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おまじない  作者: 針山
2/11

螺旋階段


 心の重さに比例して、動かす足も速くなっていく。

 柚希を下駄箱に待たせ、戻る途中に電話をかけてみたのだが、圏外で繋がらなかった。先ほど見た、螺旋階段が頭を過る。不安が、募る。良くない事が、起きているのではないかと。

 バカバカしいと笑った、おまじない。まさか、おまじないではなく、お呪いだったのでは、と。

 違いなど、解らず、字面が少し、不気味になる。良くないモノを、呼び寄せたのではないかと。そう考えれば、あの雀の鳴き声や螺旋階段の説明がつく。

 ありえない現象。

 起きえない現認。

 例えおかしな事だったとしても、おなしな事が起きる何かをしたから起きたわけである。それならば、やったことは一つしかなく、さらにそのおまじないの中心にいる人物は鯨以外いない。

 助けなきゃ、と焦る。鯨を助けるのは、佐奈でなければいけない。他の誰でもない。鯨が好きな彼でもなく、友人である柚希でもなく、誰よりも彼女を愛している、佐奈でなければ。

 佐奈は俗に言う、同性愛者だった。

 不器用で、けれど健気な鯨は佐奈の心を刺激され、鯨の為なら何でもすると愛しさが溢れ母性のようになっていた。恋人が恋人に対する感情の延長線。

 自分の性癖が、世間から見た場合におかしいと認知されるのは理解していた。それでも、人が愛する事を止められないのは、太古の生物から小難しい哲学者、果てにはアインシュタインまでもが理性では説明のつかないことだと語っている。それなのに、佐奈のような人種は、他のみなと同じことをやっているだけなのに、好きな事を否定される。

 幾度も貶され、幾度も拒まれ、幾度も傷ついてきた。

 異性が好きなのが当然。同性が好きなのは不純。歯噛みする。歯痒い。好奇の視線が混じり、嫌悪の視線が絡み合う。腹立たしくもあるが、耐えるべき試練。欧米の菓子のような視線。こちらの常識と、あちらの常識が違いすぎて、常識が意味を成さない。

 極彩色に包まれた人間関係の中、佐奈は信念を持って人と接してきた。

 好き嫌いを、一段階の上の単位で表す。

 敵か味方かではなく、個人として見てくれる信頼に値する人間に対し、佐奈は心を許すことに決めたのだ。

 例え敵であろうと、正当に評価する人間を、佐奈は求めた。

 鯨は純情であり常識があり、個人として見てくれはしないかもしれない。

 それでも、鯨は清純潔白であるから、理解しようと努力してくれるはずだ。偏見でモノを見ようとせず、本質を見ようとする。柚希はバカだから、そういったことも含めて理解せずに解ってくれるだろう。解ってもらわなくても構わないが。

 佐奈がたった数年で考え導き出した、わずかな日数で人間性を見極めた、友人。佐奈ではない人が好きで、その人の為に行うことだとしても、鯨の幸せの為に我慢する。

 足を止めそうになる思考を無視して、佐奈は階段を駆け上がった。踊り場に出たと思った瞬間、

「!?」

 黒い影が目の前に落ちてきた。

 人を死に至らしめる破滅的な音を響かせ、影は手足を投げ出し、暗い世界でも鮮やかに知覚できる鮮烈な色彩を撒き散らす。

 赤黒く変色していく学生服。

 それも女子が着るモノ。

 背筋と脳髄に戦慄が走る。

 体中を電気信号が駆け巡るような発見に似たものではなく、半ば脊髄を分断された痛みに畏怖に強張る感覚。

 目の前の光景が信じられない。

 何が起きた。

 何が落ちた。

 恐る恐る、無機物の香りがする影に歩み寄る。

 今、この学校で残っている女生徒と言えば、誰か。

「……鯨?」



 柚希は手持無沙汰に、つまらなそうに床に腰かけていた。お尻が冷たいが我慢できないモノではないので、立っているよりはマシだろうと直接座る。周囲に誰もいないのをいいことに、胡坐をかいてだらしない姿勢だった。佐奈がくれた飴は、分別のできていない、入る穴は違うのに落ちる場所は一緒という意味を成さないゴミ箱の中で眠っている。あんなに甘ったるいモノ、いつまでも食べている気になれない。

 女子には珍しい部類に入るが、柚希は甘いものが好きではなかった。より正しく言えば、好きなものがない、と言った方がいいかもしれない。

 食事も、衣服も、全ては他人に合わせるためのモノ。

 柚希が好きなものを選んでも、他人が好きとは限らない。

 だからか、暇つぶしというものが苦手だった。暇なんてない。そんな生きるのに勿体ない時間は、持っていなかった。潰すのは暇ではなく、人間関係で生じる不具合。うまい具合に馴染める、互いの距離だ。相手がいないと、ひとりだと何もできず、暇を潰す物を何も持ち合わせていない稀有な柚希の前に、人影が視界の中に姿を現した。

 鯨が来たのかと視線を上げると、顔を確認する前に、人影は糸が切れたマリオネットの如く、受け身も取らずに無防備に地面へと叩きつける形で倒れ込んだ。意識がある倒れ方ではなく、意識のない倒れ方だった。演技だとしても、人が倒れる時は怪我をしない形で、痛みのない形で倒れようとする。その配慮が一切ない、渾身の一撃に部類する衝突。額から落ちたであろう衝撃と弾んだ頭。髪の毛が散らばり、あたかも虫の死骸を集めたツボを叩きつけた有様。怖気と寒気が鼻の奥を刺激する。

 だが、それよりも、異常で異状な情景は、光景となって世界を埋め尽くす。

 背中に、鈍く鋭く光る、恍惚の刃。

「ひっ!」

 喉が痙攣したような声をあげる。何が起きた。何が倒れた。人影は学生服を着ており、それは女子のものだった。近づくことを拒む無機質の気配を漂わせながらも、柚希は浮かんだ疑問を口にする。今、この学校で残っている女生徒は、下りてくるのは誰か。

「……く、くじらちゃん?」



 名前を呼ばれた気がした。

 振り返るも、誰もいない。ただただ長い階段が続いている。どうしたのかと尋ねられ、慌てて顔を戻す。何でもない、と笑顔を浮かべてみると、彼は笑ってくれた。茜色の差す廊下。同じクラスの彼との蜜月。甘い吐息を口に、彼との会話は飽和する。コップに注がれたハチミツが、粘り気としつこさを内包した液体が満たしていく。

 垂れる一筋が、長く遅く糸を引く。零れ出した事に気付くのに、時間がかかる。一度零れれば、タールの如く苦い感情。彼の前方に私がいて、彼の視線の先に彼女がいる。彼が焦がれ想う、私じゃない相手。好きという感情よりも強い、独占と束縛を兼ね備えた愛。だから、独り占めする為に、背中に隠したナイフを、会話の中に紛れ込ませる。

 甘い甘い青春。

 甘い甘い恋心。

 淡いのはいつだって思い込み。

 私の恋は、親友によって打ち砕かれる。



 確認するのが怖い。

 現在の時刻を考え、落ちてきたところを見るに、先ほど儀式をした階からとなれば、自然と人物は絞り込めてくる。誰もいなくなる時間を狙って、この時刻まで待っていたのだ。誰もいないのを確認して、儀式を始めたのだ。ならば必然、今目の前にある死体と成り果てた物体は、愛しい愛しい、鯨以外にありえない。

「あ……あ、あ……」

 足が震える。立っている事が困難なほど、揺れ動く膝頭。滲んでいく世界の中、何故か目前の死体だけは網膜に焼き付いたのか、ぶれることなく、そこに存在し続けていた。

 揺るがず、真実だと、突き付けられる。

 見たくない。目を逸らしたい。吐き気が込み上げてくる中、頭を死神に鷲掴みにされ、動かすことができずにいた。目の前の少女を、突き落とした死神。ポタリ、ポタリと、垂れてくる。湿度と嫌悪が程よく混ざり合い、怪奇する液体。自然と、視線は落下してくる上空へと向けられる。そこには、刃物を持った人影が、真っ黒なシルエットの人影が、視界の端に焼き付く。


「ひっ、ひゃあああああああああああああっ!!」

 ドクドクと音が聞こえてきそうな勢いで、血液が体から這い出ていた。蛆虫が死体に群がる光景と似ていた。眼球が飛び出るほど凝視するも、動く気配はない。普通なら、死体に視線がいき固まってしまうだろうが、柚希はバカだった。バカであることを演出するために勉強し生き抜いてきた、正真正銘のバカ。だからこそ、柚希は人影が倒れた事実に恐怖した。倒れる理由。それは、誰かが刺さなければ倒れない。つまり、今この場にすぐそこに、刺した人物がいるということ。

 必然、当然、視線を上げた先には、黒い人影が立っていた。

「っ!?」

 声なき悲鳴を飲み込んで、震える足を叱咤し、逃げなくてはと立ち上がる。立ち上がらない。腰が、抜けていた。笑ってしまいそうなくらい、動かない。衣服のように柔らかく、持ち上げればだらしなく垂れ下がってしまう。

 気配がした。モノが動き空気が振動し、微細な流れの変化を感じ取る気配。逃げることを封じられた柚希に残された手段は、知らせるだけ。

「こ、来ないでえええええええ!!」


 悲鳴が聞こえた。上下どちらか解らないが、絹を裂く切羽詰まった金切声。断末魔の前の、まだ助かる生きた声。誰かに何かが起こった。何が起こったのか、様子を見に行った方がいいかもしれない。

 恐らく――だろうと、階段を駆け――る。

 悲鳴は断続的に聞こえ、混乱している事が伺える。誰に何があったのか解らないが、聞こえる声を無下にすることはできない。誰かが助けを求めているのなら、手を差し伸べるのが当然だ。声が近づいてくる。過剰な運動に肺が非難してくるが無視して、惨状に飛び込んだ。そこには、頭を掻き毟り天井を見つめ絶叫する佐奈と、腰を抜かし泣き叫ぶ柚希が相対していた。

「え、ちょっと、二人とも?」

「ひぎゃ……あ、あ……」

「く、ぐるな゛ぁぁぁ」

 見開き天井を凝視する佐奈が、口を限界まで開き、唇が切れるのも構わず、声を発しようとするも、声になりきれず零れ出る音波が渦巻いている。頭を抱え必死に這いずる柚希が向かう先は壁だったが、壁があるのに気づいていないのか、無理矢理捻じ込もうと必死に体を押し付けていた。挙動は違うが、二人とも、何かから逃げ否定している。

「佐奈! 柚希!」

 鯨の呼びかけに、最初に反応したのは佐奈だった。茫然に近い表情を浮かべ、壊れた歯車が強引に噛み合わさるぎこちない、緩慢な動作で、鯨に焦点を合わせていく。体の震えは極限まで達しており、携帯のバイブ機能のようだった。

「あ……あ、あ……?」

 佐奈の瞳に、薄暗い光が戻ってくる。ティッシュにガソリンを浸し、真っ暗闇の中火を点け、遠くから燃え上がる様子を観察してみよう。残滓には、鼻を摘まみたくなる気分の悪い、燃えカス。今の佐奈の、瞳。

「く、くじらあああああああ!!」

 足を引っかけながらも、それでも懸命に、足を引っ張る重力に逆らい、膝を、心を、想いを、前へ、前へ、前へ、前へ、進める。ようやく辿り着いたゴール。倒れ縺れる体。支え切れない鯨は一緒に倒れるが、痛いほどキツク抱きしめる佐奈が、怖い夢を見て泣く子供のようで、放っておけない。

「だ、大丈夫? どうしたの、何があったの?」

「くじゅ……ぐるら゛ぁぁぁ」

 人が本当に泣く時、体面を気にせず無防備に泣く時、心を映す。がむしゃらに、体裁を整える発想もなく、懸命に訴える。

 恐怖で人は泣く。

 安堵で人は泣く。

 佐奈は先ほどまで恐怖で泣いていたが、今は安堵で泣いていた。鯨は機敏に理解したが、何故恐怖から安堵へシフトしたのか解らない。何かが起こったはずだ。佐奈と柚希が二人とも恐怖し泣き叫ぶような事が、起きたはずだ。佐奈を抱きかかえあやしながら、鯨は柚希に目を向けた。柚希も鯨に気付いた様子で、唖然とした表情を浮かべ見てくる。何か言おうとするが言葉にならないのか声に出せないのか、パクパクと動かしていた。

 普段なら、解らなかった。

 いつもおっとりと、どこか抜けている柚希が取り乱したとしても、日常の延長なら、気づけなかった。

 パクパクと動かす口の動き。

 佐奈と同様に目を見開き、凝視する様。

 大丈夫と声をかけ、優しく手を差し伸べるいつも通りの行動に、鯨は移れなかった。

 気が付いた。

 この現状が、この状態が、この惨状が、気づかせた。

 余計な事に。

 余分な事に。

 柚希の口の動きが、解ってしまった。

 柚希の表情が、解ってしまった。

 対照的な佐奈がいたからこそ、解ったのかもしれない。

 柚希は、柚希を見て佐奈のように安堵するのではなく、恐怖の涙を流しながら、訳が解らないといった感じに口を動かす。


 『なんで、生きてるの?』


 読唇術なんて出来るわけなく、できなくても解るほどに、柚希は目で、顔で、口で、体で、心で、語っていた。

 『なんで、生きてるの?』



 佐奈が落ち着くのを待って、改めて話を総合する。何があったか、何を見たのか、辻褄を合わせるのではなく、地図を広げる。今現在、どこと何処が繋がり、始点と終点の位置を確認する。

「つまり、二人とも女子生徒が殺されるのを見て、私が殺されたと思ったのね」

「うん……」

 その後、二人は次の人物を見た。つまり、殺された人間がいるのなら、殺した人間も当然いる。黒いシルエットで、明確な姿を見たわけではないが。話し終えた佐奈は、未だ動揺を隠せずにいた。ぴったりと鯨に寄りつき、もう離さないと腕を絡めている。死んだと思った友人が生きていたのだ、ここまで心配してくれることに若干嬉しくもあり鯨は優しく佐奈に接して、柚希を盗み見る。初めて見る人間が、そこにはいた。いつものちゃらんぽらんとした、『バカ』である柚希は鳴りを潜め、神経質に親指の爪をかじり苛立つ柚希がいた。瞳は濡れていて、未だ恐怖から立ち直れていない様子だが、鯨は先ほどの柚希と見比べる。

 鯨が生きている事が不思議がった、柚希。

 死んでいてほしかったような、感情。

 鯨が死体役であったが為に、第三者から見ればそうとは思わなかったであろう感情が、湧き上がる。

 湯の底から登っていく泡の、疑念の塊。

 柚希は、本当は、何を望んでいたのか。

 鯨が死んでいる事を、望んでいたのでは、ないのか。

 疑念はいくつもの泡となって水面を覆い、疑惑となって破裂する。

「ねぇ、柚希」

「……なに」

「二人が見た、犯人の共通点は、ナイフを持ってたって事だよね」

「……知らない」

「え?」

「知らない。私が見たのは、背中に刺さったナイフ。それ以上、何も見てない」

「……そう」

 佐奈が見たのは、階段の上から落とされ絶命した死体。しかし、垂れる血液の後を追い、上を見上げれば、そこはナイフを持った人間がいた。刺して、突き落とした。加えて柚希が見たのは、ナイフで刺して、倒れた女生徒。二つの死体は同じもので、犯人は同一人物なのかも解らないが、それ以上に謎なのが、二人の位置だ。

「佐奈。佐奈は、私を探すため、階段を登ったのよね」

「うん。先に下りた、あの階段を下りた鯨が心配で……」

「それで、柚希は下駄箱で待っていた」

 柚希は声を出さず頷く。

「二人とも違う場所にいたのに、なんで私が駆け付けた時は、向かい合うように同じ場所にいたんだろ。それに、さっき佐奈が言った、螺旋階段」

 鯨が下りて行ったという、地獄の底に繋がるような無限の螺旋。すぐに姿が見えなくなった鯨だったらしいが、下りている本人は別段気づくことはなかった。だが、今改めて思えば、気づかない方がおかしい。いつまでも下り続けていた不合理に、何故鯨は気づかなかったのか。夢を見ていたような気もする。愛しい彼の事を考えるあまり、彼と会話していたような……。

 柚希は呼吸を整えて、気持ちを整理していた。螺旋階段を見つけた時も、あのままでは佐奈が下りて行ってしまいそうだったので、危険な道はやめて安全な道へ行くよう導いた。

 隠す必要はない。柚希は、生きる願望が強い。バカであろうとする事も、生きたい願望の副産物だ。

 生きるのに貪欲な柚希。突然訪れた死の恐怖に取り乱したが、柚希は前向きに考えるようにする。ネガティブに考えるのは簡単だ、死に繋がる事は、大抵簡単にできている。無意識に、首から下げているお守りを服の上から握る。願い祈るのは楽でいいが、効果が発揮されるかは微妙だ。だからこそ、『おまじない』になんて頼る鯨を内心ではバカにしていた。労力を使うとこは、そこじゃないだろうと。願い祈るだけで物事が片付くなら、柚希はバカになどなっていない。気休め程度の、心の支え。握り締め、未知の道を開拓する。

 考えろ、考えろ、何をすればいいのか、何をしなければいいのか、考えろ。現状、事が起き始めたのは『おまじない』を行ってから。必然、どんなに骨董無形だとしても、原因はこれ以外に考えられない。窓の外は藍色の空を浮かび上がらせ、星々は世界の変異に怯えたのか、顔を出しさえしない。太陽に照らされ輝く事ができる月さえも、折角舞台に登場できるチャンスだというのに姿を暗ましていた。現在の状況を改めて観察し理解する。時間は均等に経過している。つまり、馬鹿げた例えだが、異空間に閉じ込められているわけではなく、現実世界にいるという事だ。脱出しようとすればできるかもしれないが、恐らく螺旋階段やあの人影が邪魔をするだろう。実際、下駄箱にいた柚希は跳ばされた。

 ならば、生き残るための次の一手は。

「ね、ねぇくじらちゃん」

 調子が戻ったのか、柚希が鯨に甘えた声で問いかける。その声質に、ひどく嫌悪する佐奈がいた。裏路地で娼婦が媚びる時に使う笑みを浮かべ、カラフルなキャンディーよりも甘ったるい声は、吐き気がするほど憎々しい。憎悪が生まれ、動揺する。柚希の喋り方はいつもこんな感じであるはずなのに、何故今更、そのような事を思ったのか。

「……なに?」

 鯨も不愉快に感じたのか、隣に寄り添う佐奈だけが感じ取れる警戒色の声色を発する。自分と同じ感情を抱いてくれた安堵と喜びが、佐奈の脳内を駆け巡り、掴む手に力が宿る。

「変な事が起こったのって、『おまじない』をしてからだよねぇ。もしかしたら、悪い方に『おまじない』が起こることって、あるんじゃないかなぁ~」

「そんな話、聞いた事ないけど……」

「で、でもこのままだと怖いよぅ~だ、だから、とりあえず、『おまじない』をなかった事にすればもしかしたら」

 柚希の言葉に、佐奈は先ほどの嫌悪感が一蹴された。素晴らしいアイディアだ。これで上手くいけば、鯨の恋は失敗に終わる可能性が生まれる。『おまじない』の効力を見るに、今おかしな事が起きている事は明白なのだから、もしかしたら本当に二人は結ばれてしまうかもしれない。それを阻止できる提案を、あのバカがしてくれるとは、まさに天啓の閃き。

「そ、そうね……そうだよ。ねぇ、柚希。おまじないを終わらせる事できないの?」

「……でも、それだと折角」

 鯨は渋る。鯨は唯一、何も体験をしていないから、言える。恐怖を、不安を、心が砕かれそうになる、想像を絶した不可思議な体験をしていないから。だが柚希に打ち込まれた楔は根深く、必死に説得する。

「私もさなちゃんも、殺される場面を見てるんだよ~殺すって、かなり強い想いがないとできないと思うの。そんな悪い空気が、くじらちゃんの恋を応援してくれるなんて思わないよぅ」

「それは……そう、だけど……」

「ねぇ、鯨。今日のところはとりあえず、中止しよう? また今度、ちゃんと手順とか確認して、やり直せばいいじゃない」

 佐奈と柚希の説得により、鯨は渋々ながらも儀式を中断し終了させることに納得した。儀式を中止する方法は、儀式を繰り返すことらしい。つまり、同じ教室に行き、同じ魔法陣を使い、違う願い事をする。つまり、願いは大丈夫ですと、断りの連絡をするのだ。行う時も呆気ないが、やめる時も実に呆気ない。コックリさんでさえも、もう少し捻ったことをするのではないかと思わなくもないが、独自に生み出されたその学校だけに流れる『おまじない』なんて、所詮その程度。コックリさんの派生でしかない。

 三人は慎重に、物陰から誰か飛び出して来ないか、捻じ曲がった景色が変化しないか、あるはずのない幻聴が響き始めないか、注意しながら、注意深く歩き出す。中央を歩くのは鯨で、携帯を懐中電灯代わりに使い照らしている。異様に長い廊下に気付いたのは、佐奈だった。右手側に佐奈、左手側に柚希を抱え、動きにくそうにしながらも恐怖を感じているのか離れない三人。鯨は未だ不可思議な体験をしていないのには、何か理由があるのだろうか。その理由も解らないが、新たな異質に気づいたのは佐奈だった。

 先が見えない、廊下。

 終わりのない、廊下。

 泣きだしたい。怖くて堪らない。限界というものは意外と低く設定されているものであり、崩壊とはもっと低いところに設定されているものだ。佐奈が現状の異変を教えようと口を開いた瞬間、鯨が向きを変えた。唐突に、左に曲がったのだ。長い廊下が続いていたのに、何故曲がったのか。疑問が頭に浮かぶ佐奈だが、解答はちゃんと用意されていた。階段。階段があった。

 忽然と消える階段が、突然と現れる。

 対応が追い付かない。思考が間に合わない。

 展開が早すぎて、怖がる暇がない。畳みかけるように襲う異常が、すでに正常に成りつつあった。

 けれど、あの教室に向かう活路が開けたのは事実。もしかしたら、佐奈と柚希ではこの迷宮の迷路の怪奇に取り込まれてしまうが、鯨は違うのかもしれない。何が原因で大丈夫なのか解らないが、何も体験していないのは鯨だけだ。今まで以上の信頼と安心を、掴む腕に携え、佐奈は鯨に導かれるまま進んでいく。


 柚希も当然、気づいていた。佐奈の方が早かったのは事実だが、いくら注意して速度が遅いとはいえ、いつまで経っても階段に辿り着かなければおかしいと考えるのは当たり前だ。柚希は考える。この中で頼りになるのは鯨だと。根拠は鯨が怪異に遭遇していないのと、明確な目的地を知っているからだ。

 柚希と佐奈は跳ばされた。本来いた位置からどこかに跳ばされたので、自分たちがどこにいるのか解らない。近場の教室を見れば解るかもしれないが、何が起こるか解らず、また信用もできない。移動中に駆け付けた鯨ならば、どこへ向かえばいいのか知っている。どこまでも続くと思われた長い廊下だったが、鯨が左を向いたことで切り替わる。何時の間にか、階段が現れた。推理は確信へと変わる。今起きている怪異は、鯨に手だしできないのだと。

 生き残るため、柚希は一層鯨用の仮面を着け直す。


 階段が見えてきたので歩を止めた。その際、両腕からさらに強く掴まれ、園児をあやす保育士の気分を味わう。空気が生臭い。肥溜めのようなはっきりした異臭ではなく、体臭に近い、じわりじわりと滲み出る、喉が引きつり吐き気を催す臭さ。それは両腕に群がる、二人の人間から発せられていた。震える佐奈を見ると、頬が紅潮し、目には怪しげな光が灯り、すり寄せるように鯨に寄り添ってくる。体の部位を、少しでも多く鯨に密着させたいのか、気味が悪いと感じてしまう吐息の荒さ。ドロリとした、感情のタール。反対の柚希は、揺るぎない瞳で前を見据え、またもやいつもの柚希とは雰囲気が違っていた。ただその瞳は、誰も見ていない。真っ直ぐ前を、素直に自分を、辺りの周囲を見ていない。掴まれた腕を見るが、この手が離れない保証は、見捨てない保証は、ない。いざとなったら、使われてしまうかもしれない。バカの、柚希に。

 生唾を飲み込む。このまま、本当に儀式を終わらせていいのだろうか。謀れているのではないかと、鯨は疑心暗鬼になる。もしかしたら、佐奈は鯨が好きな人と恋仲なのでは、それで邪魔してくるのではないのか。回り始めた螺旋の思考は止まる事を知らず、永久機関のように、止めどなく回り続ける。思考の渦に巻き込まれ、高波に襲われ脱することができず、もがき苦しむ中、かすかに引っ張られ先を促された。難破した船から投げ出され、必死の思いで掴んだ浮き輪を、横取りされる恐怖の心境。だが、これだけ怯えている二人が、騙すだろうか。友人を信じようと、鯨は虚勢を張り一歩、踏み出した。ところで止まった。

「……鯨? どうしたの?」

 佐奈が尋ねるも、答えない。ここに来て初めて、鯨が恐怖を表情にした。

「わ……わた、し……どっちから、来たんだっけ……?」

「……え?」

「わか、わかんない……え、あれ……私、下りたの? 上がったの?」

 思い出せない。自分がどこに向かって走って行ったのか、駆け――たのか、解らない。


 人生とは都合よく進むなんてことはなく、誰にでも平等に、誰にでも均等に、不幸は舞い降りてくる。

 誤算だった。まさか、安全だと思っていた鯨さえも、毒牙にかかっていたとは思ってもみなかった。となれば、頼る必要はなく、頼れるのは自分だけ。柚希は自然に、鯨から手を放していた。


 軽くなった。重さが消え去り、身が軽くなったと言えばいいのか、付いていたはずのものが離れた感覚。軽くなった方に視線を向けると、不安そうな演技をする柚希が、胸に手を当て、鯨を見ていた。

 違う、これは違う。

 この柚希は鯨が知っている柚希ではない。

 まさかこの柚希は、佐奈が言ってた黒い人影が化けているのか……などバカな妄想を抱く自分に呆れつつも否定しきれない。手を放した理由が、解らない。いや、見当はついている。使えないと、思われたのかもしれない。

「……ごめん。思い出せない」

「く、鯨のせいじゃないよ!」

 佐奈が明るくフォローする。

「窓の外から見れば、多分……」


選択肢→①上

    ➁下

    ➂解らない


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