佐奈
「………佐奈、捕まって」
「っ!? 鯨!?」
柚希が驚愕の表情を浮かべる。
鯨が選択したのは、佐奈だった。
「鯨……」
佐奈が涙を浮かべ、微笑みを広げ、掴まれた腕を掴む。女の力、それも運動部でもない女子高生では、人ひとり持ち上げるのに苦労と労力がかかる。
「ちょ、ちょっと! は、早くしてよっ! おち、落ちちゃう!」
「………」
柚希の叫びを、二人は聞かない。
佐奈は登るのに必死で、間違って鯨を落としてしまわないように、慎重に登る。鯨は冷静に、柚希という人物を分析していた。他人を蹴落としてでも助かりたい、柚希という人間を。
佐奈があと少し、というところまで来た時、最悪な事が起きた。柚希は待ってられないと、握力が弱まってきた手に力を込め、這い上がろうと四苦八苦している。なんとか腕を階段に乗せれば、まだ登りやすくなる。だが、それが裏目った。腕を階段のところに置いたのだが、段差だったらしく勢いよく叩きつけたため痛みに驚き、一瞬身体が硬直する。硬直した体は不自然な力が加わっており、ちゃんと階段の平らな場所に腕を置いていなかったため、服の摩擦が上手く作用せず、滑る。
「あっ!?」
声を上げた時には、遅かった。柚希の体は、完全に空中にいた。
「ひっ―――」
落ち消えゆく姿……は希望の糸を掴みとる。
「ぐあっ!?」
あと少しで登りきる佐奈の足首を、掴んだのだ。
「ああぁぁああぁあああぁああああ!!」
「ひっ、やっやだっいやぁああ!! 助けてぇ!!」
佐奈は引きつる足の痛みに悲鳴をあげ、柚希は一寸先に舞い降りた死に混乱する。二人分を支える力など鯨にはなく、少しずつ、佐奈の体が闇の中へと溶け込んでいく。
「くっ……こ、このままじゃ……」
力を込めるも、腕力がない鯨にはどうすることもできない。懸命に引っ張り上げようとする鯨に、何とか耐えようとする佐奈を、柚希は混乱しているがゆえに、正常な判断ができず、仮面をつけることさえ忘れ罵倒した。
仮面をつけることが、柚希の生きる技術だったはずなのに。
「な、なにしてっんのよっ! はやっ、はやくっ助けなさいよっ!」
「だ、黙って……」
「いっ、いつもわたっ、しをバカにしてんだからっ! あんた達がっ! 助けるのは当然でしょっ!!」
言ってはいけなかった言葉だ。
鯨は急速に心が冷えていくのを感じた。
当然、当たり前。
やらなきゃいけないこと。
システムのサポート同じ、そこにあるのは業務的な機械作業。
柚希は鯨と佐奈が、自分を助けるのを当然と言う。
友達だから、ではなく、
友情だから、ではなく。
自己中心的にしか、考えてない発言。
「……ろ」
「う、うぅうぅぅ……?」
佐奈の耳元、囁かれる。足には柚希がぶら下がり暴れて痛みを発しているが、耳元で、鯨が呟く。
「……ちろ」
「うぁ……鯨?」
鯨は真っ直ぐ見下して、柚希を見て、言った。
「落ちろ、落ちろ……落ちろ落ちろ落ちろ落ちろっ! 落ちろ! 落ちろ落ちろっ!」
「く、鯨……?」
「あんたなんか落ちちゃえ! 死ねっ! 死ね死ね死ね落ちろっ!」
「なっ……!? ふ、ふざけんなっ! 散々、散々良い想いしてきた癖にっ!」
「うっさい死ねっ! お前なんか死ね! あんたが死ねば助かるんだよ!」
罵倒の嵐。
非難の応酬。
そんな軽い言葉では片付かない。二人の間には、心の臓を貫かんとする刃が、煌めいていた。投げかけ投げ返る言葉の砲弾。一言一言に殺意が宿り、敵意が心を削っていき、悪意が蝕んでいく。
佐奈は、佐奈は――
「はんっ! このままだと佐奈だって痛っ!」
憎悪をぶつけていた柚希だったが、手に痛みが走り言葉を詰まらせる。何事かと見れば、佐奈が柚希を蹴っていた。蹴落としていた。
「なっ!? さ、佐奈なにして」
「死ねっ! 早く死ねっ!」
佐奈は鯨の味方。必然に近い決断。当然の帰結。振り下ろされる断頭刃が、柚希の手を削っていく。じりじりと、じわじわと。命を削り下ろしていく。
「痛っ、や、やめてよ! 何すんのっ!?」
「早く死んでよっ! じゃないと、じゃないと私と鯨まで死ぬでしょっ!?」
「そう……早く、早くお前なんか死ねっ!」
恐怖はない。後悔はない。悔しい、恐ろしい、妬ましいの、感情の余裕はなかった。
あるのはただ、圧倒的な混乱と激昂による負の高ぶり。
二人の人間に向けられた刃は、確実に柚希の心を切り裂き、精神を削り殺していった。
流れる涙は何の涙だろうか。震える唇は何を耐えているのか。
押しつぶされるように痛み苦しい胸は、何を想っているのか。
「……し」
言葉の暴風の中、柚希は、全身全霊を持って自分をぶつけた。それしか手段が、残されていないから。
「人殺し!」
「なっ、何を」
「人殺し! 人殺しっ! お前ら私を殺そうとしてるじゃないかっ! この人殺しっ!」
「うっさいっ! 死ねぇぇぇぇぇぇ!!」
佐奈のかかとが、柚希の額を引き裂いた。
大きく揺れる体に、離された手。
ふわりと、不思議なことに滞空する時間が訪れる。
無重力の世界。
地球から解き放たれた、今まさに縛られる瞬間が終わる柚希だから先に味わう事のできる、感覚。
視線が交わり交差する。
「あ―――」
何かを発しようと口を開けたが、次の単語を繋ぎ出すことは叶わず、真っ暗な闇の中へと、吸い込まれていった。
選択肢→①殺す
➁殺さない