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プロローグ

プロローグ


――――――――元禄十六年(1703年) 三月


さして整備のされていない道に軽く降り積もった雪を足先で分けるように進む。

周囲には民家はほとんど見当たらず、まばらに雪と土の色だけが広がっている。

このような場所にあの人が住んでいようとは。

やがて私は一軒の屋敷……いや屋敷と呼ぶにはあまりに小さな家にたどり着いた。

これでも他の民家よりは立派なのだろう。

かつてのあの人の屋敷を知っていると信じられない気になるが、聞いた話ではここにあの人が住んでいる。


「御免、どなたか居るだろうか?」


戸に声をかけるとしばらくして内から戸が開かれ、一人の男性が姿を現した。

かつては趣味のよい着物に袖を通していたが、どうやらそれは今も変わらないようで安物ではあるが華美過ぎず、かといって地味でもない絶妙な模様の入った着物を着ている。本当に趣味の良い人だ。


彼は私の顔を見ると一瞬驚いたような顔をし、そして笑みを見せた。


「誰かと思えば主税殿ではないか」


「お久しぶりです奥野殿」


奥野将監、かつて赤穂藩で組頭に就いおり、父上の友人でもあり私にとっても頼りになる人である。


奥野殿は私――――大石主税を中に案内して囲炉裏の前に座らせてくれた。

ここまで歩き通しですっかり冷え切っていた体が囲炉裏の火に照らされ、氷が解けるように徐々に温まっていく。


「さて、聞かせていただけますかな」


奥野殿に出していただいた白湯を一口すすり、私は頷いた。

これを伝えるために私はここに来た。これを伝えるために私はまだ生きている。生かしてもらったのだ。


父上と、四十六人の同志達に。


「はい」


私は奥野殿に語る。

我ら四十八人がどのようにして亡き殿の仇、吉良上野介を討ったのか。

そして、どのように最後を迎えたのかを。

話し終えた頃には白湯はすっかり冷めてしまっていたが、私はそれを飲み干した。


「ふむ、先んじて郡兵衛より届いた文で知っていたが、やはり当事者の口から聞くとでは違うな」


「高田殿から」


そうか高田殿はあの時に泉岳寺に来ていたと聞く。

討ち入りのおおよその様子を知っているだろうし、父上達の最後も江戸では知らぬ者はいないくらい広まっている。


「そうか、内蔵助は逝ったか」


奥野殿は噛み締めるように呟いた。

父上との付き合いが長く、長年相談にもよく乗っていたという奥野殿がどれほどの思いを抱いているのかは私には想像することすらできない。


「一同武士として立派な最後にございました」


「ああ、亡き殿もきっと喜んでくれている事だろう」


本来ならば私も……いや、私にはもとより資格は無いのだったな。

そのことが残念でならない。おそらくこの無念は一生晴れる事は無いだろう。


「む?」


奥野殿が先ほど私が入ってきた入り口に意識を移した。


「どうかされましたか?」


「戸を叩く音が聞こえたような」


言われてみればそのような音がしたような気がする。

あ、また聞こえた。


「どうやら誰か来たようですな。どうにもこの家の戸は頑丈に出来ているみたいで軽く叩いたくらいでは音が聞こえなくていかん」


やれやれと、億劫そうに奥野殿は立ち上がると戸へ向かった。

以前であれば家人が居たが、今の奥野殿は武士ではないので人を雇う余裕もないので自ら来客を出迎えに行く。

奥野殿ほどの人が武士の身分を失う。

今更のことだが藩が無くなるというのは、こういうことなのだと私は改めて知った。


「やれやれ文を届けに来た飛脚の下請け人でしたよ。この寒い中よく働く」


まったくだ。彼ら勤労っぷりには何度助けられたことか。


「どうやら噂をすればというやつで、江戸の郡兵衛からです」


高田殿か、最後に会ったのはいつだっただろう。もう随分と前のような気がするな。

元気にしているだろうか。


「………」


どうしたのだろう?

文を読む奥野殿の様子が何か……


「主税殿、これを」


そう言って奥野殿は私に高田殿からの文を読むように手渡してきた。

私はそれを受け取り、目を通す。

まずは定型的な挨拶から始まるその文はお世辞にも綺麗とは言えない字で書かれている。

武辺者を自称していた高田殿らしいと私は思わず笑いそうになった。

だが読み進めるうちに私から笑うなどという考えは失せた。


「え?」


最初はそれがどういう意味か理解できなかった。

理解できるとそれは見間違いだと思い、もう一度初めから読み直す。

嘘だ。

そんなはずがない。

もう一度読み直す。

いや違う。

そんな事はありえない。

もう一度読み直す。

もう一度読み直す。

もう一度読み直す。もう一度読み直す。もう一度読み直す。もう一度読み直す。

しかし何度読み直してもその字は変わらなかった。


同志一同仇討儀失敗候

吉良上野介存命


うちいりしっぱい?

なんだそれは。

きらがいきている?

わけがわからない。


「う、嘘だ、こんなことは嘘だ」


「主税殿」


「だって私は、そうだ嘘だ。高田殿が嘘を」


しかし頭の中の冷静な部分が否定する。

高田殿は脱盟こそしたが赤穂の仲間だ。そんな嘘をつく理由などない。


「吉良は、上野介は死んだ。我らが討ったのだ!」


だから生きているはずがない。


「ありえない! こんなことはありえないんだ! 首級だって殿の墓前に持っていった! だから嘘だ、嘘なんだ! 吉良が生きているなんてあってはならないんだ!」


「主税殿落ち着かれよ!」


「あ……」


奥野殿の一喝により私は冷水を浴びせられたように急激に荒れていた心が沈んでいく。


「主税殿、私は討ち入りに参加していなければ、江戸にも居なかった。だから郡兵衛の文の真偽はわかりません。もう一度、討ち入りの時の話を聞かせてください」


「はい」


奥野殿は冷静だ。

人の上に立つ者はいかなる時も冷静でなければならない。

父上、私はまだまだ未熟者のようです。


「去る十二月十四日寅の刻、同志一同総勢四十八名、本所吉良邸にて表門隊と裏門隊に別れ集結」


私は再び奥野殿に討ち入りの際の事を話す。

二度目ではあるが、私の見た全てを言葉にした。


「――――そして我らは吉良と思しき老人を発見しました。その額には殿が負わせた刀傷があり、父上が吉良か否かを老人に問いましたところ老人は沈黙。ならばと着物を脱がし背を確認したところ刀傷を発見。これも亡き殿の負わせたものであり…」


「あいや待たれよ」


それまで無言で聞き役に徹していた奥野殿が待ったをかけた。

これからがいいところだったのに。


「その老人が吉良であるとしたのは額と背中に亡き殿の負わせた刀傷があったからですか?」


「はい。松の廊下にて殿が吉良めに負わせた刀傷。しかとこの目で確認しました」


そう全ての始まりである松の廊下での刃傷沙汰。その際の刀傷だ。


「それは刀傷に相違ありませんな? 引っかき傷や柱にぶつけてできた傷ではなく」


「ええ、刀傷でした」


何を言うかと思えば。

いくら私でも引っかき傷や柱に頭をぶつけてできた傷と刀傷を見間違うなどありえない。

それにあの場には他の同志も居て確認しているのだ。あれは間違いなく刀傷だった。


「では人相は?」


「え?」


「人相はどうでしたか?」


「それはもちろん伝え聞く吉良上野介のものに相違ありませんでした」


なんだ?

この足元から這い上がってくるような不安は?


「もう一度その場に居た者を教えてください」


「は、はい。あの場には父上と――――」


いや、あれは吉良だ。吉良上野介だ。そうでなければならないのだ。


「その中に討ち入り以前に吉良上野介と顔を合わせた者はいますか?」


「い、いいえ、いないと思います」


「誰か吉良の顔を知っている者は同志にいましたか?」


「!」


吉良上野介は高齢であり、ほとんど表に姿を見せなかった。

外出の際も籠を呼び外から顔を確認することはできなかった。

つまり……


「い、いません」


大胆にも吉良邸に入り吉良邸内で仕事をして情報を集めていた同志も居たが、吉良と直接顔を合わせたことなどないだろう。


「つまり人から伝え聞いた人相と刀傷だけで吉良であると認識した。そういうことですね?」


奥野殿の問いに私は無言で頷いた。

あれは吉良だ。

だって、そうでなければ……


「では似たような人相の者に」


駄目だ。


「額と背中に刀傷を負わせ」


言わないでください。


「影武者にしたてあげた可能性もあるわけですね?」


「あ……」


足元が……くずれた。

そんな、そんなのはあんまりだ。

それでは父上達は何のために命を燃やして討ち入ったというのだ。

あの涙はなんだ? あの鬨の声は? あの別れは? あの悔しさは? あの想いは?

全部無意味だったというのか?

父上達は無駄死にだというのか?


いや無駄死にならまだ良い。

我らは吉良を討ったつもりで影武者を討ち、その首級を殿の墓前で得意げにさらし、仇を討った気で意気揚々と切腹したのであれば天下の笑い者ではないか!


「させぬさ」


「え?」


奥野殿は立ち上がった。


「内蔵助らを天下の笑い者になどさせぬ」


「なにを・・・」


「大石内蔵助以下四十八名は吉良上野介を討った」


わからない。

奥野殿が何を言っているのかわからない。


「行きましょう主税殿」


「行くってどこへ?」


「江戸へ」


「え、江戸?」


「まずは郡兵衛に会い詳細を直接聞かねばなりません」


そ、そうだ高田殿だ。

この文を送ってきた高田殿に詳しい話を聞かなければ。


「で、ですが江戸まで行く旅費がありません」


私の手持ちだとおそらく箱根で尽きる計算になる。

奥野殿とて蓄えが底をついているはずだ。そんな金があるとは思えない。


「心配いりません。主税殿と二人分程度の金ならまだあります」


あった!

さすがは奥野殿だ。無計画に使いまくっていたどこかの父上にも見習ってもらいたかった。


「たぶん」


あ、やっぱり父上の友人だこの人。

どうして私の周りの大人は皆こうなんだろう。

いや、もう慣れたからいいけど。


「そして郡兵衛の話によっては我らで吉良の影武者を討ちましょう」


「影武者ですか?」


本当に奥野殿は何を言っているのだろう。


「そうです。生きているほうが、影武者です」


まるで諭すように奥野殿は一言一言ゆっくりと力強く言った。

それで私もようやく奥野殿の真意が理解できた。

なんという人だろう。郡兵衛殿からの手紙と私の話を聞いただけでそこまで考えて決意するとは。


「父上達は吉良上野介を間違いなく討った。そういうことにするのでね?」


「違います。事実としてそうなのです」


そうだ。奥野殿の言うとおりだ。

赤穂浪士四十八名は吉良邸に討ち入り、見事に吉良上野介を討ち亡き殿の名誉を守った。

それが事実なのだ。

だから、


「父上達を天下の笑い者にするべく画策した吉良上野介を名乗る影武者は、我らが討つ。そういうことですね」


そうだ、これは吉良上野介の影武者が仕掛けた起死回生の策。

吉良上野介を存命させ、我ら旧赤穂藩士を笑い者とする策略だ。

そうさせるために私達は行かなくてはならない。

本物か偽者かという話ではない。それはどちらでもいいのだ。

私達は真実を作るのだ。


「行きましょう奥野殿!」


「うむ、いざ江戸へ!」

次回より本編です。

時間が巻き戻って元禄十四年(1701年)から始まります。

いかにしてここまできて、この後どうなっていくのか、よろしければお付き合いください。

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