なんだそんなことか。
「浪人の身で贅沢など言わないさ。それに新三の作ったものなら何でも食べるぞ」
父上が言うには新三は大石家の味を完全に再現できているらしいからな。
新三の味は亡き母上の味ということだ。
ならば拒否することなど、どうしてできようか。
「何でもか。なら今度はバッタでも…」
「虫など食えるか!」
こいつは手綱を掴んでおかないとすぐに調子に乗る。
それから一刻後、新三の焼いたウナギはなかなか美味かった。
しかし蒲焼きとやらが食べてみたかったのに、新三の奴は骨が多いから食べるときに邪魔だと腹から開いて焼いてしまったのだ。
まったく風情を解さない奴め。
だから阿呆なのだ!
そんなわけで本作における大石主税(松之丞)は女の子です。
鰻が開かれてタレをつけて焼かれるようになるのは、この時代より少し後からですが、開いて焼くくらいならこの時代の人も少数派ながら居たのではないかと思い、新三には開いて焼かせました。