狂気の息吹
人気のない海辺の公園の一角を硝煙が包む。男は放った弾丸の薬莢を回収し、足音を立てずに立ち去る。こめかみと心臓に正確無比に一発ずつ打ち込まれた男の死体は、誰が見ても殺しだと分かる。池袋を中心に東京の北西部を牛耳る河村組の頭が見せしめに殺されたのだと一目瞭然であること、それが今回請け負った仕事だった。
男は幼いころから、殺しの英才教育を受けて育った。元ロシアの特殊部隊員から教わった近接格闘術「システマ」を体得しおり、銃刀類だけでなく素手による戦闘術にも長けている。素早く確実に息の根を止める、それだけをひたすらに追求してきた。
学術の分野でも秀でており、20歳を迎えた年には、アイビーリーグに名を連ねる米国の一流大学の理工学修士過程を修了している。天才であり、最高の殺し屋。一見すると、二枚目でありながら穏やかな印象を与えるその男からは、そのような雰囲気は感じられない。平凡に見せることもまた一流の証である。
現在は、都内にある幼稚舎からエスカレーター進学が可能な有名私立大学の社会学修士課程に在籍している。まだ24歳だ。
男は覚えていないが、まだ4歳だったころ、両親は交通事故で死んだ。行くあてもなく世田谷にある児童養護施設でその後の6年を過ごした。仲の良い友達もおらず、口数も極端に少ない少年であったから、自分が発した声の記憶はない。
10歳の誕生日を迎える前日、少年を養子にしたいという男が施設に現れた。真夏の炎天下にあってグレーの地味なスーツを身に纏い、磨き抜かれた黒の革靴が太陽の光を反射していたのを鮮明に覚えている。子どもの背丈から見ても、背は高くも低くもない程度だったし、肌の色もどちらかというと白く、あまり印象に残らないタイプだった。
「私の名前は浅井です。聖也くん、今日から君は私の家で一緒に暮らすんだよ」。
そう言った浅井は、口以外全てのパーツを固定した満面の笑みでいた。その姿に子どもながらに違和感を覚えた。その一方で、施設の園長先生は何とか笑顔でいるよう努めている様子が対照的で、そのぎこちない表情の理由はその時は分からなかった。
6年過ごしたにも関わらず、リュックサックと大きめの紙袋一つに収まった荷物を持って、「さよなら」と園長先生に告げた。常に一人ぼっちであった聖也を何かと気にかけてくれた園長先生との別れには淋しさがこみ上げてきたが、表情に出ることはなかった。
ある日突然、自分が置かれている環境が変わろうとも、感情をどこかに置き忘れて育った聖也は、ただ起きた事実を受け入れるだけだった。
一度、聖也の精神状態を心配した園長先生に精神科へ連れて行かれたことがあった。そこで聖也の知能指数が常人よりもはるかに高いことが発覚した。これが後に浅井の耳に届くところとなり、養子へと繋がっていった。
黒スーツの運転手付の車に乗せられ、聖也は後部座席で流れる風景をぼんやりと眺めていた。時折、浅井が好きな食べ物や遊びなど、お互いの距離を縮めようと話しかけてくる。好きなもの、嫌いなものが思いつかない聖也は、カレー、野球など子どもらしい回答を考えては、その都度呟くように答えていく。
30分ほどの時間が流れた頃、白塗りの5階建てのビルに到着した。車は2人をビルの前で降ろすと、そのまま走り去っていった。
建物自体は新しく、非常に綺麗だった。しかし、自動ドア型のエントランス以外、ガラスの使用を極力抑えたかのように2階から上の窓は小さく、外からは中の様子は分かりにくそうな造りになっていた。
「ここは私が社長をしている会社だよ。中でジュースでも飲もうか」と浅井は言った。
「はい、分かりました」と返す聖也の表情には感情がない。
ビルのエントランスを抜けると、正面にはエレベーター、右手に小さな受付があった。
その時は受付は無人だった。机の上には、黒のドーナツ型のパーツに同色の取っ手が着いたものが無造作に置かれていた。
「その机の上にあるものはね、人が金属を持ってないか調べる機械で金属探知機って言うんだよ。時々来る人が危ないものを持ってないか調べるんだよ」とその探知機に興味を示す聖也に言った。
「危ないものって、例えば、どんなものですか?」と聖也は問うたが、その機器の用途についてはすでに知っていた。
「人が怪我をしちゃうものだよ。料理に使う包丁だって、使い方を間違えると怪我をするでしょう。このビルの中で間違った使い方をしないように、おじさん達はここで見張っているんだよ」と言うと、エレベーターのボタンを押した。
上階にあったエレベーターは10秒もかからず1階に到着した。扉が開くと、両胸に龍の刺繍が入った黄色のシャツを着た坊主頭の男が乗っていた。前方を上目遣いで睨みつけるような表情に、少年は直感で「危ないやつ」であることを探知した。
その危ないやつは、浅井を認めるとエレベーターから飛び降りた。まるで、それまで静止していたロボットにスイッチが入り突然動き出したかのようだった。危ないやつは、エレベーターのドアが閉まらないように押さえながら、「どうぞお乗りください」と空いた片方の手でエレベーター内を指している。どうして良いか分からない聖也は浅井を見上げた。
「さっ、お先にどうぞ」と涼しい顔で言った浅井は、軽く少年の肩を押し、乗車を促した。
浅井が聖也に続いて乗車する直前、危ない男に「ご苦労様」と声をかけると、危ない男は九十度にお辞儀しながら「ありがとうございます!」と叫んだ。
聖也はただ混乱した。見るからに危険な雰囲気を漂わせる男を平身低頭させる浅井は、一体何者なのだろうかと。
浅井はエレベーターに乗り込むと、最上階の5階のボタンを押した。行き先階ボタンには地下1階もあった。
到着した5階は、テレビのドラマで見るようなオフィス空間だった。1列6席、向かい合う形で座席が配置された島が2つ。ドラマと明らかに異なるのは、先ほどの危ない男のような集団が電話に向かって叫び声を上げていることだ。「借りたものを返すのは子どもでも分かる」だの「沈むか返すかどっちがいい?」などと言っている。中には立ち上がり見えない相手に向かってナイフで刺すような仕草をしている男もいた。
明らかに狼狽している聖也に対して、浅井は「賑やかだろう」と笑顔で言う。ちょうど、一番近くの席に座っていた男が受話器を置いた。何かを達成したかのように満足気な顔をしている。
浅井はその男に「奥の部屋にオレンジジュース、持ってきてください」と声をかけた。先ほどの危ないやつと同様に、スイッチが入った男は勢いよく立ち上がり、大声で「はい!」と叫んだ。
オフィス空間の右手にはドアが一つ。浅井の後に続いてその奥へと入った。4人がけの黒のソファに、アメリカの大統領が使うような巨大な執務机が設置されていた。
「じゃあそこに座って」と浅井に促され、聖也はソファに腰掛けた。体がやさしく包み込まれるようなそのソファの座り心地に対して、心は焦りや不安に苛まれていた。
浅井が向かいに腰を下ろすと同時に扉がノックされ、ジュースが運ばれてきた。浅井は笑顔のまま無言で少年を見つめている。沈黙に耐え切れず、聖也がグラスに手を伸ばした。しかし、手がガクガクと震えグラスを掴めないでいると、浅井は突然笑い出した。
「驚いたのかな?でも無理ないね。今日、突然僕が現れて、連れてこられたところには怖そうな男で溢れている。でも、それでも聖也くんは冷静だよ。とても10歳には見えない。普通の子どもならきっと泣いてる。ここで泣かれたら時間をかけて探した意味がないけどね」
意味がないという言葉の意味が分からない聖也は、「はい」とだけ何とか呟いた。
「聖也くん。君は選ばれた。人生の序盤にも差し掛からない年で、君のこれからの人生の天井は見えていた。手を伸ばせばすぐに手がついてしまう程、低く、狭く、限定的で、貧しく、不運な人生の天井がね。君には新しい世界を見せてあげるつもりだ」、浅井はそこで言葉を切り、数秒間沈黙してから口を開いた。
「人間の運命は、生まれ育った環境で決まると思うかい?」と浅井は聖也に問いかけたが、「分かりません」とだけ答えた。「そうだろう」と浅井は言い、再び続けた。
「ある程度は決まるだろうとは思う。金持ちの子どもは金持ちに。貧乏人の子どもは貧乏人に。世の中は競争社会だ。良い大学を出た者が良い仕事に就く可能性は良い教育を受けてこられなかった者より高い。興味深いのは、職業選択の自由を手にする確率を上げる方法を誰もが知っているのに、貧乏人になってしまうのはなぜだろう。自分の天井が見えているにも関わらず、なぜそれを甘んじて受け入れて余生を過ごすのだろうか。私は、誰もが意識的、無意識的問わずルールに縛られているからではないかと考えているんだ。それは法律であり、文化であり、慣習であり、道徳だ。常識というのもある種ルールだと言えるだろう。成功した者は、自分の成功を維持させる限りにおいて、そのルールを順守しようとするのは想像できる。しかし、なぜ、どうして、そうでない者までその環境を受け入れるのか」
聖也は浅井の話について行けず、ただ頷き続ける。
「そのルールで造り上げられた世界は、まるで空気のようにそこにある。思考や行動の前提にそのルールがあり、そのルールに縛られて生きる。そのルールを破り何かを成そうとすれば、犯罪者、非人格者、落伍者、異端者のレッテルを張られ、結局そのルールの基に裁かれる」
浅井の語りは止まらない。浅井は対面する聖也と会話しているようで、見えない大多数の人間に対して演説をしている風でもある。聖也の理解度は問題ではないようで、まるで秘密を打ち明ける子どものように嬉々としている。
「聖也君、君は薄々気づいているかもしれないが、私はそのルールの外側に生きる人間だ。しかし、私もそのルールに縛られ、何とか逃れようとしている一人に過ぎない。私はね、成功を遂げたい。死ぬ瞬間に、満足げな顔をしていたい。そのためには、そのルールに調和し、その内外に自由に行き来する存在を生み出さなければならないと考えている」
そこで、見えない群衆を見つめていた浅井の目が聖也を捉えた。
「聖也君、僕が理想とするルールの超越者になってくれないか」
そう突然切り出した浅井の依頼に聖也は沈黙した。そして「はい」と返答した。浅井の意図することは何であろうと、自分に選択権がないことは理解していた。
浅井は「よし」と満足げに頷き続けた。
「聖也という恵まれない境遇にある少年は今日、この瞬間死んだ。祝福しよう、君は世界で唯一のルールの超越者になるんだ」
浅井は自分の描いた構想が現実となりゆっくりと動き始めたことに笑みを浮かべた。
その日から聖也は、暴力と学業の英才教育を受け始めた。自分がなぜ選ばれたのか、何をさせられるのかを知らずに。
浅井が代表を務める浅井プランニングは、世田谷区の三軒茶屋に自社ビルを構えている。若者が住みたい土地として有名なエリアだが、駅から徒歩で20分という距離にあり、ビル周辺は昔ながらの住宅街だ。
当初は、どこにでもあるような法外な金利で商いをする街金だったが、数年前に聖也がアドバイザーとして携わるようになって以降、事業の多角化に乗り出している。不動産、オフィス機器のリース、飲食店など多岐にわたるビジネスの収益は、聖也がプログラミングしたシステムトレードにより運用している。
浅井は、やくざ者には珍しくない不運な境遇で生まれ育ってきているが、天賦の才とも言うべき商才を持ち、今では堅気のビジネスのみで十分な稼ぎを得るまでになっている。聖也の殺し屋稼業は、もともとは浅井の敵の排除を主としていたが、現在では浅井の唯一の裏ビジネスになっていた。
浅井プランニングに属する面々も昔とは大きく変わり、聖也が初めて連れてこられて来た時に出会った危ないやつらは、今ではビジネススーツを身に着け、日々の業務に就いている。浅井は頑なに社外の人間を採用しようとせず、投資と称して定期的にビジネスマナー講習を開催したり、簿記や各種資格取得を目指す社員には補助金、というよりも全額会社負担の支援を行っている。
ここだけを切り出せば、やくざが更生して表の世界でしっかりと商いを行っているように見える。しかし、ここに至るまでの道のりは決して平たんなものではなかった。
合法ビジネス化に舵を切れば、どこからともなくその利益の恩恵にあやかろうとするもの、邪魔をしようと試みるものが無数に現れた。
浅井の敵はやくざ組織だけでなく、将来的に競合する可能性を危惧した表の民間企業が警察や司法の力を使って阻止しようとしてきた。そんな時浅井は、敵組織のキーパーソンに的を絞り、惜しげも無く金や性の快楽を提供し、相手が浅井を上手く取り込んだと思わせるように仕向けた。
浅井は欲望の無限地獄から抜け出す術を完全に失った頃を見計らって、相手を脅しにかかり、逆に相手を支配していった。組織とは、結局のところ個の集合体であり、何を崩せば何が壊れるか弱点を見抜く眼力を浅井は持っており、巧みに使いこなした。
浅井は、初めて会った時と変わらず外面は堅気にしかみえない。しかし、怒りが沸点に達するとその表情は鬼の形相になり、暴力に走れば誰も止めることができない。その場にいる誰もが制止に行こうという気が起きず、終わる時をただ無言で待つしかない。相手が気絶してもなお拳を止めない様は、誰よりも危険なヤツに思えた。
しかし、部下からの評価は全く逆で、情に厚く組織の構成員に対して面倒見も良い、付いて行きたい人だ、まとめるとこのような声が多く聞かれた。
ここに連れて来られて思春期を迎えるまでの数年間は、聖也の中で大きな葛藤があった。殺しの技能を叩き込まれ、生傷が絶えることがなかった日々を送る一方で、浅井の聖也に対する姿勢は意外なもので、聖也には優しいおじさんであり続けた。浅井は聖也と話す時には必ずその一人称を僕、または私と呼んでいた。
時間の許す限り聖也との会話の時間を設け、映画館をはじめ動物園、遊園地、海外のリゾートなど、聖也の興味はともかく、浅井と一緒に出かけた記憶は多く、いつも笑っていたのを覚えている。想像でしかないが、父親とはこういうものだろうかと聖也は感じていた。
浅井プランニングのビルの地下1階は、倉庫になっている。ステンレス製の棚が所狭しと配置され、書類が詰まったダンボールや浅井が使い飽きた調度品などが置かれている。雑然とした空間の一角に、高さ2メートルほどの本棚があり、金融、経済、政治といった学術書から自己啓発の類の書籍が整然と並べられている。
倉庫の蛍光灯のスイッチを一定のリズムでオン・オフを繰り返すと、その本棚がスライドし、ビルの地下を抜ける廊下が現れる。浅井に連れられ初めてこの隠し通路を通るとき、「こんな古風で映画のような仕掛けの方がバレにくいんだよ」と浅井は言っていた。
20メートルほど歩くと重厚なシルバーの扉が現れる。テンキーと指紋認証方式のセキュリティロックを開錠すると、防音設備が施された射撃練習場が広がる。聖也はここに週に2、3回訪れる。
15メートル、30メートル射座があり、グロック、シグ、ベレッタ、コルトガバメントの最新型ハンドガンに加え、ヘッケラー&コッホ社のアサルトライフルが用意されている。長距離射撃用のライフル類の訓練は、定期的にグアムなどの海外射撃場で行う。
射撃場の上は、築30年の2階建て一軒家で、鈴木と名乗る中年の男がここの管理人として住んでいる。外観は建売の特徴のない家だが、赤外線や熱感知センサーといった各種セキュリティが施されており、侵入者がいれば敷地に一歩足を踏み入れただけで警報が鳴る。頻繁に浅井のビルに出入りするわけにもいかず、聖也はこの民家に直接通っている。聖也の殺し屋稼業を知るのはこの鈴木と浅井のみだ。
ここで射撃を行うのは射撃技術の維持のためだが、聖也にとっては一種のリラクゼーションでもある。
肩に抜ける銃の反動を感じ、高速で回転しながら薬きょうが排出される。何度も繰り返してきた動作を反復させながら、一流の殺し屋である自分を認識し受け入れることこそが、複数のアイデンティティを使い分ける日々において重要な儀式になっている。
夏休み期間中で、大学にほとんど通わない8月の金曜日の午後6時。200発ほどの射撃訓練を終えると同時に、聖也のスマホが鳴った。同じ研究室の沙耶からの着信だった。
「もしもし、沙耶、どうした?」、爽やかな好青年風のトーンで電話に出る。
「聖也、今日暇?というか六本木であるパーティーに来て欲しいんだけど?」
「パーティーってどんな? 暇といえば暇だけど」
「やった。じゃあさ、8時にミッドタウンのスタバ前で。先月できたばっかの大箱クラブパーティーだから。じゃあ後でね、カズも来るから」
「分かった」と答える前に電話が切れていた。
沙耶は、8等身のスタイルで、一見すると清楚な美人だ。過去に女子アナを多数輩出した大学のミスキャンパスに選ばれたこともある。大学では膝丈ほどのワンピースを好んで身に着けている。肩甲骨あたりまで伸ばした黒髪はつややかで光を反射している。
他人の自分に対する印象をコントロールする術に長けており、週末ともなれば夜の街に繰り出し、朝までクラブで騒いでる姿を知る者は少ない。仮にその沙耶を目撃したとしても、昼間の清楚な沙耶の印象と一致せず、本人とは認識できないほどにギャップがある。
高校までロサンゼルスに住んでいたため、英語はネイティブだが、日本語の語彙も一般的な日本人のそれよりもはるかに豊富だ。幼い頃から両親の趣味である日本文学に触れてきたためだと沙耶は言っていた。父親は米国系金融機関の社長を務めており、沙耶は両親とともに六本木のミッドタウンに住んでいる。
聖也は、射撃練習に使った銃をじっくり時間をかけて分解洗浄した後、シャワーを浴びた。そして、恵比寿にある自宅から持参していた紺のショートパンツ、ホワイトのTシャツスタイルにドライビングシューズを合わせたサマースタイルに着替え、20種類ほど保有する香水のうち、シトラス系の爽やかな香りのものを身に付けた。匂いは人の印象としてに残る要素の一つだ。全てをトータルコーディネイトし、他人が抱く聖也という人物像を誘導する技術も習得している。
準備ができると、近くの駐車場に停めていたAudiのSUVに乗り六本木へと向かった。
20分ほどでミッドタウンに到着した。沙耶はスタバの前に設けられたテラス席にカズと一緒にいた。
「よう聖也、よく来たな。夜遊びに付き合うなんて珍しいじゃん」とカズが片手を上げて言った。
「沙耶にどうしても来てほしいって頼まれたからさ、とりあえず来てみたんだ」と聖也は応じる。
「お前もたまには遊んで自我を開放した方がいいさ。モデルだの芸能人だのが来るらしいぜ」と片唇を上げながらカズは言った。
カズも沙耶と同じく研究科の同級生だ。幼稚舎からそのままエスカレーター式で大学院まで進学している。両親は共に都内の大病院に務める外科医で、一人っ子であるカズは、幼少期には田園調布の自宅で激務な日々に追われる両親の代わりに母方の祖母と大半の時間を過ごしたと教えてくれたことがある。
いつもハイブランドの洋服を身に着け、外見の印象は遊びなれた金持ちの子どもだが、その一方で「おばあちゃんが言ってたけど」が口癖で、街で高齢者が困っていると声をかけるような一面も持ち合わせている。
「今日、聖也を誘ったのはね、ちょっと会わせたい人がいるんだ。大学の先生でさ、珍しくクラブに出入りしてる人なんだけど、フィールドワークの一環とかで若者が集う所に行くのが日課だとか何とか」と左上に視線を向けながら記憶を探るように沙耶が言った。
「確かに大学の先生とクラブってあんまり一致しないね。その先生は何の専門なの?」
「京帝大学の社会学研究科の助教授で、極限状態での規律性の維持とモラルハザードの発生と誘因だとかよく分からないことを研究してるんだって。アイビーリーグ様出身の聖也なら興味持つかなって思ってさ」
「その研究と若者が集う空間でやるフィールドワークは何の関係があるのか見当もつかないけど、会った時にでも聞いてみるよ」
「じゃあさ、腹が減っては戦はできぬってことでメシ食いに行こうよ」とカズが提案し、ミッドタウンにあるメキシコ料理のレストランで夕食をとった。
2時間ほどをレストランで過ごし、徒歩でクラブ「One」へ向かった。六本木は日本でも特異なほど多国籍な街で、あらゆる言語が飛び交い、酒で高揚した人々があちこちで騒いでいる。
道中、カズから、「One」には地下空間に最大収容数1000名を超えるメインフロアと各200名収容可能なサブフロアが2つ、VIP用の個室が6部屋あると事前ブリーフィングを受けた。
3人が到着した時点で、100名はゆうに超える男女が列をなして入場の順が来るのを待っていた。「One」の地上部分はテーマパークのように屋根つきの専用の入場待ちレーンが設けられている。沙耶は「こっち」とカズと聖也に声をかけると、「VIPゲート」と表示されているレーンを抜け、そのまま入場ゲートの前まで行った。
「ディズニーのファストパスみたいだね」とカズが聖也に耳打ちしたが、聖也は「そうだね」とだけ答えた。
「安住沙耶で3名の予約があると思います」とゲート前にいた黒服に沙耶は告げた。彼女は面識がない人に対しては丁寧な態度を取る。
「いらっしゃいませ、どうぞお楽しみください」と告げながら、すっと進行方向に手を差し伸べ入場を促す黒服の身のこなしはまるで一流ホテルの従業員のようだった。
地下へは下り上り共に2基ずつ設置されたエスカレーターに乗った。
地下ではまず広大なバーフロアが広がっていた。100名を超える客が酒を片手にトランスミュージックに合わせ踊っている。ここでは声を張り上げずとも会話ができる程度にボリュームが抑えられている。エスカレターを降りてすぐの場所にVIPルーム専用のゲートが設けられており、ここにも黒服が立っていた。
バーフロアの最大収容数から想定するに4割ほどの入りだ。中央にはレッドカーペットが敷かれ、まっすぐに奥にあるメインフロアへと続いている。
左右には様々な酒のボトルが整然と並ぶラックを備えた長大なバーカウンターが設けられている。バーテンが各10名ほど立ち、固定された笑顔のままスピーディーに酒を用意していく。
「じゃあ、何か飲み物ゲットしてくるけど何がいい?」とカズがドリンク係を引き受け、聖也と沙耶はコロナを頼んだ。カズは比較的列の短いカウンターを通り過ぎ、2人組の女の子の後ろに並んだ。
「なんか調子良いと思ったけど、そういうことね」と沙耶は訳知り顔で呟いた。するとカズは女の子達に話しかけ始めた。
「ほら、カズってさ、ああいう女好きじゃん?」と沙耶は顎で二人組の方を指した。共にボブのヘアスタイルでジーンズのホットパンツ、上半身はそれぞれブラックとホワイトのビキニのトップのみだ。まるで夏のビーチにいるような格好だ。
「カズってああいう子が好きだっけ?」
「本当に遊び慣れた女は苦手みたいだけどね」
15分ほどしてカズがコロナのビン3本を持って戻ってきた。
「お待たせ。ちょっと混んでてさ」と言うカズに対して、一部始終を観察していた二人は「ありがとう」とだけ返した。
「さて、ここの本丸に参りますかね」
カズは一人先にレッドカーペットに沿ってメインフロアに向かって歩き出した。途中、バーフロアの各所に設置されているスタンドテーブルにいる先ほどの二人組に向かって「LINEして」と叫んで行った。
「ところでさ、さっき沙耶が言ってた助教授はどこにいるの?」と聖也は尋ねた。
「今日はVIPルームにいるらしいよ。大学の先生がどういうツテでVIPルームに入れるのか分からないけど、今日の予約も先生の知り合いって人に取ってもらったんだよ。先週に別のクラブで会ってさ、その時にお願いしといたんだ。後で行って紹介するよ」
そう言った後、沙耶は聖也の手を取り、引っ張るようにして歩き出した。
メインフロアに一歩足を踏み入れると、爆音の重低音が一定の四つ打ちのリズムを刻んで聖也達の体の芯から揺らす。
最大収容数1000名というこのフロアはすでに人で溢れ、満員になるのも時間の問題といったところだ。周りにいる男女は誰もが汗で額に髪の毛が張り付き、通常であれば寒いほどに下げられた空調でも彼らをクールダウンさせるには不十分なようで、汗をしたらせながら踊り狂っている。先に行ったカズを見つけ出すことは至難の業だ。
「びっくりした?」と沙耶が耳元で叫ぶように言った。
視線を沙耶の方に向けると、予想していたよりも沙耶の顔が近く、思わず目を逸してしまった。米国での生活が長かった沙耶にとってはスキンシップの許容範囲は日本文化におけるものよりも広く、時にそれが聖也を困惑させる。
「すごいね、人が。予想以上だよ。カズは見つけられないね、これじゃ」
「まあいいじゃん。どうせナンパで必死だから邪魔しなくていいよ。ってことで踊るぜ!」
再び聖也の手を取り人ごみの中へと引っ張り込んでいく。誰かの足を踏んだり、肩がぶつかったりしても誰も気にする風でもなく、狂ったように踊り続けている。
会場に充満する汗と共に放たれた熱気が未だ場に馴染めずにいる聖也を不快にする。
沙耶の外見はすれ違う男達を惹きつけ、誰もが「おっ!」という表情を見せるが、一緒にいる聖也を彼氏と思うのかすぐさまがっかりした表情を見せる。
沙耶本人は気にする様子もなく、人々の間を軽快にすり抜けて行く。人1人が通れる隙間は聖也が抜けようとする頃には閉ざされ、結局誰がにぶつかりながら道をこじ開ける他なかった。
沙耶がようやく立ち止まったのはフロアの中央で、360度全方位に踊る群れが押し寄せている。聖也は大音音量の空間ではまるで蟻の吐息ほどでしかないため息をつき、はしゃぐ沙耶に合わせて楽しむ青年を演じる。
「あー疲れた。休憩」と沙耶が言ったのはそれから1時間ほどが過ぎてからだった。定期的にジムに通いトレーニングを重ねているだけあり体力がある。
「そろそろVIPルームでも見にいこっかな。例の先生がいるから紹介するね」
「じゃあ自己紹介の練習しなくちゃ」と聖也が応じると「すでにちょっと聖也のこと話といたよ。先生の話を理解できる秀才ですよってね」と言いながらウインクをした。
一旦バーフロアまで再び踊り狂う塊を抜けて戻り、VIPルームへと続くゲートに向かった。カズにはLINEでVIPルームにいることを通知しておいた。すでにカズを見つける努力は放棄している。
沙耶が内藤という名を出すとすぐさまゲートを通過することができた。ここでも黒服は慇懃に応対した。ここに集う連中にはそのサービス志向がどれほど効果があるのだろうか。
ゲートの外からは見えなかったが、ここにも昇りのエスカレーターがあり、ビル1階分ほどの高さまで上がった。そこには赤の絨毯が敷きつめられ、ダウンライトが照らす通路が続く。
しばらく歩いて行くと、右手側にドアが6枚、5メートル間隔で奥に向かって並んでいる。外資系の一流ホテルを彷彿とさせる仕様に沙耶と聖也は素直に驚きの声を漏らした。
ちょうど真ん中のドアの前に立ち、沙耶は備え付けのインターホンを押した。インターホンには小型カメラが内蔵されており、中から来訪者を確認できるようだ。
1分ほどが過ぎた頃、ゆっくりとドアが開かれた。そこには無地のグレーのTシャツに、ベージュの短パンという格好の男が和かな表情で立っていた。身長は170センチほどで、そのラフな格好に対して、フレームレスのメガネと七三に綺麗に整えられているヘアスタイルから、第一印象には垢抜けないインテリという表現が聖也の頭の中に浮かんだ。
「君が聖也君だね。沙耶さんから少し君のことを聞いているよ。一言でいえば天才や秀才で形容される人間だ」
男は内藤と名乗った。それから、ごく自然な動作で差し出された右手に、反射的に握手する格好になった。
「ありがとうございます。しかし、僕はそのように言っていただくような部類の人間ではないですよ。強いて言うなら機会と運には恵まれただけです」
「そう謙遜なさらずに。ここではなんですからどうぞ中へ」
通された室内は壁一面が黒で統一されていた。入り口から最も遠い場所は全面ガラス張りになっている。
まず最初に目についたのは、3メートルほどの高さの天井に吊るされた、小ぶりながらも燦爛たる装飾が施されたシャンデリアだった。その真下には真紅の巨大なソファーが2脚、丸型のガラステーブルを挟んで置かれている。テーブルの上には、空のシャンパングラスが2つとチーズが数切れ食べのされた皿。内藤以外は室内に誰もいないが、聖也の視線の先を追った内藤が「後で1人連れが来ます」と言った。
「聖也、こっち来てみなよ。メインフロアが見下ろせるよ。こんなにゆったりとしたところにいるとあそこに戻る気がしなくなってくる」
沙耶に呼ばれて行ってみると、沙耶と同じ感想が口をついて出た。確かにもう一度あの踊り狂う群れをかき分けて行くのはとても困難に思えた。人々から発せられる熱気によってガラス越しのメインフロアがまるで蜃気楼のようにグラグラと歪んで見えるほどだ。
部屋のインターフィンが鳴り、再びドア口に行った内藤に続き、ワインのボトルや料理が載せられたワゴンを押す黒服が入ってきた。
「ワインとフィンガーフードを用意しましたので、乾杯をしましょう」
黒服が部屋を出るのを見送り、内藤が赤ワインをグラスに注いでいった。10万ほどの価格がするイタリア産だ。乾杯の後、聖也は沙耶から聞いていた内藤の研究について聞いてみた。
「端的に言うと、社会が混乱に陥るほどのモラルの破綻がどのような条件で発生するのか、またその境界線を見極めるための研究です。社会混乱は非日常的な暴力、例えばテロでも起きうるでしょう。インフラが整備され、ビジネスが高度化された日本では考えにくいですが、食料、電気、ガス、水の供給が停止するような事態もその要因になるでしょう。要は生命の危機が迫る時、我々の秩序ある社会は崩壊する可能性は格段に高まり、天変地異、戦争やテロ、引き金は多様に考えられます」
「失礼ですが、その境界線に関する研究では、そのように想定されうる誘引が分かっているにも関わらず、先生はさらに何を研究されているのでしょうか?」聖也は尋ねた。
「確かに、誘引を研究するのであれば、わざわざ小難しい言葉を並べたてずとも、多くの人が感覚的に理解していることをまとめれば良いでしょう」
内藤はそう言って一呼吸置いて続けた。
「しかし、私の興味は尽きない。そこに人の本能を感じるのです。どれだけ文明が進歩しようとも、人類が誕生して以来変わらない人間の本質的な部分、醜く自然体な部分をね。私はそういった人の本来の姿を大規模な環境で解き放ってみればどうなるのか、空想の中で何度もシュミレーションしてきました。子どもの頃からね。その行為の帰結は、全てを失うことになるということです。今ある地位、名誉といった個人レベルのことではありません。現実に起きれば現在の当たり前にある世界観を一新してしまうほどのインパクトを持つことになると私は考えています。それが成熟した資本主義であればあるほどにね」
内藤の表情には大きな変化はないが、危険で冷酷な感情の表出を彼の目に宿るのを聖也は感じていた。
内藤の言う世界は、小説や映画で描写される混沌とした無秩序な世界だ。貨幣は価値を持たず、法治国家にあった権力は失われた世界。
国家という単位が失われても人が集まればコミュニティができ、そこにはルールが生まれる。世界地図上で線引きされている国境とは、結局のところ同一の言語、文化、慣習など、何かしらの共通事項を持つ集団同士の境界線が拡大したものだ。仮に現在の世界が破壊されたとしても人類は長い年月を費やして再び同じようなコミュニティを形成するだろう。
内藤が語っているのは、こうしたコミュニティを内部から破壊するある種テロ行為に等しい。
聖也にとって、破壊行為や大量殺人自体は驚きを感じるものではない。自分自身がプロの殺し屋として生きてきたのだから。ただし、興味が純粋な狂気となり、それに取り憑かれた人間を見るのはこれが初めてだった。
沙耶の方を見やると、内藤の話を聞いてもさほど驚いた様子もなく退屈そうにすら見える。
その時、部屋のインターホンが鳴った。内藤がワイングラスを片手に応対のために席を立つと、沙耶は「ゴミゴミしたダンスフロアの方がまだマシだったね、ごめんね」と小さな声で詫びた。
内藤に続いて、一目でモデル体型と分かる女性が入ってきた。現に彼女は度々テレビで見かける人気モデルで、切れ長の目とロングヘアが東洋の美女と評されている。
20代前半の女性に人気の雑誌モデルとして表紙を飾る常連だった彼女は、今では女優業にまで進出し、演技力の高さにも定評がある。
「レイカだよ、えっどうしてここにいるの!?」
聖夜の腕を掴んで激しくふり続ける沙耶と相反して聖也は冷静だった。先ほどの内藤の話と態度、交友関係などから、きな臭い何かを嗅ぎ取っていた。明確なことは何一つないが、数々の危険な状況に身を置いてきた聖夜の嗅覚は、かすかに漂う狂気の息吹を確かに感じていた。
「やはりご存知ですよね。一応ご紹介させてください。レイカさんです。共通の友人を介して知り合ったのですが、私のような冴えない学者の話に興味を持ってくれて、仲良くさせてもらってます」
「はじめまして、レイカです。突然お邪魔してしまってすみません」
「こちらが沙耶さんで、聖也さんです。非常に優秀な方で私の話にも興味を持って聞いてくれてます。という私の願いですけどね。お二人とも慶政の大学院生です」
はしゃぎたい衝動をギリギリで自制していることが見て取れる沙耶が続いて言った。
「はじめまして、まさかレイカさんにお会いできると思ってなかったのでびっくりしました。よろしくお願いします」
「聖也です。よくメディアで拝見してます」
そっけない聖也の挨拶に対して、とっさに沙耶は非難の目を向けてきた。「それだけ? レイカだよ」と。
二人の関係性に興味を持った聖也がそのことを問おうとするよりも前に、内藤が説明を始めた。
「多くの部分を省略してしまいますが、レイカさんには私が進めていこうと考えている取り組みの広報活動に従事して頂こうと考えています。幅広い世代にリーチしていかなければならないのですが、若年層から30代前半までの方々からの支持が高いレイカさんこそふさわしい存在です」
レイカは職業用であろう笑みを浮かべながら黙ってうなずいている。
「で、その取り組みとは何か、気になるでしょうが今日のところは簡単にだけ説明させてください。要は私の理論を現実世界で実証実験する、ということです」
聖也はとっさに内藤が先ほど自分の研究テーマだと言っていた「モラルの破たん」という言葉を思い浮かべた。これを実証実験するとは一体どういうことか。レイカを広報要員に据えるということは、数人の被験者に対して行う小規模な実験とはわけが違うことは想像に難くない、だが。
「誰もが異なる人生を共通の文化圏、言語圏、国籍、出身地などを境界線として生きていますよね。法律から慣習、ビジネスマナーに至るまで、我々はルールを認識し、モラルを順守すべきと意識的・無意識的に考え行動する。仮に人は欲望のままに生きることが是とされていれば、おそらく人類の歴史は短命に終わったことでしょう」
「でも、今もどこかの国で戦争が起きてるし、犯罪もなくならないですよね」 沙耶が素朴な疑問を問う。
「時に暴君や独裁者がとある土地を統治しようとも、正義の名のもとに彼らの力は奪われた。そして、別の大義を掲げ権力を持つ存在が誕生する。世界大戦後の米国のように。政治だけでなく経済も含め、ルールはヒエラルキーの頂点にいるものがある程度自由に書き換えることができるとも言える。このルールを根底から覆すにはどうすれば良いのか。それを問い続けた仮説を私は実証してみたい、そう考えている。犯罪がなくならないのは残念ながら当然のことだと言えるでしょう。ルールは序列を好む。持たざるものを生み出し、奪い取ることで分配を試みる輩が現れる。しかし、ルールの力は強大だ。はみ出しものを許容することはしないばかりか、罰することで反抗する意思を削ごうとする」
聖也はそこで内藤の語りに割って入る。
「つまり、何をしようと言うのですか?」
「言うは易しですが、人々の認識するルール、これはこう言うものだという固定観念は違うんだと伝えてあげればいいのです。最初はセンセーショナルな形でメッセージを放つことが重要ですがね」
内藤はすっと聖也の目を見据えた。
「具体的なお話を聞けば、お二人にも私の実験メンバーとなっていただく必要があります。もちろん、拒否することも可能ですが、その場合には相応の覚悟をしてもらう必要があります」
そこで聖也はこの空間から辞するべきであると判断した。
「そうですか。であれば今回はこの辺で失礼させて頂きます。僕達には少々高度なお話のようです」
「そうですか。それは残念ではありますが仕方ありません。ただ、なぜか私は聖也君がそのうち加わってくれることを信じて疑わないのです。近いうちにお会いできること、楽しみにしております」
それまで黙って話を聞いているだけだったレイカも、「またお会いしましょう」と言った。
「ルールを超越することはあなたには容易なことですよね。私は知ってますよ」
ソファーから立ち上がろうとする聖也にだけ聞こえるレベルの声量で内藤が呟いた。
返答する代わりに、聖也はただ笑みを浮かべながら首を傾げることで、意味がわからない振りを装った。自分の正体がどこまで知られているか分からない状況に、内藤に対する警戒レベルを最高度に上げるほかなかった。
VIPルームからバーフロアへと下るエスカレーターの途中、聖也の後ろに立つ沙耶が「ごめんね」と何度も繰り返している。
「聖也、本当にごめん。あの人、考え方が危ないって知らなくって。もう少しで巻き込まれそうだったし。何がしたいのか分からなかったけどさ」
「気にすることないよ。でも、どうやってあの人と知り合ったのかもう一度教えてもらえる?」
人が少ないバーフロアの一角に移動して横に立ち並びながら沙耶が言った。
「最初に会ったのは、あの外苑東通り沿いにある『White』ってクラブでさ。一緒に行ってた友達から紹介されたの。その時は、フロア激混みだったからVIPルームで一休みできるならってことで話したんだけどね。今日みたいな話は一切なくて、単に若者のカルチャーに興味を持ってるおじさんって感じだった。どんな音楽が好きかとか、よく遊びに行くところとか、すでに会話の内容忘れちゃうぐらいの話だった」
沙耶は必死に思い出そうとしている風だが、些末な記憶の断片を集めるのに苦労しているのか、足元を睨むようにして苦い表情をしている。
「それで、先週別のクラブでも会ってさ。どういう流れだったか忘れたけど、その時に私の周りにいる優秀な人の話になって、聖也のことちょっとしゃべったのね」、そこで何か重要なことを思い出したようにはっと顔を上げた。
「あっそうだ、あの人、これから始めようとしている実験のブレーンになってくれそうな人探してるって言ってたんだ。でも、正直どうでもいいって感じで話してたから特に突っ込んで聞いたわけじゃないけど、その時に聖也のことを紹介してってお願いされたの」
これまで徹底的に秘匿してきた聖也の裏の顔についてたったの2週間で調べることができるとすれば、内藤のネットワークは想像以上に太く広大だ。社会の暗部にまで情報網が張り巡らされていることは確実と言える。何を知られているのか、それをまずは明らかにしなければならない。
そして、内藤の計画の目的は甚大な被害をもたらす破壊行為であることは疑いようのないことのようだ。
結局、カズと合流できないままクラブを後にした。沙耶はずっと落ち込んだ様子で、何を問いかけてもただ「うん」と返すのみ。
アルコールを口にしたことから車で帰るわけには行かず、タクシーで帰宅し改めて取りに来るのも面倒だなと逡巡しながら、近くにあった早朝まで開いているカフェに沙耶を誘った。ミッドタウンの自宅まで徒歩で帰ることもできる沙耶も帰りたくなさげな素振りをみせた。
深夜1時前だったが、皆夜の街に繰り出した頃合だったようで、店内は比較的空いていた。4人掛けのソファー席に隣り合う形で座った。
とりあえずアイスコーヒーを2つ注文し、無言のまま時間を過ごした。
「もう、あのおっさんのことの気にするの止めよっと。せっかくの週末を台無しにされたくないしね」
「よかった、ようやくいつもの姫が戻ってきたね」
「うん、落ち込み続けるのは私らしくないしね。すいません、デザートメニューください」
沙耶は深夜である事も気にせず、相当なボリュームが売りのパンケーキを注文した。
「ところでさ、聖也は最近恋してるの? 教えてよ、最近あんまりじっくり話すことなかったしさ」
「彼女はいないけど、まあ探し中かな」
「どんな子がいいの? 清楚な感じ? なんかそんな気がする」
「いや、まあ派手な子は苦手だけど、なんだろう、笑顔が似合う子かな」
「何それウケる。ジャニーズの模範解答じゃん」
「でもさ、笑顔重要じゃないかな? 一緒にいるだけで穏やかな気持ちになるというかさ」
「私みたいなのも笑顔が似合う子に入るのかな、どうなのかな? 」
沙耶はおどけたような口調ながらも、聖也の反応を探るようにじっと目を合わせる。
沙耶から恋愛対象として見られている可能性をはじめて認識する一方で、嬉しさよりも罪悪感を感じる。本当の自分を沙耶が知れば、今のように聖也の答えを期待の眼差しで待つことは決してないだろう。
「入るよ、もちろん」
ほんの数秒だが一呼吸置いてから、沙耶は「パンケーキ、そろそろ来るかな」と会話の文脈からすると唐突なことを言う。
思わず聖也がふっと笑うと、沙耶もつられて笑う。
しばらくして運ばれてきたパンケーキを2人で食べていると、テーブルの上のスマホがLINEのメッセージの着信を告げた。
カズから一言「ヤバイ」。
沙耶にもメッセージが同時に来ており、2人して「何が?」と返信した。
「クラブの外に出たら、血だらけの人が倒れてんの、しかも何人も。通り魔みたいだけど、犯人逃げたっぽい」
「とりあえずフラワーってカフェにるから来て」という返信に合わせてGPSの座標も送った。
カズからは「分かった」に続いて「女の子をタクシーに乗せたら行く」と返ってきた。直後、聖也と沙耶は無言で顔を見合わせた。
15分後、興奮気味に顔を赤らめたカズが早足で店に入ってきた。聖也と沙耶の対面にどかっと腰を下ろすなり口を開く。
「いや、マジもうびっくりしたよ。あとちょっと早く店に出てたらブスっと俺がいかれてたかもしれないよ。せっかく捕まえた女の子なんてビビっちゃって帰るしか言わなくなったしね」
何台ものパトカーのサイレンが聞こえてくる。現場が騒然としているに違いない。
「犯人はどんなやつだったか分からないの?」沙耶が身を乗り出して問いかける。
「一応、近くにいる人に聞いたんだけどさ、信じられないけど女の子だった可能性があるみたい。なんか六本木の夜に似つかわしくない感じで、薄い水色のワンピースを着たお嬢様風だったんだって。学校にいる時の沙耶みたいな感じかな」
「そんなお嬢様風の私だって、夜になればクラブ遊びだってするんだし、人は見かけによらないよ。いかにも危険な人の犯行じゃない方が怖いけどさ。聖也はどう思う?」
「うーん、どうだろう。仮にお嬢様が犯人だったとしても驚きはそれほどしないかな。人が抱えている闇の部分って表面上からは分からないからさ。時々ニュースになるような通り魔事件の犯罪者なんか見てると、人は抱えきれないほどの悲しみ、怒り、劣等感なんかを蓄積すると、周りの人間や環境とか、場合によっては国家にまで肥大させたりして自分の外側に悪を見出そうとする。悪いのはこいつらだってね。道ですれ違う人達のことを見た目以外で分かることってほとんどないよ」
カズは考え込むように額に手を当て、鼻ですーっと息を吐く。
「いつ爆発するか分からない爆弾みたいなもんか。でもさ、考えてみてよ、どこに爆弾があるか知らずに、東京には世界トップレベルの人口密度を誇るほど人がいて、日頃は強く危険を感じることなく過ごしてる。これって不思議だよね」
人の狂気が爆発した現場を経験したカズはそう言うと、酷く恐ろしいものを見ているかのような視線で2人を見つめている。
沙耶があえて感情を出さぬよう努めているような表情をしている。
「人は本来正しいことを望むっていう性善説を信じてる、少なくとも願望としてね。それとこれまでの人生で危険な目に合わなかったっていう過去の実績が自然と鈍感にするのかもね。ほら、聖也が実は女たらしだったら私は男恐怖症になるよ」
重い雰囲気の会話に小さな笑いが起きた。
それからしばらく間、話題を切り替えてカズのナンパ話などたわいも無い会話を続けていた。
机の上の沙耶のスマホがわずかに振動し、メールの受信を告げた。
笑った表情のままメッセージを確認した沙耶の顔が急に曇り出す。
「これってどういう意味かな? あの先生から」
聖也に向けられたディスプレーには、「先ほど通り魔事件があったようですがご無事でしたか? 物騒なことが起きるものです。こうしたことが度々あると外出もままならないですね。狂気は伝染しやすい。くれぐれもお気をつけください。聖也君にはまたお会いしたいですね。後日には今夜お話したことに大変興味を持たれることになるでしょうから」
根拠は何ひとつないが、内藤と通り魔事件が聖也の頭の中でぼんやりと接点を想像しだした。
結局、2時間ほどいつものような会話を続け、始発待ちの人々が店内に集い出した頃合いに店を出た。
沙耶をマンションの下まで送り届けてから運良く通りがかったタクシーをつかまえ乗りこんだ。まぶたを閉じながら、もう一度事件について逡巡するも情報に乏しく何ら考えも出なかった。自宅に着いてからは、すぐベットに向かい眠りに落ちた。