虚像
鯨はそれだけ言うと黙った。柚希も解らない。何故、助けられたのか。何故、助かったのか。
気が付くと螺旋階段は消え、いつも通りの階段になっていた。眠りから覚め、覚えていない夢を思い出す霧散した気分。跡形もない情景を懸命に脳内で再生させるも、残滓は欠片も残っておらず、考えるだけ無駄。思考放棄を余儀なくされる。
佐奈がじっとりしとした、陰鬱な瞳を柚希に向けているが、誰も気づかない。
白昼夢のような、幻想と幻覚の螺旋階段に魅入られているのか、三人はしばし座り込んだままだった。
授業中、彼へ目線がいってしまう。
見ないようにと意識すればするほど、想いの通りに目線は彼へと繋がり、慌てて黒板に向き直る。午前最後の授業は、誰もが倦怠感を滲み出し、退屈な台詞を吐く教師の手をぼんやりと見ていた。
校庭で行われている体育を羨ましげに見つめる者。
黒板の上方に設置されている時計を見て、残り時間を確認する者。
注意されることを厭わないのか、携帯を取り出し遊ぶ者。
彼は真面目に授業を聞いていた。
彼の斜め後ろ、そこに親友がいる。
親友も真面目に授業を聞いているが、時たまちらりと、彼を見る。
私と、同じように。
ざわり、と刃が蠢く。
乾いた弾ける音を響かせ、鞄の中に仕舞っているはずのナイフが存在感を発してくる。
求めているように。
潤いを、穢れを、弔いを、意義を。
扉を開け、またおまじないの儀式をした教室に戻ってきた。三人とも考え込み会話らしいものがなく、自分の世界に入っているのか視線も合わせようとしない。
カラスの鳴き声が聞こえる。
「ん?」
最初に気付いた者はいなかった。三人とも、目線は下に、重い空気を放っているせいで、認識が遅れた。声に吊られ顔を上げると、そこには、
「こんばんは」
見知らぬ女子生徒が、笑顔を向けていた。
彼女は倉住早弥と名乗った。
「こんな時間に誰か来るとは思わなかったよ」
苦笑を浮かべながら言う早弥だが、三人の反応は芳しくない。怪奇現象を止めるためにおまじないをしなくてはならないのに、早弥がいては始められない。いつまでいるのか解らないが、早く出て行ってもらわなくては。
「あ、貴女は何やってるの?」
鯨の問いかけに、早弥はやや困った表情を浮かべた。
「何をしてるのかって言われると、困るかな」
「困る?」
「いけない事、してるの」
片目を瞑り可愛さをアピールして、早弥は悪戯小僧の笑みを作る。佐奈は妖艶と感じ、鯨はあどけないと覚え、柚希は仮面と見えた。
三人は三人とも、自分と同じ人間だと感じ取る。
心の奥底にある、一目に見せられない部分。誰も言えない感情の原点であるからこそ、誰も解らない。全員が共通の、矛盾した認識だと。
「……あのね、私達、これからおまじないをしようと思うの」
「鯨?」
鯨が秘密にしなくてはならない情報を漏らしたことに、佐奈は非難の声をあげるが、鯨はそれを目で黙らせ、大丈夫と小さく呟いた。大丈夫、私と同じだから。
「おまじない?」
早弥は首を傾げ、聞き返す。早弥の口元が、緩んだ笑みを浮かべいた。
あらかたの説明を終え、鯨はすでに儀式の準備をしている。佐奈も手伝い、机などをどかしていた。その様子を柚希は黙って眺めていた。早弥に話したのは、ルール違反になるのではないかと思われたが、儀式を始める段階ならともかく、目的の儀式は終了しており、中断するために行うのなら問題ないだろうと鯨は言った。そもそも、すでに何かが起きている現状、儀式は誰かに見られていたのかもしれない可能性があり、今更多少ルールから外れても問題ないと判断したのだ。柚希の隣では、早弥がもの珍しげに二人を見ていた。おまじないの話を聞き、同じ年頃だからか興味を抱いたようだ。早弥と名乗る少女に、柚希は戸惑っていた。自分と似た部分を感じるのだが、そんな人間、初めて会った。ドッペルゲンガーと言えばいいのか、鏡を見ている気分になり、似ているよりも同じが近い。
そもそも、柚希と同じような人間は沢山いるだろう。仮面を被り、自分を隠し、苦しんだり、諦めたり。だが、自分と同じだと理解させられるような人間に会ったのは、初めてだった。
強制的に、意図的に、作為的に、一緒だと告げられている。
「ねぇ、柚希さん」
同じ作業を延々と続けるのに飽きたのか、早弥が内緒話をする程度の音量で囁く。柚希は未だ早弥について明確な判断、友達になるべきか、味方にしておくべきかつかなかった為、結局いつも通りのバカの仮面を取り付け対応することにした。
「……なぁにぃ?」
「私と貴女って、同じね」
「え……?」
「いいよ、別に。仮面を着け続けるのって、苦しいでしょ」
柚希が感じていたのなら、早弥が感じるのも当然だ。惹かれあう。理解する。自分と同じ境遇の、自分と同じ人間。鏡を見る以上に、そこには柚希がいた。
「あの二人、仲いいね」
「……友達だからね」
「その言い方だと、柚希さんは友達じゃないみたいね」
「あんたも同じなら、解ってんでしょ」
「ふふ、そうね。ねぇ、なんで柚希さんは協力するの?」
「何が?」
「こんな下らない儀式、協力しなくてもいいじゃない。帰ってもいいんじゃない?」
「……帰りたいけど」
「螺旋階段やお化けだっけ? でもそれって、おまじないをしたいと思う、あの二人がいるからじゃない?」
あの二人がいるから、その言葉に、柚希は反応する。思わず顔を早弥に向けると、早弥は張り付けた笑みを向けてくる。柚希と同じ、仮面の笑み。
「原因はあの二人よ。今帰れば、きっと柚希さんは無事に逃げられるよ」
「逃げられる……」
「そう、今ならまだ間に合うよ」
「でも……」
「逃げた後が心配なの? なんで逃げたかって」
「私は明日も会うし、これからも会わなきゃいけないし」
「だぁいじょうぶぅよぉ」
早弥は真っ黒な仮面に球体の白い穴と、白い三日月を顔に作り出す。柚希が作り出す仮面が身を守る為の防御手段ならば、早弥が張り付けた仮面は攻撃手段に近かった。自分を守るために、他者を傷つける類。
「儀式やっちゃったんなら、中断なんて出来るはずないものぉ」
「でき……ない……?」
「おまじないって、そんな生半可なものじゃないと思うわ。こっくりさんとかだって、同じでしょ?」
「あんた……何か知って」
「これがラストチャンスよ、柚希さん」
言葉を遮り、人差し指を柚希の唇に当てる。なぞり舐る早弥の指に、柚希の唇は蹂躙される。
「一緒に死ぬか、一人生き延びるか」
体の奥底、心よりも深い溝に嵌まり込んでいる、割れ目の付近にある、根底を鷲掴みにされた気分を味わう。
「あれ? 柚希は?」
作業を終え、鯨が振り返ると、壁に背を預けているのは早弥一人だった。先ほどまでいた柚希は、いつのまにか姿を消している。
「トイレだって~」
早弥がにこやかに行先を告げるが、佐奈は盗み見ていた。早弥と話していた柚希が、逃げるように教室から出て行くのを。
「いいよ放っておけば。それより、さっさと儀式やっちゃおうよ」
「でも、柚希がいないと三人揃わないし……」
儀式は三人で行うのがルールだ。柚希がいなくては完成することは叶わず、残念ながら柚希がトイレから帰って来るのを待たなくてはならない。
電気もつけていない部屋は暗くなり、刻々と時間は過ぎていく。もう学校に誰もいないのだろう、人の気配はなく、明かりのついている教室も見えない為、電気を点けることも叶わなかった。中々帰ってこない柚希に痺れを切らした鯨が、迎えに行くと立ち上がる。
「佐奈と早弥さんは待ってて、すぐ戻るから」
「あ、私も……」
「はぁ~い、佐奈さん、一緒に待ってよ?」
「あ……うん……」
鯨が教室を出て行くのを名残惜しそうに見届け、ため息を吐く。その様子を、早弥はくすりと笑いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべ見ていた。
「あら、私じゃ不満?」
「え、いや、そうじゃないけど」
「ふふ、ねぇ、せっかく同じなんだから」
「え……?」
暗い室内、体の輪郭さえはっきり見えない中、異様な光を携えた早弥の瞳が浮かび上がる。熱に浮かされた足取りで、一歩踏み出すたびに体がそちらに傾き、前髪が早弥の顔にかかる。前髪の切れ目から見える早弥の瞳は、潤み熱を持ち求めていた。
「早弥……さん?」
「ん~なぁに?」
艶やで艶やかで、艶美で妖艶に、情欲に劣情な、魅力的で魅惑的な、笑みを張り付け、声が高くもなく低くもない、子猫が甘える危うさを伴う声色。
無意識に佐奈は後ずさり、壁が背に当たった。追い詰められる形となってしまったが、早弥の方は焦る事なく、緩慢な動作で佐奈を捕まえる。両手で顔を捕縛され、早弥の顔も近づいて、吐息が近い。少しでも身じろぎしてしまえば、真っ暗闇の中でも解る桜色の唇に触れてしまいそうだった。
甘ったるい、熟し切った桃の香りが漂い脳を揺さぶる。意味が解らない訳の分かる事態に陥り、くらり、くらりと、とろみのある砂糖水を浴びているような、粘着ではない、糸を引く唾液を舌の上に乗せ、へばり付く湿り気を感じる。
「ぁ……」
くちゅ、と肌が吸われる音が耳にまとわりつく。脳に到達する前に、首筋の感触が電撃のように体を震わせた。
「や、やめ……て……」
「どうして?」
嫌がる、軽い抵抗をする佐奈の手に早弥は自分の指を這わせ、絡みつく。抵抗が抵抗にならず、押しのけようとする腕に力は籠っていなかった。早弥は伸ばされた手を掴むと、指と指の間を嬲り、弄り、玩ぶ。蹂躙される掌が、否でも応でも意識させられる。日常で頻繁に使う事がありながらも、一本一本の指のことまで考えて動かすことのない手に、今は人差し指が絡まれ、中指が纏わりつかれ、小指の腹がなぞられている感覚を頭の中に送り込まれる。背徳的な行為に思えて、何故か解らないが恥ずかしさのあまり顔が熱くなる。
「も……む、り……」
「大丈夫、任して」
軽く触れるキスを首筋に数回、柔らかくも弾力のある唇が、時折耳を塞ぎたくなる艶やかな水水しい音を響かせる。強く瞼を瞑り、緊張と羞恥を意識しないよう、自分を保つのに必死だった。
一際大きな音が体の中で反響し、全身に痺れが渡る。行為がこれで終わったのかと、薄く瞼を開ける佐奈。視界に飛び込んできたのは、上気し息を荒くした早弥が、潤みながらも悪戯な光を灯した艶やかな瞳を佐奈に向け、今離したであろう唇からチロリと覗かせている赤い舌に、透明な蜘蛛の糸のような唾液が、佐奈の首筋と早弥の唇を繋げているところだった。とろんとした、焦点の定まっていない瞳が朦朧とした頭の中で警鐘を鳴らす。このままではいけない、流されてはダメだと、理解しながらも抵抗できずにいた。震える足は逃げる事ができず、体を支える腰は今にも崩れ落ちてしまいそう。壁に寄り掛かることで、なんとか体勢を保っているが、もうワンアクションあれば、いとも簡単に倒れてしまう。未だに佐奈の右手は早弥によって弄られており、思考に集中させてくれない。女の子特有の甘い香りがゆっくりと脳に侵入していき、理性という言葉を組み倒していく。半分押さえつけられている状態から抜け出そうと、佐奈が身じろぎすると、早弥は甘えた声を耳元に吹きかけてきた。
「……だめ?」
「……っ!?」
びくりと体が震えるのが解る。声を発した吐息に耳が反応し、蕩ける声が脳を溶かす。知らず、涙を溜め始めた佐奈は、抜け出す理由が解らなくなってきていた。思考の油断を、早弥は見逃さず、軽く、ゆっくりと、佐奈に体重を、身体を密着させ寄り掛かり始める。体温が、肌が、香りが、触り心地を伝える面積が広がっていき、鼓動と浅い呼吸の繰り返しが互いに反射しあい、吐き出した空気を交換しあい、熱く熱く感じてくる。
いつの間にか、佐奈は床に仰向けにされ、組み敷かれていた。足を固定され、腕を束縛され、身体を馬乗りに、早弥は近づいてくる。髪が頬に垂れ、握りしめた手が互いを求め離さない。震え呼吸を荒く、中断を望めない密度。早弥の額が佐奈の額とキスをして、二人の唇の距離は指一本分しか離れていない。もはや思考することが叶わない佐奈は、されるがままに動けずに、受動的に求められるまま従っていた。
「ん……佐奈さんは、誰が好きなの……?」
「……ぇ……はぅっ……」
押し付けられる体温が、火照りに際限を許さず、何処までも登らせる。
「鯨さん? 彼女が、好きなんでしょ……?」
「そ……それ、は……っ」
「私も貴女と同じ。ほら、だから、こうやって、彼女を……ね?」
「こう……や……?」
「慈しんでキスをして」
佐奈の額にキスをした。
「愛しんで舐めて」
キスした額から舌を這わせ、頬を通り首筋をなぞっていく。
「大事に扱って」
自由な方の手で、佐奈の足を嬲るように撫でる。
「大切に接するの」
上から舌が唾液で道筋を作りながら皮膚を下っていき、下から指が肌をイジメながら上がってくる。最後にヘソで交わった二つは、佐奈の心と体を蹂躙し終えていた。
「ぃ……ひゃ、ぁ……」
「こうやって、ね。鯨さんも、愛してあげればいいのよ」
歳不相応の笑みと雰囲気を醸しだしながら、早弥は佐奈を制圧する体勢で告げた。
「これが、ラストチャンス」
薄暗い廊下を手探りで歩く羽目になった鯨は、勝手に出て行った柚希に苛立ちの気持ちと、早く教室に戻りたい気持ちがせめぎ合っていた。一人で来るのは意外と怖いのではないか、という事に気付いたのは、大分歩いた後。今更引き返すより、さっさと柚希を捕まえて戻った方が早いと、鯨は闇が支配し浸透する世界を歩き続ける。また螺旋階段のように、唐突にどこか別の場所に連れて行かれないか心配もあったが、懸念は捨て置かなくては行動できず、考えないようにしていた。
やっとの思いでトイレに着き、声をかけながら開ける。
「柚希……?」
シンッとした寒気のする静けさが、トイレの中に籠っており、とても人がいるように見えなかった。違うトイレを使ったのかと思ったが、わざわざ遠くのトイレを使う必要はない。入れ違いで、どう入れ違ったのか解らないが、先に教室に帰ったのかと思った。異界とも言うべき異質な空間に連れ去られた、とは考えないようにした。不安は足を止め、疑いは思考を妨げる。今は行動し、結果を見極めなくてはならない。とりあえず戻ろうと、ドアを閉めようとした時、背中を押された。
「え、きゃっ!?」
危なく転ぶところで、それほど強く押されたわけではないのだが、たたら踏む。何があったのかと振り返ると、トイレのドアを後ろ手で閉め、悠然と笑みを浮かべる、早弥がいた。
「早弥さん?」
「ごめんね、遅いから心配で見に来ちゃった」
「それはいいけど……」
驚かせようとして押したのか、早弥は悪戯っ子の笑みを浮かべ、両手を合わせ謝ってくる。
「佐奈は?」
「ああ、佐奈さんは……ふふ」
意味ありげに笑う早弥。心なしか頬が赤く見えるが、何があったというのだろう。
「わざわざ途中でやめてあげたから、もどかしいんじゃないかしら?」
「途中? もどかしいって、なにやってたの?」
「いいからいいから、早く教室に戻ってあげて」
楽しそうに、愉しそうに弾んだ声をする早弥だったが、夜の学校というシチュエーションでテンションが上がっているのだろうと判断した。普段とは違う景色、空間にはしゃぎたくなる気持ちも解らなくないが、今はそんな悠長なことをしている場合ではない。早く儀式を中止して、安全圏に逃れたいと思っていた。
「本当に?」
早弥が先ほどまで浮かべていた表情を消し、虚ろとも取れる無表情で、問いかけてくる。
「え、なに」
「本当に、鯨さんはやめたいの?」
ゆらりと揺れた早弥の体が、ところどころホツレテ見える。砂利道で転んだような、車に引っ張られ道を摩り下ろしたような、摩擦と磨滅を行った代償に見えた。幻覚だと解っているが、早弥の空気が、雄々しく弱々しい、悲壮に満ち溢れている。
「叶えたいことがあるんでしょ? どうしても繋がりたい相手がいるんでしょ? それを付き合いでやった人達のために、やめるの?」
ぐらりと心が揺れる。なんのためにおまじないを行ったのか、なんでわざわざおまじないをしたのか、思い出させられる。
「貴女には叶えたい願いがあるんでしょう? だったら、例えどんな犠牲を払ってでも、手に入れなきゃダメ」
優しく、けれど強く、断言する。
「ちゃんと叶えて、諦めないで。例えどんなことになろうとも、やり遂げなきゃダメ」
「……早弥、さん?」
「どんな障害も、打倒さなきゃダメ」
そっと、何かを握らせてくる。暗くてよく見えず、なんだろうと鯨が疑問を浮かべていると、早弥はドアを開け、顔が闇に紛れ解らないが、少し満足そうに、呟いた。
「負けちゃダメ。逃げちゃダメ。そうすれば、手に入るんだから」
「ちょ、ちょっと早弥さん!」
鯨を無視しして、早弥はドアを閉めてしまった。慌てて後を追いかける形でドアを開けると、そこには誰もいない。先に教室に戻ったのか、廊下には闇が侵食し境が見定められない状況となっていた。
月は出ていないが、それでもトイレの中よりもは廊下は明るく、改めて何を持たされたのか見てみると、それは割かし大きな、鋭意とした、ナイフだった。
階段を駆け下りる。早く、早く逃げなくてはと、柚希は走っていた。
若干引っかかるものがあるが、生き延びるにはこの場から脱出しなくてはならないというのは同意できることで、柚希は一刻も早く学校から離れる為、足を動かし続けていた。あと一階下りるだけになった時、背後から声をかけられる。
「柚希さん、危ないよ」
「えっ?」
瞬間、足を止めてしまう。
勢いがついていたので、簡単に止めることはできず、踏ん張る形で強制的に止めた。
足は止まり、足の裏は地面を踏みしめられなかった。
何か、丸い物を踏んだ感触が広がる。
「へっ、やっ……!?」
ぐるん、と世界が回り、視界が跳ね上げられる。
頭が落ち、次に肩を殴り飛ばされ、背中を蹴られ、頬を弾かれ張り倒される感覚に包まれる。
階段から転がり落ちた柚希は、額から、頭から、肩から足から腕から、血を流し、動かなくなった。
かつん、と柚希の近くに、どこから現れたのか、まあるい飴玉が落ちてきた。
教室に戻ると、柚希はまだ戻っていないようで、それだけでなく早弥の姿もなかった。いるのは佐奈だけであったが、佐奈の様子もおかしく、背中を預け座り込み、具合が悪そうに見える。
「佐奈? 大丈夫、どしたの?」
「ん……ぁ……なん、でも……ない……っ」
「辛そうだけど……」
「だい……じょう、ぶ……だから……ん」
「そう……」
訝しがりながらも、佐奈の言葉を信じて引く。佐奈の体調が悪そうに見える以外、他に変わったことはなかった。教室は出て行く時のままで、机や椅子も後ろに寄せてある。儀式を中止するにはあと一人足らず、けれど中止する理由も曖昧になってきた。
今ならできる。
佐奈は何があったのか、疲労困憊の様子で、今なら抵抗も少なく、簡単に排除できる。
鯨の、恋敵を。
佐奈がいるから、違う、振り向かれない、そうじゃない、だから今ここで終わらしてしまえば、おかしい、すべては終わり願いが叶う。
おまじないが成立する。
中止になんてする必要はなく、ちゃんと願いを叶える為に、佐奈が消えてしまえば何の問題もなく終了する。
障害は取り除かなければならない。鯨は静かにナイフを取り出し、慎重な足取りで佐奈に近づいていく。
佐奈は懸命に耐えていた。
苦しいような、苦しくないような、もどかしいような、耐えたくないような。
それでも理性を働かせ、懸命に押し止める。鯨が近づいた時は焦ったが、今は離れてくれたおかげで、少しばかり余裕ができた。唇を噛みしめ、鉄の味を広げて理性を押し止めるが、痛みは持続せず、違う色に塗り潰されていく。
「……佐奈」
声をかけられ、気が付くと鯨はまた目の前まで来ていた。
「……な、に」
「……佐奈は、好き?」
「……へぁ?」
「……私の事、好き?」
何が起きたのか解らず、何故問うのか解らなかった。まさか早弥が先走り佐奈の気持ちを鯨に伝えたのかと思ったが、思考は端から霧散し、言葉を繋ぐのも難しくなってきた。体が熱い。
「ねぇ、佐奈。佐奈は、私の」
「……すき、だよ」
なんとか、気持ちを伝えることはできた。どんな意味で問われているのか解らないが、それでも答えなければならない問いだった。友情だと思われていても、恋慕だと思われていなくても、これだけは伝えなきゃいけない言葉。
「わた……し、は……すき……」
佐奈の答えを聞いて、鯨は数瞬悩んだように見えたが、構わず言葉を続ける。それは、佐奈への問いかけの答えがどんなものであろうとも、関係がないものだったかもしれない。
「佐奈はね、私の好きな人の、好きな人なんだって」
「………?」
「だからさ、佐奈が私のこと好きなら……」
言葉を切り、鯨は右手を佐奈の目の高さまで持ち上げる。その手には、無骨なナイフが握られていた。
「私の恋のために、死んで?」
狂気、と言っていいのか。
短絡的な思考で、問題の解決には到底なりえていないことに、鯨は気づいていない。
先送りどころか回り道よりも酷く、飛び越えている。
通過点を通過することなく、着地点しか見えていない。
荒唐無稽な考え、右往左往しすぎて、五里霧中の状態。
鯨の顔を、目を見れば、もはや自分で考えることを放棄し、誰かに言われるままになっているようにも見えた。
だから佐奈は、
「…………ん」
弱々しく腕を持ち上げ、震える熱い手で、鯨の右手を、ナイフごと掴み、
「……いい、よ」
その申し出を、受けた。
「…………え?」
「……くじら」
佐奈は、もはや朦朧とする頭で茫然とする鯨を見て、微笑み―――
「すきだよ」
自らの胸へと、ナイフを向けた。
自分が何を言ったのか、何を頼みどうしようとしたのか、この時やっと、鯨は気づいた。
佐奈の胸へと沈もうとするナイフを見て、何が起こるのか想像できる。
肉を貫く感触が広がる。わずかな抵抗を感じ、次に痛みよりも熱さが広がっていく。大きく見開かれた佐奈の瞳が見え、場違いな感情だが、初めて佐奈が可愛く良い子なんだなと、思った。
「……がっ」
熱さをそのまま、痛みが広がる。
ナイフは―――鯨の胸に生えていた。
「……く、じら?」
佐奈が驚いた表情で疑問を浮かべているが、息が苦しいよりも熱く、喉にせりあがる塊が言葉を詰まらせた。
「げふっ」
佐奈のスカートに吐血し、佐奈の胸に顔を埋める形でゆっくりともたれ掛る。
「え……なんで……」
「……あ、あ……さ……な」
佐奈の手に鯨の新鮮な血液が伝っていき、先ほどまで感じていた熱さとは違う、暖かいと、温かいと感じるモノが包み込んでいく。
「は……はは……あーあ……」
鯨はずるずると倒れていき、それでも佐奈から目線を外さず、慈しむ瞳を向ける。
「わたしも……さなのこと……すき……だよ……」
透明な雫が鯨の瞳から零れ落ち、動かなくなった。
「へ……くじら……? くじら……くじらっ!?」
佐奈がナイフを自分の胸へ持っていく途中、突然鯨が抵抗し、佐奈には抵抗する力は残されておらず、反動をそのまま刺し込んだ。
偶然の惨劇か、それとも最低なお願いをしてしまった罪滅ぼしだったのかは、誰にも解らない。
「くじらああああああああ!!」
佐奈は階段を下りていた。
涙を流し、繰り返し鯨の名前を呟きながら、熱っぽい上気した顔で歩いている。
虚ろな瞳は何を見ているのか、ぶつぶつと呟きながら危ない足取りで階段を下りていく。
すると、一階へと下り終わったところで、柚希が倒れていた。擦り傷だらけの体はそれだけでなく、足が変な方向に曲がっていた。
「ゆず……き……?」
生きているのか死んでいるのか解らないが、怪我をした状態の友人を放っておくなどできるはずもなく、しゃがみ柚希に手を伸ばす。鯨を刺してしまった、ナイフを握りしめた手を。
「ゆず――」
どんっ、と腹に衝撃を感じ、次に言いようのない鋭い痛みが脳内を駆け巡る。
「が……は……あ、あ……」
柚希の手が佐奈の手を掴み、ナイフが佐奈の腹に刺さっていた。
「こ、ころされて……たまるか……」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの柚希は、血走った目で佐奈を睨む。近くに落ちている飴玉を見て、恨み言を口にする。
「こんな、もんで……殺されない……」
「あ……ゆず……き……」
「ひっ……ひひ……」
どさりと、佐奈は倒れ、徐々に意識が遠くなり、砂嵐のように視界が明滅していき、闇に溶けるように、佐奈はこと切れた。
「ひ……ひひ……わた、わたしは……生きるんだ……」
転ばされた飴玉を見て、復讐を見届けやり遂げた柚希は、気絶した。
願いは叶う。
佐奈は鯨に好きと両想いに、
柚希は発狂するも生き延び、
鯨は死して恋を続ける。
願望者の意図とはまったく違う形で、こじ付けであり強引な解釈。
そうして今日も、彼女たちは『おまじない』を信じて憧れ、語り継ぐ。
「ねぇ、恋が叶う『おまじない』があるんだって」
「なにそれ?」
「サヤ様って言って、昔好きな人に殺され―――」
(END:お呪い)。